犬時々、晴れ。

ほしのしずく

第1話 我は柴犬

 我は柴犬。


 誇り高き日本犬であり、遺伝子は犬の中で一番オオカミに近しい存在だ。


 だというのに、我は人間に飼われている。


 解せぬ。


 これが強き武士もののふならば、まだ納得できた。


「ふぁぁ……コムギィィ……おはよ〜今日も早いね〜」


 我をコムギという名で呼ぶ者が飼い主である。


 はだけた寝巻き姿に髪はとぐろを巻きボサボサ、スリッパは片足した履いていない。


 完全に敗走した武士ではないか。

 

 これが二十代前半の雌とは、実に嘆かわしい。


「ワフッ!」


 可愛げのある犬を演じて前足を上げる。


「うんうん! おはよう〜」


 うむ、良い笑顔だ。


 今日も我の虜だな。


 飼い主は我の水を補給する為、寝室付近から眠気眼を擦りながらキッチンへと移動する。


 その間に、行方不明となったスリッパを探す。


 これが我の日課だ。


 クンクン。


 あった。


 どうやら、寝室の段差に引っ掛けてそのまま歩いて来たようだ。


「コムギ〜! お水だよ〜」


「ワフゥ……ハァハァッ」


 呼ばれたら自然と返事をしてしまう。


 不本意ではあるが、我は犬。


 人間との共生することは遺伝子に刻まれているのだ。


 断じて甘えているわけではない。


 その気になれば水など自分で用意できる。


「ありがとう〜! 持って来てくれたんだ」


 飼い主の手が我を優しく撫でる。


 この瞬間、我の心を暖かい何かが満たす。


 初めこそ戸惑っていたが、今ではこれが何故か癖になってしまい、呆れながらも毎回スリッパを咥えてきてしまうのだ。


「ワフッ!」


「よしよし! あ、水をどうぞ」 


「ハァ、ハァッ……」


 よく冷えた水道水。


 多少、刺激のある不思議な香りが気になる。


 だが、朝の一舐めは格別だ。


 乾いていた喉と舌が潤う。


「あはは、んもう! コムギったら、口が水と涎でビチョビチョだよ〜」


 ポケットに入れていたハンカチで口元を拭くと、床に垂れた水も拭いた。


 かたじけない。


 そんなことを思いながらも、我は反射的に腹を見せてしまう。これを飼い主はへそ天と呼び、服従の印だと喜んだ。だが実際は違う。飼い主が喜ぶということ、我が腹を撫でて貰うと気持ちいい。


