#8
朝、起きると頭がズキズキ痛んだ。
まるで頭の内側を工事されているみたいだった。
僕は、ベッドから起き上がると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲んだ。少し頭の痛みが和らいだような気がする。でもアルコールによる頭痛がやっかいなのは良く知っている。水を飲んだだけで消えてくれるわけがない。案の定、数分したらまた痛みは戻ってきた。
時計をみる。時間は、六時四十分だった。
僕はゆっくりとした動作で、仕事の支度に取り掛かる。まず歯を磨いて、顔を洗う。それから、電子ケトルに水を入れてお湯を沸かす。お湯が湧いたらコーヒーを入れる。一口すすってから、服を着替える。次にトーストを焼く。マーガリンを塗って塩を一振りして食べる。だいたいいつも朝食は決まってトーストとコーヒーだった。
アルコールで内臓がやられているのか、なかなかトーストが胃に収まってくれなかった。顎の動きを意識してゆっくり噛むことでなんとか一枚食べ終えた。コーヒーの半分はシンクに捨てた。
その頃には、ちょうど家を出る時間になっていた。
僕は、車に乗り込み、仕事場に向かった。
車を運転していると、明らかな違和感を感じた。体が異常に重たい。世界がスローモーションになっているみたいだ。まだ、十連勤の二日目だというのに、疲れてきってしまっている……。ふと、冗談じみた考えが浮かぶ。
こんな調子じゃ、十日目には本当に死んでしまうかもしれない。
自分が《サンズ・カフェ》の店内で血を吐いて倒れているところを想像してみた。
なんだか笑えた。
ただ、ありえなくもないな、と思った。
お店に、到着すると、職員用の駐車スペースに車が停まっていた。すでに誰かが出勤しているみたいだ。
スタッフルームに入ると、橋本さんがいた。ずっと昔から置きっぱなしになっている五年前の
「おはようございます」
橋本さんは、驚いたようにこちらを見た。
「あ、おはよう」
「早いですね」
「ああ、まあね。なんか、早く起きちゃってね」
橋本さんの顔には疲労という文字が浮かんでいた。目の下にはうっすらと隈ができている。早く起きた、というよりも寝ていないみたいだった。
「大丈夫ですか? なんか顔色悪いですよ」
僕がそう言うと、橋本さんは、小さく笑った。
「そう言う西田君も真っ青な顔色してるよ」
「まあ、ちょっと飲み過ぎて軽く二日酔いなだけです」
「珍しいね。悩みでもあるの?」
「いや、そういうわけじゃないですけど……」
僕は話をしながら、冷蔵庫にお茶をしまい、鞄から黒いエプロンを取り出した。
「悩みがあるなら、聞いてあげるのに。遠慮なく言ってよ」
「そうですね。悩みができたら、聞いてもらいますよ」
僕は、シフト表を確認した。
早番の勤務は僕と橋本さんを入れて四人、遅番のシフトは僕を入れて四人だった。今日は、残業なく帰れそうだなと思った。ただ、店長が休みだったことに腹が立った。いったい月に何日休むのか。
「ねえ、西田君」
橋本さんが言った。
「なんですか?」
「あのさ……。今日、残業する?」
「たぶん、今日は残業なく帰れそうですよ」
「そっか……」
「どうしました?」
「あの、よかったら、今日、飲みでも行かない? あ、嫌だったらいいよ」
本当のことを言うと、二日酔いでしんどい気持ちはあった。ただ、橋本さんからお酒の誘いを受けるなんて珍しかったし、今日はどこかボーっとしている様子で、何か話したいことがあるのかなと思った。
「いいですね。行きましょう」
「昨日も飲んだんでしょ? ほんとにいいの?」
「どうせ、夕方になれば、またお酒を飲みたい気分になっていますよ」
「そっか……。ありがとう」
そうこうしているうちに、早番のスタッフが出勤してきた。
お店が開店すると、次々に客がやってきて、相変わらず仕事は忙しかった。今日はスタッフの人数が多くてほんとに助かった。僕は二日酔いでしんどかったが、その分他のスタッフが働いてくれた。あるパートのおばちゃんには、「二日酔いだからって、のろのろしないで」と怒られてしまったが、なんだかんだ気を使ってくれていた。
橋本さんも、朝の疲れ切った表情はなく、いつものように笑顔で、客やスタッフに対応していた。
