第70話 オークの角煮


 雑貨店『紫苑シオン』の閉店時間から十五分後。バタバタと忙しない足音が響いてくる。

 ノックをするのとほぼ同時にドアが開けられた。


「「「リリさま、ごはん!」」」


 三人揃っての訴えに、リリは苦笑しながら出迎えてあげた。


「いらっしゃい。ちょうど準備ができたところです」

「楽しみですわー!」

「いいにおい……」


 さっとテーブルに着く白黒双子姉妹。

 そこはレディファーストを貫いたセオがそっと椅子に腰掛けた。

 紳士的だったのはそこまでで、席に着くや否や、お腹を押さえて嘆く。


「もう、ずっと我慢していたんですよ! 店舗の方まで匂いが届いていたから……っ」

「あら。それはごめんなさい?」


 キツネ獣人のセオの鼻は犬並みに鋭いので、拷問に近かったようだ。きゅう、と鼻を鳴らすセオをルーファスが見下ろしてふふんと笑う。


「お前など、まだマシな方だろう。俺はにほんでずっと料理長が作るご馳走の匂いを嗅がされていたんだ」

「キッチンから私の部屋はかなり遠いはずなんですが……匂ったんですね」


 もしかして、徹夜で料理長が仕込んでいた肉料理の匂いに一晩中さらされていたのか。

 それは少し、いや、かなり気の毒だったかもしれない。


『え? キミ、ずっと我慢していたんだ? バカだねぇ』


 にゃふふ、と笑う黒猫。

 ルーファスがはっ、とナイトに向き直る。


「まさか、ナイト……」

『なんのこと? ボクは真夜中のお散歩中に、偶然キッチンに迷い込んじゃっただけだよー』

「くっ……! 貴様、貰ったな⁉︎ 料理長にお裾分けを貰ったのだな! ずるいぞ!」

「あー……」


 その光景が目に浮かんで、リリも苦笑するしかない。

 リリが黒猫と客人を連れて帰省したことは料理長も知っていたので、キッチンを訪ねてきた人懐こい黒猫にきっとおやつを与えてくれたのだろう。


『ネコに塩分はダメだからって、茹でたオーク肉を食べさせてくれたんだー』


 ぺろり、と口元を舐めながら黒猫はうっとりと瞳を細めてみせた。

 いいなーいいなー、と使い魔三人が羨ましがる。

 ルーファスはその手があったか! とショックを受けているけれど、その手が通じるのはかわいい子猫だからだと思う。

 そう指摘すると、赤毛の大男が真顔でリリを見つめてきた。


「……かわいい手乗りドラゴンなら?」

「日本に手乗りドラゴンは存在しないので無理ですね。ちなみに赤毛の大男は一般的にあまりかわいいと思われない存在なので、そっちも無理だったと思います」


 もしかして、空腹を訴える客人に同情した料理長が何か恵んでくれたかもしれないが。

 落ち込むルーファスを押しのけるようにして、クロエが焦れたように叫ぶ。


「もう、そんな話はどうでもいいわ! リリさま、その素敵な香りのするディナーをくださいな!」

「クロエに同意。食べたい」

「ふふ。そうですね。では、食べましょう」

「手伝います!」


 フットワークの軽いセオがお手伝いを申し出てくれた。

 まずは丼鉢にご飯をよそってもらう。

 美味しいことは確実に分かっているようで、最初から大盛りだ。

 リリは炊き立ての白飯の上に角煮をたっぷりと盛り付けていく。

 ケチなことはしない。ご飯が隠れるくらいに重ねて、真ん中に温泉卵を割り入れる。


「うん、美味しそうです」

「ふわぁ……匂いがたまらない……」


 すんすん、と鼻を鳴らすセオにスープの盛り付けを頼んで、リリは全員分の角煮丼を用意した。

 温野菜サラダはすでにテーブルに並べてある。

 カトラリーは黒猫のナイトが用意してくれたようだ。

 クロエとネージュもそわそわしつつ、魔道冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出して皆のグラスに注いでくれた。


「では、食べましょうか。ナイトとルーファスが頑張って狩ってくれたオーク肉の角煮です」

「いただきまーす!」


 全員揃って、手を合わせて唱和する。

 リリもわくわくしながら、お箸を手にした。

 まずは、角煮だ。一口サイズの角煮をそっと口に運ぶ。ぱくり。


「んん……っ、これはすごい……」


 ゆるく噛み締めただけで、口の中に美味しい肉汁が満たされる。

 料理長はどれほど丁寧に煮込んでくれたのだろうか。

 オーク肉は信じられないくらいにやわらかく仕上がっており、舌で押すだけでほろりとほぐれた。


(脂身って、こんなに甘いのね……)


