#23

 その日は、店がいつもより混雑していなかったこともあり、飯田さんと僕が二人とも残業をせずに仕事を終えることができた。

 仕事終わりに、飯田さんと居酒屋へ行き、お酒を飲んだ。飯田さんとお酒を飲むのは久々だった。いろいろなものを食べて、いろいろな話をした。飯田さんがやっている自営業の話なんかも聞かせてもらった。どうやらIT系の仕事で、フリーランスとして活動しているみたいだった。仕事の内容に関しては、聞いても良く分からなかったが、その他にも前職の話や、趣味の話は――飯田さんは、旅行が趣味で、日本全国回ったことがあるらしい――とても面白かった。笑いながらお酒を飲めたのは久しぶりだった。

 居酒屋からの帰り道、見知らぬ番号から電話があった。

 少し迷った後に、電話に出た。

「西田さん。お久しぶりです。タナカです」

 僕は、その声を思い出すのに、数秒かかった。

仮面の男からだ。

「タナカさん。ご無沙汰しております」

「お加減いかがですか?」

「まあ、ぼちぼちです」

「この前の件、考えてくれましたか?」

 仮面の男の声は高く、まるで脳に刺さるような感じがして、嫌な気分になった。

「いえ、まだ、ちょっと……」

「そうだ。もしよかったら、これからおうちにお伺いしてもよろしいですか?」

「今からですか?」

 時計を見ると、時刻は十一時を回っていた。

「今からはちょっと――」

 僕が言いかけた時に、言葉を遮るように仮面の男が言った。

「というか。もう家の前まで来てるんですよ」

「え?」

「安心してください。まだ、家の前、ですので。中には入っていません。ということで、待ってますので」

「あ、ちょっと――」

 電話は、切れてしまった。

 乱暴なやり口だなと思った。不快感しかなかった。

 でも、どうすることもできず、とりあえず家に向かった。



 家の前では、仮面の男がタバコをふかしていた。

 あらためて見ても異様な光景だった。スーツの男がぼんやり光る白い仮面をつけているのだ。しかもタバコをふかしている。とてもこの世のものとは思えない。

「あ、こんばんは! 西田さん」

 仮面の男は、そう言いながら、タバコをポケット灰皿に入れた。

「ご無沙汰しております」

 仮面の男の口からは、ホコリのような甘い匂いがした。いったいどんな銘柄を吸っているのだろうか。

「今日は、どうしたんですか?」

「この前の話、いかがかなと思いして」

「あの、その件なんですが、保留にさせてください」

「はあ。また、どうしてですか?」

「……とにかく、もう、大丈夫なんで」

「西田さん。実はね。ちょっとお話があるんです。大事な話です」

「なんですか?」

「ここだと、あれなんで、中で話しませんか?」

「別でここでいいですよ」

「西田さん。私の事はあなた以外には見えていないですよ。こんなところを人に見られたら、西田さんが一人でしゃべってるみたいに見られますよ。ほらほら、中に入りましょう」

 仮面の男に促されるような形で、僕は部屋に入った。

 とてもうんざりした気分になった。なるべく早く帰ってもらおうと思った。

 仮面の男は、またも、勝手に食器棚からコーヒーカップを取り出すと、お湯を沸かし始めた。

「コーヒー飲みますよね?」

「いりませんよ」

「そう言わないで。今入れますから」

 仮面の男は、インスタントコーヒーをスプーンですくってコーヒーカップに入れた。

「今日は、お酒でも飲んできたんですか?」

「まあ、そうですね」

「いいですね。お酒は、私も好きですよ。西田さんは何飲まれるんですか?」

「……ビールですかね」

「ビールっておいしいですよね。あれですか、最初はビールで、そのあと、ハイボールという感じですか? それともずっと、ビール?」

「なんでもいいじゃないですか」

 だんだんと、仮面の男の軽い口調に腹が立ってきた。

「そんな、怒らないで下さいよ」仮面の男は、そう言いながら、コーヒーカップにお湯を注いだ。「ちなみに、私は、最初はビールで、二杯目からはコーラを飲みます。お酒弱いんです。はい。どうぞ」

 仮面の男は、コーヒーを僕の前に置いた。それから、自分の分を一口啜ってから、テーブルに置いた。

「あの、申し訳ないですけど、その、例の件は、もう大丈夫なんですけど」

「大丈夫と言いますと?」

「いや、だから、もう問題ないってことです」

「……ほんとですか?」

「本当です。確かに、あの時は少し弱っていたかもしれませんが、今は、もうずいぶん元気になりまして、気持ちもすっかり楽になりました」

「そうですか……」

「だから、今日のところは、もう――」

「ならどうして」仮面の男が、僕の言葉を遮って言った。「私が見えているのですか?」

「……そんなの知りませんよ」

「いいですか、西田さん。この前話したことは全て、事実なんです」

 仮面の男はさっきまでの高い声とはまるで別人みたいに、低く暗い声で話し始めた。内臓に響くような声だった。

「私は、何度も、何人も、あなたのような人を見てきました。自分が、死の淵まで追い込まれていることにも気がつかず、ちょっといいことがあったからと、私の提案を拒否して、話を聞く耳も持たず、挙句には私を詐欺師呼ばわりする。その果てに、自ら死を選んだ人もいました。何度でも言います。私は、私こそがあなたの味方です。そして、あなたは今、一番油断してはいけない時なのです。その証拠に、まだ私が見えているじゃないですか? 『死』はまだあなたから離れてはくれていません」