午後になると、橋本さんは遅番のスタッフと交代して帰っていった。遅番のシフトには飯田さんがいた。飯田さんは、この店に来る前に金融系の会社に勤めていた経歴があり、とても仕事のできる人だった。テキパキなんでもこなすし、何より人当たりが良くて、他のスタッフからの信望も厚かった。今は、自営で働いていて、収入が安定しないからと、ここでアルバイトをしている。
僕としても、飯田さんがシフトに入っていると本当に心強かった。
学生バイトやパートの人たちと違って、飯田さんはお願いしたことは二つ返事でやってくれたし、先回りして仕事をこなしてくれる。この店の中で唯一尊敬できる人だった。
「なに? 二日酔い? 顔色悪いよ」
飯田さんが言った。
「すみません。ちょっと飲みすぎちゃって」
「いいの。いいの。謝ることないよ。二日酔いなんて、社会人なら当然だよ」
「当然ですかね」
「酒に頼るしかない時だってあるでしょ。特に、男はさ」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると気が楽です」
「俺がカバーするからさ。ちょくちょく休憩しなよ。というか、スタッフルームに籠ってていいよ。今日、人数からいるからさ」
飯田さんはそう言ってニカッと笑った。
午後も客は多かったが、仕事はスムーズに運んだ。飯田さんが、学生バイトのスタッフに、「競争だ」と言って食器洗いをしたり、おばさんパートと雑談をして話しやすい空気をつくったりして、周りの人を上手に動かすことで、仕事が溜まることなく、次々と片付いていった。
そのおかげで、僕はスタッフルームで事務作業をすることができた。発注作業なんかにもしっかりと時間をかけることができた。
いつもこうならいいのに、と思わずにはいられなかった。
夜のシフトのスタッフが出勤してきて、遅番のスタッフと交代をした。
僕がエプロンを外して、畳んでいると、飯田さんが声をかけてきた。
「お疲れ。これ、飲みなよ」
そう言って、アイスコーヒーをくれた。
「ありがとうございます」
飯田さんもアイスコーヒーを飲んでいた。
「この店のコーヒーってうまいよね」
「そうですか?」
「おれは、うまいと思うよ。香りがいいよ」
僕は、《サンズ・カフェ》の良いところなんて考えたこともなかった。コーヒーだっておいしいと思ったことなんかなかったが、飯田さんにそう言われてみると、確かにおいしいような気もした。
「今日は、ありがとうございます。おかげで残業せずに済みましたよ」
「いやいや特に何もしてないけど」
飯田さんとなんともない日常会話をしながら、コーヒーを飲んだ。コーヒーを飲み終わると、飯田さんは「それじゃ」と言って、帰って行った。
僕も、その後すぐに店を出た。
外に出てみると、空気が湿っていて、空には厚い雲が浮かんでいた。今にも雨が降り出しそうだ。
この頃には、昨日のアルコールはしっかりと抜けて、今すぐにでもお酒を飲める体調になっていた。
ふと、朝の橋本さんの顔を思い出した。
けだるそうな表情で、青白い顔色をしていた。何か思い悩んでいるのかもしれない。
僕は、車をアパートの駐車場に停めると、歩いて駅に向かった。
十分くらいで駅に着いた。まだ橋本さんは来ていないみたいだった。
僕は、改札の前のベンチに座って、橋本さんを待った。手持ち無沙汰で、スマートフォンを開いた。インスタグラムを開いてみたりしたが、特に気になるものはなかった。《イケメン俳優不倫》とニュースアプリのポップアップが出てきた。すぐに消した。
しばらく待っていると、橋本さんがやってきた。
「やあ、お待たせ」
橋本さんは、普段通りの格好で、青いジーンズに茶色のセーターを着ていた。耳元には金色のピアスが揺れていた。
「遅いですね」
「ごめんごめん」
「どこ行きますか?」
「どこでもいいよ」
僕たちは、一番近くにあった居酒屋に入った。代わり映えのしないチェーン店だ。
お店に入ると、すぐに席に通された。お客はほとんどいないみたいで、店内は静かだった。このくらいが丁度いい。どんなに良いお店でも混んでいるとそれだけで嫌になる。
席に着くと、すぐにビールを注文した。ビールもすぐに来た。
「乾杯」
橋本さんが言った。
「乾杯」
橋本さんは、グラスを煽って一気に半分ほど飲んだ。
「おいしいね。ビールは」
「そうですね」
「西田君ってお酒強いの?」