 ほろほろとほぐれる肉にはパサつきは感じない。ちゃんとジューシーでしっかりと旨味を感じた。

 甘辛い煮汁もとても美味しい。

 丁寧に灰汁あくを取ってくれたのだろう。雑味がなく、肉の良さを引き立ててくれている。


「ネギと生姜。あと、八角かしら……?」


 うっすらと魔力を感じるので、おそらくは『聖域』産のハチミツも使っているはず。

 黒糖と醤油、お酒かみりんの風味もある気がする。レシピがとても気になるけれど、それよりもこの角煮丼をあますところなく味わいたい気持ちが勝った。


「美味しいです……」


 白飯との相性も抜群だ。甘辛いタレで煮込まれた角煮とお米が合わないはずがない。


「ご飯と一緒に食べる角煮、最高ですね」


 そして、次に狙うのは温泉卵。

 半熟の卵につぷりと箸を突き刺すと、とろりと黄身が溢れてきた。角煮に絡めて食べると、ふわぁ…っと声が出てしまう。


「まろやかな味わい。美味しい」


 マナーを気にせずに、リリは角煮丼を掻き込むようにして夢中で食べてしまった。

 こんなにすごい勢いで食事をしたのは生まれて初めてだ。空になった丼鉢を前に、我に返ったリリはほんのり頬を染めてしまった。


「そういえば、皆は……?」


 夢中で食べてしまったため、皆の感想を聞きそびれてしまった。

 見渡して、リリは固まってしまう。


「ウミャーッ!」


 念話を忘れて、丼に顔を突っ込んで夢中で貪る黒猫。すっかり野生に戻っているようだ。

 野生に戻るといえば、黒猫ナイトの隣に座っていたセオがすっかり元のキツネの姿に戻って、角煮丼をがっついている。

 がふがふ、とすごい勢いだ。

 今、手を出そうものなら、確実に咬まれそう。

 ちなみにもう一人、ルーファスもなぜか手乗りドラゴンに姿を変えて角煮丼を貪り食べている。


「もしかして、小さい姿の方がお腹いっぱいに食べられるからとか……?」


 ふと思い付いたが、まさかそんなはずはないだろう。立派なドラゴンが子供みたいな──


『旨い! 旨いな、かくに! 素晴らしいぞ、かくに! やはりこの姿なら、満足度が大きい。思い付いた俺、天才では?』

「……………」


 伝わってきた念話に、無言になるリリ。

 ちょっと呆れた視線を投げ掛けてしまった。


(角煮の美味しさにすっかり皆、理性が溶けているわね)


 それはともかく、男子たちと比べて大人しい双子姉妹が気になる。

 そっと両隣に座る二人をチラ見すると──


「うっ……ぐすっ…なにこれぇ……おいしすぎるよぉ……っ」

「えっ、泣い……? だ、大丈夫ですか、クロエ!」


 ほろほろと涙をこぼしながら、スプーンで角煮を口に運ぶクロエ。

 驚いて顔を覗き込むと、気付いた黒髪の美少女がくしゃりと泣き笑いの表情を浮かべた。


「だいじょぶ、ですぅ……! あんまりにも美味しすぎて、わたし…ッ」

「ああ、そういうこと……良かったです。美味しかったのですね?」


 美味しさのあまり感極まったようだ。

 涙目ながらも、スプーンが動くスピードがすごい。止まらない。

 米粒ひとつ残さずに綺麗に平らげたクロエはうっとりとため息を吐いている。


「オークがこんなに美味な料理になるなんて、驚きですわ。リリさま」

「ん。まさか、あの醜くて弱い魔獣がこんなに絶品だとは」


 こちらは無心で平らげていたネージュ。

 空の丼鉢を宝物のように胸に抱いている。

 透き通るような青白い肌の持ち主だったはずが、今はまるで酔っているかのように瞳を潤ませて、うっすらと桜色に全身を染めていた。


「リリさま……おかわりください」

「あっ、ずるいわネージュ! 私もおかわり欲しいですっ!」


 差し出されたお皿を受け取って、リリはくすりと笑う。皆、美味しく食べてくれたようで、とても嬉しい。


 魔道コンロに掛けてある寸胴鍋のところに向かうと、ようやく理性を取り戻した男子たちも声を上げた。


『ボクも! ボクもおかわり、リリ!』

『なにっおかわりだと⁉︎ リリィ、俺のも頼む! かくに多めで!』

『ルーファスさま、ずるいですーっ! 僕もおかわりください!』


 わっと念話が襲ってきて、頭がくらくらする。もうちょっと落ち着いてほしい。


「……そんなに美味しかったです?」


 悪戯心から、上目遣いで訊ねてみると、三匹は同時に激しく頷いた。


『オークのくせに、こんなとろけそうなご馳走になるなんてビックリだよ!』

『うむ。これほどにやわらかく、甘やかな風味に仕上がるとは、にほんの料理は素晴らしいぞ、リリィ』

『美味しすぎて、変化が解けたのなんて初めて! 一口でとろけちゃったよ! こんな官能的なご馳走は生まれて初めてだ』

「わぁ……大絶賛ですね。これは料理長が喜んでくれそうです」


 だが、どれも同意しかない。

 魔素をたっぷりと含んだオーク肉の角煮は絶品だ。

 リリもおかわりを楽しんだが、皆は寸胴鍋の中身をぺろりと平らげたくらい気に入ってくれた。



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