小世界恋慕
かんたけ
小世界恋慕
人行きの少ないこの街には、並び立つビルディングも点々と佇む老舗もない。田舎とも都会とも言い難い草木の生い茂る凡々たる景色には、都会人のベットタウンとしてそこそこの魅力があるようで、過疎化・過密が悪化していく限界集落と大都市の緩衝材となっているらしい。
彼女も例に漏れず田舎から上京してきたたちだったが、それももう十年も前の事。
今ではもっぱら、図書館裏の花畑に腰掛け、愛しいひとを待つばかりだ。
「遅い、遅いわ。一週間は過ぎてる」
滑らかな手で古い腕時計のひび割れたガラスフィルムを撫で、彼女はむうと頰を膨らませた。まったく、あのひとはいつまで自分を待たせれば気が済むのだろうか。
記憶の中で朧げに笑う彼の鼻をくすぐってやりたかったが、思い出の中の彼は現実よりも鮮やかで温かく、頰に溜め込んだ空気でさえゆるゆると抜けていく。
「まあ、愛しいひとを待つ間ほど幸福なものはないものね。それにあのひとはルーズだから、どこかで道草を食っているに違いないわ。全く、可愛いひと」
誰もいないのに独り言を言ってしまうのは、彼女の悪い癖だ。
風に吹かれれば飛んで消えていく音に、一体誰が耳を傾けてくれるというのか。それでも話さずにはいられないのは、やはり誰かに気づいて欲しいからに違いない。
ふと、花畑を覆う柵のように立ち並んでいるフェンスの奥から音が聞こえ、彼女は「あら」と耳を傾けた。
「最近雨が続いたせいかしら。排水用の小道だったはずだけれど、川の音は久しぶりね」
ザプン、ザプンと、小川は強く波打っている。
穏やかにも聞こえる音の揺らぎに、彼女は突然大声を出した。
「いけない! 雨だなんて、あのひとは大丈夫だったのかしら!? 湿気も嫌がるくらい水は苦手でしょうに、私ったら忘れていたわ!」
彼女はここを動くことができない。それは彼女が生まれてから決められているものであり、どうしたって変えられない運命である。
愛しいひとが見つけ出してくれたからこそ、彼女は溌剌なまでにおしゃべりなのだ。
「『なんで美しいのだろう!』だなんて出会った時に言うくらいですもの。きっと綺麗好きよ。けど、あのひとは傘をさせないから、今頃、ずぶ濡れになって震えているわ…」
花畑に座ったきりの彼女が見てきたのは外の世界だけで、建物の中はおろか、家の中などに入ったことは一度たりともない。
彼女には、彼女以外の者たちがどうやって暮らしているのかを知らなかった。
水に濡れたらタオルで拭けばいいことも、どのくらいで体が乾くのかも、ましてや愛しいひとには帰るべき家がちゃんとある事すら知らないのだ。
生まれてこの方病気になった事がない彼女は、愛しい人から聞いた言葉だけを頼りに、最悪の妄想を募らせる。
水に濡れたままなら、体が冷えて風邪を引く。
風邪が悪化してしまえば、死んでしまうかもしれない。
図書館の排気管の出っ張りから雨水が落ち、彼女からポロポロと涙が溢れてくる。
彼女は顔を両手で覆い、わっと泣き出した。
「ごめんなさい。私、『会いにきて』なんて傲慢だったわ。貴方がしゃんと生きていてくれたらそれでいいの。この時計だって、態々貰ってきてくれたのでしょう? 貴方、お金を持っていないじゃない。知ってたわ。ええ知ってたの。けど、それを言うには私はあまりにも嬉しくって、結局言えなかったのよ……」
晴天の空に白い雲が差し込み、花畑をあっという間に影が満たす。
真の通った佇まいが、くしゃりと萎びてくる。彼女は顔を覆う影ごと隠し、顕になった首筋に目一杯の雨水を溜め、それが地面へ流れていくのをただ見つめた。
涼やかな朝日が傾き、昼の日差しは遮られる。
図書館の近くには公園があるらしい。そこで遊ぶ子供たちの声を、彼女は初めて聞いたような気がした。
いつも目にするフェンスの向こうの世界が、いつもより色鮮やかに見えた。
誰よりも動きたい彼女は、皮肉な事にどんな者たちよりも身動きがとれないでいる。
それが酷くもどかしいと感じたのは、一度や二度ではない。例えば、彼のように道を走り回れたら、彼女は誰よりもはしゃいで駆け回るだろう。息が切れるまで走って、遊んで、へとへとになってようやく花畑に寝転がる。