「強くはないですよ。普通です」
「あたし、弱いから、もし酔っちゃったら、家まで送ってね」
「酔わないようにしてください」
「何よ。つまらないわね」
僕たちは、お酒を飲みながら、徐々に口が滑らかになっていき、いろいろな話をした。仕事のことも話した。職場の誰が良く働いてくれるとか、一緒に働きたくないとか、そんなことを話した。僕としては珍しく、パートのおばちゃんみたく、愚痴みたいなことや、陰口みたいなことを話していた。それに、多少は話すことでスッキリしているような気もした。
「もっと、みんなに仕事を振ったら?」
橋本さんが言った。
「そうですね……。でも、なんか悪いじゃないですか?」
「悪いことなんてないよ」
「嫌そうな顔をする人も多いですし」
「そんなの気にしちゃダメよ。でないと西田君が体壊しちゃうよ」
「まあ、確かに自分でもそう思う時はあるんですけどね……。パートの人なんかは、ほとんどが子持ちですからね」
僕は、そう言ってすぐに、ハッとした。橋本さんの前で言うべきことではなかった。橋本さんは、悩んでいるように息をついて、一口ビールを飲んだ。顔は、うっすらと赤くなっている。
「え? なに?」
橋本さんは、僕の視線に気づき、言った。
「あ、いや」
「失礼なこと言ったと思っている?」
「まあ……少し……」
「逆にそれが、傷つくんだけど」
そう言って、橋本さんは、目を細めて、わざとらしくこちらを睨んできた。
そのしぐさは、とてもかわいらしいものだった。
「すみません」
僕は、笑った。
「こら、笑うな」
そういう橋本さんも笑っていた。
ふと、いつもように明るい橋本さんを見て、今朝の表情を思い出した。何か思い悩んでいるような表情。読みもしない古い雑誌をめくりながら浮かべていた表情。
今日は、橋本さんは、何か話したいことがあったから、僕を飲みに誘ったのでないか?
「あの、橋本さん」
「なに?」
「そういえば、今日、飲みに誘ってくれたのって……」
橋本さんは、何も言わず、こちらを見ている。次の言葉を待っていた。
「何か、話したいことがあったんじゃないんですか?」
「え? どうして?」
「なんていうか……。今朝の橋本さんの表情、すごく思いつめているみたいだったから」
「そう?」
橋本さんは、何かを思い出そうとしているかのように、天井を見た。
「そうね……。話したいっていうか……。一人でいたくなかっただけ」
その声は冷たく、かすかに震えていた。
僕は、返答に困った。言葉が見つからず、ゆっくりと、ビールを一口飲んだ。
僕は、こういう時に何も言えなくなる。
誰かが自分の感情を表に出して、誰かが何か言わないとどんどん空気が凍っていくような感じがする時、僕はいつも黙るのだ。誰かが、その発言してくれるのを待つ。自分ではどうにもできないことを良くわかっている。今だって、いつもように橋本さんが、冗談めかして、明るい表情を作って、さっきまでの楽しい場に戻してくれるのを待っている。きっと、橋本は言うだろう。「冗談、冗談。そんな暗い顔しないで、ビールが苦くなるでしょ」。ついでに、景気よくビールを飲み干して、グラスを空にして見せるかもしれない。
しかし、僕の予想は外れた。
橋本さんが、まるでボリュームのヒネリをマイナスの方に目一杯回されたみたいに、小さな声で言った。
「もしも……。もしも誰にも知られずに、この世から居なくなれるとしたら、どうする?」
僕は、言葉の意味を理解することができず、固まってしまった。
グラスを持つ手に力が入る。
沈黙は長かった。
まるで溺れてしまったかのような気分だった。
そして、やっとの思いで、僕は口を開いた。
「どうしたんですか?」
「いや……なんでもないんだけどね……」
「何か、あったんですか?」
「どっちかというと、何もないの。あんまりにもね」
また沈黙した。
今度は、橋本さんが話し始めた。
「西田君も、もう、勤めて長いよね?」
「そうですね。十年くらいですね」
「長いね。私も十年以上働いている。長いよね。十年って」
橋本さんは、一口ビールを飲んで続けた。
「長いけど、思い出せるようなことが、何もないの。あそこで十年働いたからって、何か得られるようなものはなかった。まあ、かといって何かを得たいとか、成長したいとか、そういう気持ちがあったわけじゃないけど。だから、当然と言えば、当然なんだけど、なんていうか。ほんとに、ただ時間が過ぎただけっていう感じがするの」
