魔法のトランクと異世界暮らし

猫野美羽

第1話 プロローグ


 古ぼけた鍵を鍵穴にさしこんで、そっと右側に回す。

 かちり、と音がしたところで扉を開ける。

 優しく頬を撫でる風が心地良い。

 思い切って、扉の向こうの世界へと一歩を踏み出す。鼻先をくすぐる濃い緑の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


(深呼吸をしても、胸が痛くない)


 もうそれだけで、彼女にはここが天国だと思えた。

 革のショートブーツで湿った地面を踏み締める。

 苔むした太い木の根っこや落ち葉が降り積もっているため、ここは少しばかり歩きにくい。

 だけど、アスファルトで舗装された道路を歩くよりも、よほど楽しい道のりだった。


「いい天気。空気は澄んでいて、とても快適」


 上機嫌で歩を進めていくと、目当ての場所に到着した。木々が生い茂る中、そこだけはぽっかりと空き地になっている。

 十メートル四方ほど、綺麗にならされた地面の真ん中に立つと、彼女はその場にしゃがみ込んだ。

 ずっと手に下げていたトランクを置いて、魔力を込めながら、蓋を開ける。


「マイホーム、展開」


 囁くように告げると、そっとその場を離れる。

 十歩ほど後ろに下がったところで、トランクが淡い光を放った。

 その光が収まると、トランクは姿を消しており──代わりに煉瓦造りの小さな家が現れた。


「うん、成功。相変わらず、わけの分からない、素敵な魔法」


 両腕を腰に当てて、彼女はその家をじっくりと眺めた。

 五メートル四方に収まるくらいの、小さくて愛らしい建物だ。

 赤茶けた煉瓦造りで、煙突付きの二階建て。

 屋根裏部屋の灯り取りは丸い飾り窓になっており、まるで童話の中の小人の家のよう。

 豪華なお屋敷ではないが、間違いなく、これが彼女のお城だった。


 玄関ドアには鍵は付いていない。必要がないのだ。家の主である彼女が招き入れないかぎり、この小さなお城には誰も侵入できない。その存在に気付くこともない。

 そういう魔法が掛けられている。


「なにせ、この異世界を救った偉大な魔女が腕によりをかけて張った特別な結界に守られている家だもの。当然のこと」


 くすりと端正な口許を笑み綻ばせながら、彼女は我が家へと足を踏み入れる。

 愛らしい調度で整えられた居心地の良いリビングに腰を落ち着けて、彼女──偉大な魔女の曾孫であるリリは、ほうっとため息を吐いた。

 そうして、己がこの素敵な家で暮らすことになった、はじまりの物語に思いを馳せた。


(あれは、大好きなおばあさまが亡くなられて、その遺産を引き継いだ日のことだ……)


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