魔神勇者と鉄血聖女の覇道録

@shinon_aoyama

Ⅰ 転移

001-召喚されました


「…そろそろ、風呂入っとくか」


 二〇二四年、八月十九日。十六時九分。

 彼は歓楽街の隅で日夜営業を続けるコンビニエンスストアの2階で暢気な声をあげて椅子から立ち上がった。少し離れた場所に敢えてセットしてあった目覚まし時計のアラームを止め、喉を潤そうと台所へ足を向ける。

 元々この店は、曾祖父母の代から続いた商店だった。両親は母親の懐妊を機に、子育てと仕事を両立するために商店をコンビニエンスストアへ改装し、父親も会社を退職。その後三十年近くこの町で暮らしてきた。息子二人、娘一人を育て上げ、独り立ちを見届けたまではよかったものの、彼だけは二年ののち戻ってきてしまったのである。

 戻ってきた経緯が経緯であったため両親は温かく迎えてくれたものの、【それとこれとは話が別】と家業を支える歯車に大抜擢されてしまったのであった。


 武男 なし

 裕美 なし

 喬也 六時から十五時、十七時から二十五時


 冷蔵庫にマグネットで貼り付けられたシフトの書き置きに目をやると、喬也は恨めしい顔にそぐわない台詞を強引に捻り出す。


「わー、たっくさん働けてうっれしぃなー」


 目が死んでいる。

 それもそのはずであると言わざるを得ないのだが、この店は歓楽街にあるとはいえアクセスと立地の微妙な悪さによりアルバイトの募集にも店頭のチラシにも全く効果がみられない。そのせいで数年前から勤めてくれている三名と両親、喬也の計六名で営業を続けており、歳の割には比較的円満な夫婦仲も手伝って、喬也の完全オフ日は週に一、二回しかないのである。

 ましてや今日は母裕美の誕生日かつ両親の結婚記念日であるため朝から日帰り温泉へと出かける予定が立ったことと、月曜日の夕方から夜にかけて都合のつくメンバーがいないことが重なり、十八日深夜からほぼぶっ続けの三連長時間勤務シフトを叩きつけられていた。

 レジカウンターの裏で舟を漕ぐわけにもいかないため、仮眠を取る前に仕込んでおいた水出しアイスコーヒーを胃に流し込むと、いそいそと浴室へ向かう。


「後輩何人か捕まんねーかな、バイト」


 ここまでの激務は新卒で入社したあのドブラックでも白旗を揚げるだろう、などとのらりくらり準備を整えたところで風呂の時間である。

 と言っても、最後のシフトまでに残された時間は多くないため、シャワーを浴びるに留まる。

 手早く髪と全身を洗ったところで、ふと気づいた伸び始めの髭。

 普段なら剃り忘れることもないのだが、仮眠明けでは脳機能がかなり落ちたままだったようで、シェーバーを持ち込み損ねていた。

 思わず、喬也は舌打ちする。

 昔から何かを仕損じた際には口をついてしまうため、よく母には叱られていた。身についた癖は中々治らず、今回も例に漏れなかったわけだ。

 使い終わった後には洗面台の棚に立ててあり、洗面所までは地続きである。使ったモノを決まった場所に戻すことがどうにも苦手すぎる父親がいるため、その悪癖が悪戯しない限りはさっと出てさっと戻る程度ならば家財がびしょ濡れになる心配はないが、その一手間が非常に億劫に感じる喬也は独りごちる。


「魔法使えねーかな、モノを引き寄せるやつ」


 昔有名な魔法使い達の映画を見た際に、遠くにあるモノを念じて呼び寄せることができる魔法を見たことがある。他にも便利な移動魔法や収納魔法、魔法の道具を目にして【あんなことができたらめちゃくちゃ楽なのに】などとないものねだりに明け暮れた。もちろん本気ではないし、派手な攻撃魔法にも目を惹かれて【打てたら気持ちいいだろうな】などとは考えたものの、よくふと落ち着けばこの現代・・でそんなものを手にしても役立てられるはずがない。

 ライフラインが寸断される心配は基本的になく、蛇口をひねればお湯でも水でも出し放題、ボタンを押せば視界は明るくなり部屋は暖かくも涼しくもなる。交通網もよく整備されており、酔って車道に四肢を投げ出した哀れな者さえいなければ車で大抵のところまでは短時間で移動できてしまうし、遠く海を越えた先に行きたければ飛行機でも客船でも使えば座っているだけで連れて行ってもらえる。

 神様の手違いで命を散らし、セーフティネットに引っかかって文明のかけらもない異世界に転生でもしない限りは劫火も暴風も極雷も氷獄も無用の長物である。

 その点、モノを引き寄せる魔法やどんなモノでも仕舞えてしまう魔法などはいくらあっても困らない。家業が商いである以上、そういう便利な魔法には自身の実情に即した欲が生じてしまうのである。

 とはいえ現在の喬也にはそんな超常の力や魂の輝きなどはもたらされておらず、一先ずのところは自らの足で床を踏み締め大事なシェーバーを取りに行かねばならない。これがまだ純粋な頭のイカれた中学二年生ならばそれなりのポーズと共に「はっ!」などと自らの隠された力が覚醒することを夢見たかもしれないが、その言動どころか思考回路だけで赤面できるのが分かりきっている喬也は風呂の扉を開けて一歩を踏み出す。