僕には、橋本さんが言おうとしていることが、まるで、手に取るように理解することができた。同じようなことを、僕も考えていた。〈サンズ・カフェ〉に勤めてからの十年があまりにも無為に過ぎて行った。いつからか、胸の中には、モヤモヤと何かが漂っているような感じがしていた。
「ほんとにさ。悲しいと思わない? 学生バイトの子たちなんかは、仕事中は全然真面目じゃなかったり、もの覚えが悪かったりするのに、きっと、大学を卒業したら、いい会社に行って、十分なお給料をもらいながら、充実した社会人生活を送るんだろうなって思うの。ずっと、取り残されているような、そんな気がする。それに、私なんて結婚もしてないし……。店長との関係のこと、知っている?」
僕は、言葉を詰まらせた。
「まあ、聞いたことはあります」
「そうだよね。みんな知ってるよね……」
数十秒、沈黙した。
「最低よね。私。もちろん、店長が結婚していることは知ってた。だけど、関係を断ち切ることができなくて、ずるずると、ここまで来ちゃった……」
橋本さんは、ビールをすするように一口飲んで、話を続けた。
「昨日ね。仕事終わりに雄二さんと会ってたの」
僕は、橋本さんが、店長のことを名前で呼んだことにドキッとした。
「その時に、私、ずっとこのままではいれないって言ったんだ。だけど、雄二さんは、『今は、そんな話は止めよう』って、はぐらかした……。ごめん。こんな話、聞きたくないよね」
「そんなことないです。話してください」
大事なことはしっかりと決断をしない。いかにも、店長らしいやり方だなと思った。
「もう、五年も経つのよ。ほんとに私ってバカよね。とうに三十も過ぎて、取り返しがつかない」
「そんなことはないですよ」
「蔑まないで」
「蔑んでなんかないですよ」
橋本さんは、うつむいていて、視線はテーブルのどこかを見ていた。いつもの様子とは何かが違った。
「いいの。もう、自分でも半分あきらめてるの。自分にとって何が本当に大事なのか、よく考えもせず、その場の感情に流されて生きてきた罰なの。その時は、その場のさみしさを埋めたかっただけで……。気が付いたら、抜け出せない穴に入り込んでいた。もう、何が何だか、分からないの……。自分は何がしたいのかさえ、よく分からない」
橋本さんは、黙り込んだ。
僕も、言葉を発することができず、一緒に黙り込んだ。
その沈黙に気まずさはなかった。
僕にも、どうしてか橋本さんの気持ちが理解できたからだ。境遇が同じというわけではない。しかし、現状に不安や焦りを感じ、だけど何もできず、ただただ時間が流れているところを見ていただけということに関しては、一緒なのだと思った。
僕は、橋本さんが吐き出した言葉に、衝撃を受けていた。
それは、その言葉が、あまりにも僕の現状を言い表していたからだ。
そうだ。僕は、抜け出せない穴の中に入ってしまっていたのだ。
その穴は、入ってみるまで、穴の存在に気がつかない、やっかいな穴。ずっと奥の方に入り込んで、身動きが取れなくなって初めて、穴に入っていたのか、と気づかされる。そして、僕は気がついてしまった。
「ごめん、ごめん」
橋本さんが言った。
「なんか、しんみりした話をしちゃったね」
橋本さんは、いつも明るい調子に戻って、ビールを飲んだ。
でも、僕は、いまだに黙ったままだった。
すると、橋本さんが、手を伸ばして僕の肩をたたいた。
「こら。もう、考えるの終わり。ほら、飲むよ」
橋本さんが、グラスを突き出してきた。それでようやく意識が戻ったみたいに、僕はグラスを持ち上げて、乾杯した。
「そうですね。あんまり考えないで、今日は飲みましょう」
「そうそう、って。自分が言い出したことだけど……。まあ、今日は飲もうよ」
僕たちは、追加でビールと料理を頼んだ。
それから、まるで何事もなかったかのように、ビールを飲んでは、世間話をした。仕事の愚痴を言ったり、芸能人の誰が好きとか、今見ているドラマの話とか。嘘みたいにさっきまでの空気はそこにはなかった。
お互い、自分をごまかすのは上手なんだな、と僕は思った。
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