「だけど、そんな気は全然……」

「今は、ないだけです。でも、心が弱っていることには変わり有りません。もし、次に何か、西田さんに絶望を与える何かが起こった時……私は、とても心配です」

 仮面の男はまるで演劇部のように感情豊かに話をした。

「いや、タナカさん。わかりました。それなら、これでどうですか? もしも、本当に自ら死を選ぶような気持ちになったら、必ず連絡します」

「もちろん、そうしてください」

「だから、今日は、このへんで――」

「ただ、もう一つだけ言わせてください」

「……なんですか?」

「西田さん。もしかして、記憶が戻りつつあるんじゃないですか?」

 僕は、一瞬ドキッとした。

 つい先日のことを思い出していた。あの手帳の文字を見た時、まるで栓が抜けたみたいに噴き出してくる記憶があった。それもぼんやりとしたものではなく、はっきりとした色や輪郭を持っていた。父の暴力から僕をかばっていてくれた誰かの記憶。あの温かい『壁』の記憶。

「図星ですね……」仮面の男は、大きく、大げさにため息をつくと、コーヒーを啜った。「思い出したんですね?」

 仮面の男が言った。

「まあ、確かに、思い出したというか……。でも、勘違いかもしれないし……」

「それは、正直、かなりまずい状態と言えるでしょう。西田さんが、限りなくこちらの世界に近づいている証拠になります。まあ、『死』との距離という点においては、デタラメなことを口走るお年寄りと、大差はないと言えますね」

 僕には、前回話した時よりも、仮面の男が胡散臭く見えていた。むしろ、こんな荒唐無稽な話を信じてしまいそうになっていた僕は、よほど弱っていたのだと思った。しかし、今は、こんな話を聞く気にもなれない。

「いい加減にしてくれませんか?」

 僕は言った。

「西田さん。私は、あなたの身を案じて言っています」

「夜も遅いし、明日、仕事なんですよ」

「仮面をつけるためには」仮面の男はかまわず続けた。「その後、暮らすことになる施設を、一度見てもらうことが規則になっています。それに、今、あなたの他にも仮面を希望している人もいるのです」

「別に、僕が希望しているわけじゃ……」

「仮面の生産には非常に時間がかかります。そんなに大量にはつくれないのです。もし、この機会を逃したら、次に来るチャンスは、十年、二十年後かもしれない。その間に、もしものことがあったら……」

 仮面の男は、そこで言葉を切り、うなだれた。どうも男の言動が演技じみているように思えた。

「とにかく、今すぐには、必要ありませんので」

 僕は言った。

 仮面の男は、驚いたように――表情はわからないが――一瞬固まった。

 それから、細く長く、息を吐いた。吐くというよりも、口から息が漏れているみたいだった。

「西田さん」

仮面の男は、そう言いながら、懐に手を忍ばせた。

 僕は、また吹矢が出てくるかと思い、身構えた。

「先ほど、記憶が戻ってきたと話されていましたよね?」

 仮面の男が、懐から取り出したのは、一枚の写真だった。

「もしかして、それって、彼の記憶じゃありませんか?」

 テーブルに置かれた写真を見て、僕は目を見張った。

 写真には、二人の男の子が映っていた。中学生くらいの男の子が一緒にテレビゲームをしていて、二人とも真剣な表情をしている。

「何ですか、この写真」

 僕は動揺を隠せず、声が震えていた。

「わかりますよね? 今の西田さんなら」

「これって……僕じゃないですか?」

 写真に映っている、より幼く見える男の子は、僕だった。そして、その隣にいる人にも、見覚えがある。

 その時だった。

 脳が開いたみたいな感覚があった。泉の底にたまっていたガスがあるきっかけで噴き出てくるみたいに、どんどんと記憶が脳の底から湧き上がってきた。

「それに、彼」仮面の男が、僕の隣にいる男の子を指さした。「思い出したんでしょう?」

「……これは」

「そうですよ。西田さん。彼は、あなたの、お兄さんです」

 そうだ。僕には、兄がいた。

 父の暴力から身を挺して守っていたあの『壁』は兄の背中だ。母ではない。母は、ただ見ていたんだ。僕をずっと父から守ってくれていたのは兄だった。

 なんで? 

 どうして兄の存在を忘れていたんだ?

「困惑しますよね?」

 仮面の男が言った。

「……どうして」

「そうですね。どうして、今まで忘れていたのか? って思いますよね」

 仮面の男は、うんうんと頷いた。

「でも、兄の話なんて、母だって、口にしたことはないはず……」

「これで信じてもらえましたか? 仮面の力は、本物です」

 僕は、あまりの衝撃に身動きが取れなかった。

「なぜ? 西田さんはお兄さんのことを忘れていたのか?」

 仮面の男が身を乗り出して、言った。

「あなたのお兄さんは、仮面をつけたのです」

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