 シフトを睨めつける目とまた違った理由で目が死んでいたことを見咎める者がいなかったのは、数少ない救いである。

 住み慣れた我が家の時計の位置は把握しており、柱にかかっている五分早めの時計を覗き込む。体を反らせて確認した長針は三十五分を指していた。少し長湯をしてしまったことに二度目の舌打ちでケリをつけつつ、洗面台に立った。父親の悪癖に悩まされなかったささやかな幸運に気づくことはなく、シェーバーに手を伸ばしながらも踵を返したのだった。

 しかしこの時喬也が意識を向けるべきは風呂に持ち込み損ねたシェーバーではなく、加えて自分の黒歴史を生み出しかけた羞恥でも、差し迫る怒涛の長時間勤務シフトのフィナーレでもなかった。

 シャワーを浴びたままの体で、誰もいない家。

 喬也の足は、しとどに濡れていた。

 何気ない足取り、そう、いつもの通りの足の運び。

 グリップ力を存分に発揮できない足は体重を支えきれず、シェーバーの隣に置かれていた歯磨き粉を指で引っかけ弾き飛ばしながら、喬也の体は宙に浮いた。

 体の回転に伴い回る視界に歯磨き粉のチューブを捉えながら、喬也はやけに遅く感じる時間に絡め取られた。

 【無重力ってこんな感じなのか?】などと悠長な思考が頭を占めるが、地球の重力は喬也の脳内を慮ることもなく一糸纏わぬ肢体を床に叩きつける。


「痛っでぇ!!」


 ここまで派手にずっこけたのはいつぶりか。

 火花が散るのではないかと言わんばかりに頭皮を駆け抜けた激痛に顔をしかめる。床と後頭部が火打石にならなかった代わりの濁点を一言に詰め込むが、喬也の頭部を今も苛む激しい痛みが消えるわけでもない。

 誰も見ていなくて・・・・・・・・よかった、とホッとするのも束の間、喬也は現状の自分を冷静に捉えた。

 これ以上ないほどに綺麗にひっくり返っている。

 某正義超人と悪魔超人が死闘を繰り広げる有名漫画で繰り出される代表的な技、【キン○バスター】さながらの丸まった体勢である。

 居住スペースの間取り上、喬也の家と店舗の水場は固めて設置してある。

 そのためレジカウンターに待機しているであろうバイトには音は響いていないだろうと安堵するくらいには、頭を駆け巡る激痛の主張は僅かながら収まったようだ。

 しかし、喬也が感じ取った様子は奇妙である。

 周囲には何十もの人の気配。衣擦れと共にヒソヒソというに相応しい人々の話し声。我が家の洗面所程度の空間では感じ得ない空気の流れ。ホコリっぽい香り。

 何故かは分からないが、目を開いてはならない気がする。

 だがしかし、自分の目で確かめなければならないこともある。

 全身に突き刺さる不穏な感覚は、喬也からすれば途轍もなく嫌な予感しか与えてこない。

 時間にして僅か十数秒。あれやこれやと浮かんだ妄想を振り払うべく、喬也は状況を自らの目で把握することを決めた。

 起き上がり小法師の要領で足をハの字に広げたまま座り直すタイミングと同時に、意を決して目を開く。


 (ビュッ)


 喬也の耳には一瞬妙な効果音のようなものが聞こえた気がしたが、残念ながらそれを気に留める暇を与えられることはなかった。


「キャアアアアアアアア!!!!」


 目に飛び込んできたのは人、人、人。

 優に三十はいるであろう、喬也を見つめる人だかり。

 いずれも金髪、赤髪、青髪などなど色とりどりの髪色でありながら、マッチしてしまう堀の深い顔の数々。

 奥には豪奢な服装で椅子に体を預ける壮年の男性。口髭だけは立派だが、いかにも運動の邪魔になりそうな荷物しぼうをこれでもかと体に蓄えている。

 その隣にはこれまた目に痛い七色の輝きを全身に散りばめた女性。妙齢とは言い難いと一目見て判断できてしまうが、金だけはあるのだろう。指という指に大きい石がキラキラしまくっている。

 すぐ手前にいる三名だけは近所でよく見る高校の制服を着ており、顔の造形も純日本人風。両手に華状態で喬也を見下ろす男子生徒は高身長かつ整った顔でまさに学園の象徴と言われても納得できるくらいには羨ましく感じてしまう。

 しかしながら視界に映る人々は即座に喬也から顔を背け、悲鳴を上げている。イケメンの両隣のJK達は背中側へ隠れるように回り、不安そうにイケメンの制服の裾を掴んでいる。


 ことここに至って漸く、喬也はつい先ほどまで風呂の中で繰り広げていた荒唐無稽な誇大妄想を思い出すのであった。


「え、ウっソ」


 ふと視界の端に、白いものが映った。

 それは粘度の高い液体であり、出処を辿ると自らの股の間に位置していた。洗面所で転んだ際に、正真正銘巻き込まれてしまったカワイソウな歯磨き粉のチューブにヒップバレットをクリーンヒットさせたらしい。

 ここまできて喬也は、状況を冷静に推理する。

 時折【冷静になんてなれるわけねーだろ!!】という雑念が脳裏をよぎるが、知ったことではないと強引に振り払う。

 そして限界まで加速された喬也の頭脳は、実際には一秒にも満たない数々の逡巡の中で答えを導き出した。


 彼、相馬喬也は。

 生まれたままの姿で。

 ぴちぴちの高校生を喚び出したのに。

 勝手に巻き込まれて異世界に喚び出され。

 初対面のどこかの国の召喚者と。

 同じく初対面のどこかの国の王様の前で。

 股の間から。

 濃くて真っ白い液体を。

 盛大に撒き散らしたのだ、と。

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