#7
仕事を終えて車に乗り込んだ。シートに埋まってしまうのではないかと思うくらいに、体が重たかった。
エンジンをかけるがすぐに発車する気にならない。静かな駐車場でアイドリングしている音が響いていた。それからカーラジオをつけた。
――この前、電車に乗っていてね。満席だったんですよ。
何の番組かはわからない。ずいぶん声の低い男性が話をしていた。
――目の前に、おばあちゃんが立っていて、僕、席を譲ろうとしたんですよね。そしたら、『大丈夫です』って、断られちゃいましてね。
内容はあまり頭に入ってこなかったが、その男性の声やゆっくりとした話し方が、疲れた体にはちょうど良かった。
――もちろん、席を譲られたら絶対座らなくちゃいけないわけじゃないんですけどね。なんか、恥ずかしい気持ちになりましたね。
この後、ラジオパーソナリティは恥ずかしかった体験にまつわるお便りを読み始めた。
しばらくラジオを聞いた後、ようやく、車を発進させた。
車を運転していると、ふいにお腹が鳴り、その音を聞いて、お腹が空いていることに気がついた。そういえば、お昼を食べていなかった。
ご飯は何にしようかと考える。もちろん、作る気力はない。
少しお酒を飲みたい気分だった。僕は、駅前の居酒屋に行くことに決めた。すると、少しだけ気分が良くなった。
車を自宅の駐車場に停めると、歩いて駅の方へ向かった。自宅のアパートから、駅までは歩いて七分くらいだ。片田舎の町なので、そこまで人で賑わっているわけではないが、最近開発が進んで、ショッピングモールができたりしていた。それなりにお店も多い。近隣の大学生なんかはよくのこの辺りに遊びに来ているみたいだった。
僕は、お店を見て回り、迷った挙句に焼き鳥屋に入ることにした。このお店は何度か来たことがある。僕は、カウンターの席に座って、ビールと鶏皮を注文した。ビールを一口飲むと疲れが蒸発していくような気分になった。
子供の時には酒を飲む大人を見て理解ができなかったし、腹を立てていたこともあった。僕が、中学生の頃、事故で亡くなった父がお酒をよく飲む人だった。そう、ほんとうによくお酒を飲む人だったのだ。もちろん、それは良い意味ではなく、もっとも悪い意味でだ。酔った父は、母をまるで召使のように扱った。思い出したように突然「ガスコンロの裏、汚れてたぞ」と言い出すのだ。母も母で、それが夜の十一時だろうと、お風呂から上がってもう寝る準備をしている時だろうと、そう言われたら、掃除を始めた。でないと、父が暴れることを知っているからだ。
一度、父の指摘に、母が無言の抵抗を見せたことがあった。その時なんかは、父はのっそりと立ち上がって、母の頭を蹴った。僕はあの時の光景を、嫌というほど覚えているし、繰り返し何度も夢に見た。母は、下唇を噛んで、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
たまに、父の暴力が僕に及ぶこともあった。しかし、その時のことを僕はあまり覚えていない。覚えているのは、父が僕に襲いかかろうとしたときに、僕を覆う何かが目の前に現れたこと。壁のような何かが、僕を守ってくれたのだ。それも一度ではなく、何度も。壁は、僕の代わりに父に殴られていた。その壁は、たぶん、母だったのだと思う。
だから、お酒は嫌いだった。
しかし、大人になってみると、お酒に救われている自分がいた。
あれほど嫌がっていたのに、悪の温床のように避けていたのに、いつからか飲むようになっていた。自分でも呆れてしまう。
ひたすら、鶏皮を食べては、ビールを飲んだ。
疲れていたせいか、ビールがすすんだ。しばらく、黙々と食べてはビールを飲んだ。お腹も十分満たされたところで、帰る前にトイレに行こうと席を立った。
お店は、結構入り組んでいて、トイレに行くには、大部屋の横を通り過ぎなければいけなかった。大部屋では宴会をやっているみたいで、二十代三十代くらいの男女が大勢で騒いでいた。耳をふさぎたくなるほどうるさかった。
僕は、男子トイレの個室に入った。少し今日は飲み過ぎたみたいだ。お腹が緩くなっていた。
誰かがトイレに入ってきた。話し声が聞こえた。しかも、あろうことか女性の声が聞こえてきた。
「ちょっとやばいでしょ」
女性が言った。
「いいよ。ちょっと、抜けてもバレないでしょ。みんな酔っているし」
男性が言った。
「ええ、でもな……」
「いいじゃん。ちょっとだけ。ほら、早くしないと、大変なことになるよ」
「何それ。大変ってなに?」
女性の笑い声がした。
「いいからさ。こっち来なよ」
そう言って、男女は隣の個室に入った。
クチャクチャと嫌な音が聞こえてきた。
僕は急いで、トイレから出た。僕が扉と開ける音や手を洗う音で気がついたのだろう、男女が「やばくない」「誰かいたじゃん」とはしゃいでいる声が聞こえてきた。
すぐに会計を済ませて、お店を出た。
なんとも嫌な気分だった。
僕は、帰りにコンビニに寄って缶ビールを二本買った。寝る前にもう少し飲んで気分を切り替えようと思ったのだ。
アパートに着くと、缶ビールを冷蔵庫にしまって、シャワーを浴びた。時刻は十一時を過ぎていた。シャワーを浴びてさっぱりしたところで、缶ビールを開けた。一口、二口と飲んだ。
少し飲み過ぎたみたいで、冷えたビールもただただ苦く感じた。なかなか喉を通らない。気分を切り替えるつもりが、余計に気持ち悪くなってしまった。
ビールを飲む手を止めて、テレビをつけてみたり、雑誌をめくってみたりしたが、どうも集中できなかった。もう一口ビールを飲んでみる。やはり、気持ちが悪い。まだ半分以上残っている。いつもならうれしいはずの缶ビールの重さが、うらめしく感じた。
結局、僕は、残った缶ビールをシンクに流した。ビールの泡がはじけて消えた。空き缶は潰して、ごみ箱に捨てた。それから、歯を磨いて、すぐにベッドに横になった。ずいぶん飲み過ぎていたことに、今になって気がついた。ぐるぐると部屋が回転しているように感じた。
目を閉じて、眠るように努力をしたが、なかなか寝付けない。
それから、もっと最悪なことに、まるでビールの泡が浮かび上がってくるように、嫌な記憶が、湧き上がってきた。
父に殴られていた記憶。
父は顔を真っ赤にして、焦点の合わない目をしている。今にも溶け出してしまうにトロンとしている目。ゆっくりと立ち上がり、僕の名前を呼ぶ。何度も、何度も。そして、容赦のない力で僕の頬を叩く。父は笑う。ねっとりとしたなんとも気持ちの悪い笑い方で。
僕の意識は混濁してきて、昔のことを思い出しているのか、夢を見ているのか、分からなくなってきた。
次に浮かんできた映像は、壁だった。たぶん母であろう壁。父から僕をかばってくれている。僕の代わりに、その壁が叩かれる。僕は、その壁からじんわりと温かい体温を感じて涙を流していた。
壁の隙間から、外を見てみる。父の顔が見える。恐怖そのものを形にしたような顔。僕の心臓はあり得ないくらいに脈打っている。しかし、父の後ろには、もっと僕を恐怖させるものがあった。心臓が今にも口から飛び出て、体内から逃げ出してもおかしくないくらいだった。
父の後ろには、母がいた。
眠たそうな目で、こちらを見ていた。椅子に座ってけだるそうに肩をすぼめている。微動だにせず、ただジッと、こちらを見ていた。
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