そんなささやかな夢でさえ、彼女には到底叶えられない。
「……駄目ね、私。もうおばちゃんなのに、なんだか地縛霊みたい」
「ーーそれは驚いた! 僕はいつの間にか、幽霊と話せる特殊な能力を身につけていたらしい!」
視界いっぱいに広がった愛くるしいネックレスに、彼女はパッと顔を上げた。
黒い髪、切れ長の目、剽軽な佇まいは、間違いなくずっと待っていた彼のものだ。彼は彼女が泣いていたと気づくや否や、少しだけ眉を上げてコミカルに笑った。
「やあやあ、まさかこんなに遅れるとは、我ながら己のマイペースさには腹が立つ! どれ、お嬢さんここは一つ、この生意気を懲らしめてはくれないかい?」
時間に縛られない彼は、悪びれる事なく彼女の前で髪を解いている。その姿になんだか安心して、彼女はさっきまでの不安を全て吐き出してしまった。
終いにはまた泣き出すと、彼は目を見開き腹を抱えて笑った。
「あはははは! それは君の杞憂だ。僕らと君たちでは、生活スタイルも何もかもが違うからね。心配せずとも、移動できる僕は専用の医療機関なりなんなりへ行けるから、大丈夫」
「そうだったのね。それならいいの。貴方に何かあったんじゃないかって、私、心配だったけれど、そんな優しい場所があるだなんて、素敵ね」
「…ありがとう」
嫉妬もあるだろうに、彼のいる世界を「素敵だ」と言う彼女の、なんていじらしい事か。
2本足で立てない彼は、抱きしめる代わりに、座ったままの彼女の額と己の額を擦り寄せた。くすぐったそうに笑う彼女からは、彼の大好きな陽だまりの匂いがする。
彼は周囲に余所者がいないのを確認すると、彼女の側にゴロリと横たわった。夕焼けチャイムを合図に、空はいよいよ黄昏を迎えるけれども、彼らには関係なかった。
「その赤いネックレス、とっても可愛いわ。小さな鈴も、似合ってる」
「同居人が買ってきてくれた物でね。付けてくれるまで家から出さんと言われたけれど、僕の威厳にも関わるから、ギリギリまで渋ったんだ。けど、君がそう言うなら、悪くないね」
「あら、何をつけていても、貴方は素敵よ」
「それは良いことを聞いた」
「事実ですもの。貴方が私を見つけてくれた時から、ずっと」
そう言って、彼女は彼の頬に触れる。柔らかな感触に、彼は心地よさそうに喉を鳴らした。
図書館裏の通路ともとれないような細い空間で彼女を見つけたのは、偶然だった。
春一番の風に吹かれ、良い昼寝スポットを探し歩いていた矢先。雑草の種すら入り込めないような苔むしたその場所で、彼女だけが咲いていた。
同居人の家の玄関には、聖母マリアを模したステンドグラスが飾ってある。彼女はまさに、それだった。
降り注ぐ日のベールを被り、凛と背を伸ばす孤高の者。長い間そこに座ってフェンスの向こうの楽しい世界を見つめていたのだろうに、悲壮感の欠片もない。何年もの時間、彼女は腐らず美しさを保っていたのだ。
向日葵よりも身近な太陽。たんぽぽである彼女は、十数年にわたって何度も美しく咲き誇る。
彼女はいつだって美しいけれど、あと数回、咲き着飾る彼女を見られる自分は、なんて果報者だろう。同居人とコンクリートジャングルで暮らすのは勿論愉快だけれども、長らく忘れていた自然の躍動は、いつだって彼に新たな出会いをもたらしてくれるのだ。
「君は変わらないね。変わらず美しいままだ」
愛おしげに目を細める彼に、彼女は「貴方が言ってくれたから、私は美しくあれるのよ」と幸せそうに笑う。
彼は「ああ、そうかい」と照れ隠しに言って、そのまま図書館の壁のフェンスに囲われた夕焼けを眺めた。
時間は流れ、夕日が闇夜にとっぷり浸かると、彼らの愛瀬は終わりを告げる。
うん、と伸びをした彼は、軽く毛繕いをした後、彼女に挨拶代わりの頬擦りをした。
「また来るよ」
「気楽に待つわ。どんなに長い時間でも、貴方に会えたら一瞬よ」
「…そうかい」
どこまでも優しい言葉に、彼は「ナアン」と鳴いて踵を返す。
黒い毛並みを夜風に靡かせ、飼い猫は家へと帰っていく。
彼の尻尾がゆらめく姿を、彼女は静かに見送っていた。
小世界恋慕 かんたけ @boukennsagashi
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