 この2つが一致しているだけだ。


「ワフゥーン……」


「なになに? お腹撫でて欲しいの? 可愛いな〜もう!」


「クゥーン、クゥーン」


 う、うむ。この辺はよく理解している。


 ここで、断られては我が恥をかくだけになってしまうからな。


 ちゃんギブ・アンド・テイクしていこう。


 飼われてはいるが、我らの関係は対等だ。


 今更だが、この察することに長けた飼い主の名を牧瀬友香という。


 ペット同居可のマンションに住んでいる小柄な人間の雌だ。


 しかし、日中は何やら色んな部族戦う場に赴き、家長としての務めを果たしている。


 そこに関しては頭が上がらぬ。


 なんせ我は犬だからな。


「ほれほれ〜! ここがいいんでしょう? わしゃわしゃ〜」


「ワ、ワフゥ〜」


 あ、気持ちいい。

 そこだ、そこ。

 脇腹辺りを優しくさすってほしい。


「コムギって、ここ好きだね〜!」


「クゥーン」


 うむ、嫌いではないぞ。


 だが、なんというか……真の意味も知らず、我の腹を無邪気に撫で回す雌が戦いの場に行かねばならぬとは、何とも世知辛い世の中だ。


 我の敬愛する許せんぞう将軍が見たら、間違いなく助けていたであろうな。


 許せんぞう将軍は、義理と人情を重んじる素晴らしき武士だ。作り話のドラマの主人公らしいが、人間模様の描写はリアルだ。


「ほれほれ〜! ここもどうだぁ〜!」


「クゥーン……ハァッ、ハァッ」


 あ、首も良い。


「って、やばい! もうこんな時間じゃない」


「ワフッ」


 また、いつものパターンか。


 何故、我が飼い主は同じことを繰り返すのだろうか。


 もう少し早く起床すればいいだけだろうに。


「ちょ、ちょっと待っててね! コムギ、超絶怒涛のダッシュで準備してくるから! 音も置いていっちゃうんだから」


 そういうとバタバタ足音を立てながら洗面所で身なりを整えたり、衣装部屋で服を着替えたりと身支度をしていった。


「よしっ、メイクも間に合ったぁー!」


 クリーム色の滑り止めクッションが敷き詰められたリビングに置かれたテーブル。


 飼い主は、ここでメイクと呼ばれる自分を着飾る作業を終えたことで安堵し、スマホを触り始めた。


 我は定位置である右隣の椅子に座る。


 違うだろう。

 飼い主よ、それで落ち着くでない。

 本来の目的は、狩場へと行くことだろう。


 申し訳ないが、狩場に行ってもらわぬと困る。


「ワンッ!」


「わわっ! そうだね、早く出ないと! 今日は朝からミーティングが入っているんだよねー! 遅れたら、また部長の小言聞かないといけなくなるぅー」


 全く忙しない飼い主だ。


 我がいないと、遅刻確定ではないか。


「コムギ!」


 飼い主が我の顔を手で包む。


 ハンドクリームなるものの柔らかなミルクの香りがする。これは微香料の物だな。


 さすがは我が飼い主。


 だが、いつまで顔を触っているのだろうか。


 もうじっとしているのは本能的に厳しい。


「ワフゥ?」


「いっつも! ありがとね!」


 そう言うと抱きついてきた。


 飼い主の落ち着く花のような匂いと、体温を感じる。


 ハンドクリームもそうだが、柔軟剤も犬である我に配慮出来るとは……わ、悪くはない。


「よし! 補給完了! じゃ、行ってくるね」


「ワフッ!」


 飼い主は住まいを出る時、必ず我を抱き締める。


 これは良いのだが、その都度補給完了と言う適切ではない言葉を使うのだ。


 我に顔を埋めて補給とは……どういう意味なのだろう。

 考えてもわからぬ。


 思考を巡らせている内に、飼い主は玄関を勢いよく閉めて、扉の向こうへ駆けていった。

 

 さて、我の優雅な朝餉タイムだ。


 キッチン下に置かれた水皿の横に、カリカリのドッグフードがあるはず。


 玄関からキッチンへと揺れ動く尻尾を抑えながら、ルンルン気分で歩みを進めた。


 さまざまな種類の犬が描かれたキッチンカーペットの上。


「クゥーン」


 ない……ないではないか。


 そこには水皿しかない。


 飼い主よ。


 飼い犬の朝餉を用意するのも、家長の立派な務めであるのだぞ。


 仕方ない。自分で探すか。


 クンクン。


 この匂い……テーブルの上か。メイク中に忘れたのだな。


「ワ、ワフッ!?」

 

 わ、我としたことが、椅子に座った時に見逃していたのかて……まぁ、仕方あるまい。


 あの時は飼い主に夢中だったからな。


「ワ……ワフッ!」


 違う違う。


 だらしのない飼い主だから、我が目を離すと良くないだけだ。


「ワフッ」


 あ、そうであった。


 玄関の鍵だ。


 どうせいつもものように、鍵をかけ忘れているのだろう。


 キッチンから、玄関へと向かった。

 


 ☆☆☆

 


 靴がパズルように散らばっている玄関の前。


 うむ、相変わらず汚い。


 ついでに揃えるか。


 靴を咥えて走りたくなる衝動を抑えながら、靴パズルを揃えた。


 えーっと、そうであった。


 扉の鍵だな。鍵の部分に目をやる。 

 

「ウー…………ワフッ」


 やはりか。


 案の定、開いていた。


 何故、閉め忘れていることを気付かないのだ。


 ここは大事な住まいであろうに。


 もし、変なやつの侵入を許したらどうなるんだ。


 戦国の世であれば、盗人や忍者が入り込むやも知れぬのだぞ。


 自分で思いながらふと思った。


「……ワフッ?」


 いや、もしかして我が毎回閉めるからか?


 では、閉めずに開けておくべきか?


 いや、待て。


 そうすると、脅威ではないが。


 いつもチャイム鳴らしてくる宅配員や、回覧板を回してくるお隣さんが入ってくるやも知れぬ。


 我は柴犬。


 基本的には、飼い主以外とは仲良くするつもりはないのである。


 よし、締めよう。


 我はチンチンして立ち上がり前足で鍵をかけ、朝餉を楽しむことにした。


 


 ☆☆☆


 


 すっかり静かになったリビング。


 我は椅子におすわりして朝餉を楽しんでいた。


「ハァッ、ハァッ……」


 うまい。カリカリした食感に、鼻に突き抜ける鰹の香ばしい匂い。

 

 鰹はあれだ。


 せっかくのなのでパントリーにあった鰹節を拝借し振りかけた。


 まぁ、三日に一回は自分用意している自分へのご褒美といったところだな。


 これくらいは許されるだろう。


 もちろん、飼い主が留守の間は、我が責任を持って守り抜く。


 何故ならば、我は義理を重んじる柴犬だからな。


 一宿一飯の恩は忘れぬのだ。


「グフゥ……」


 自然とゲップが出る。


 ゲップ……いくら気をつけようとも出てしまう。


 不思議な生理現象だ。


 我が犬だからだろうか……ここでいくら考えても答えはでぬな。


 とにかく今は腹いっぱいで幸せだ。


 あ、そうであった。


 餌皿の汚れを取れやすくせねば。


 帰宅した際、飼い主も手間が省けるしな。


 空になった餌皿を咥えてキッチンへと向かった。

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