帝都騒乱
帝都騒乱 1
十二になる紅顔の少年――蓮二は、河原に腰を屈めて、懸命に石を探していた。その横では、九つになる妹の
農作業の合間に山遊びへきたところ、蓮二は
白い石を交換した二人は、その石の
脇に流れる小川は、陽光を眩く乱反射させている。目を細めながら蓮二は白い石を探した。
「あっ、これなんて、よさそうだ」
蓮二はそれを右手に掴んだ。ふう、と安堵のため息をついて青空を見上げ、左手で額の汗を拭った。涼やかな山風に思わず目をつむる。河原の苔と水の匂い。乾いた石の匂いがする。
聴こえるのは、絶え間ない蝉の声や小鳥のさえずり。――それら夏山の賑わいは、
「あったよ!」と須未の声がした。小さな手に白い石を掴み、それを蓮二に見せつけてきた。
乳歯の抜けたすきっ歯の笑顔で、須未は近づいてくる。髪を頭頂できつく結び、額が露わになっていた。綻びた着物で石を磨くと、また右手を持ち上げた。
「
「いいな。やるじゃねえか、須未」
二人は山の河原の片隅で、石を交換した。
蓮二が渡したのは、どこか
「帰ろうよ、兄さ……」と須未は云う。
「どうした?」
「ね、近ごろさ、瘴気が濃くなってるみたいだから。あんまり、山に長居しない方がいいよね?
蓮二は笑顔で答える。
「ははっ、俺がいるさ。そんなに心配しなくたっていい。本当に、須未は怖がりだなァ」
そこで蓮二は翳を感じて、顔を上げた。
――おりしも天には厚い雲が差しかかり、蝉の声がひたりと消えた。薄っすらとした翳が河原や山を浸していった。蓮二は気がつくと、石をきつく握っていた。
蛇川村は山間の貧しい村だった。蓮二が須未を連れて戻ってくると、夏だというのに田の稲穂は弱々しく、村全体にはどんよりとした気配がはびこっている気がした。
夜ともなれば得体の知れぬ鳴き声が響いてくる。実際に、得体の知れぬ瘴魔の姿を見た、という声もあった。
用水路を横目に畦道をゆき、田の前にいた父親に手を振る。
「ああ、おかえり、二人とも」
「戻ったよ。――それより、どうだった? 巫女様たちは……。お
蓮二が尋ねると、果与は考え込むように俯いて続けた。
「うん……。
「え、お母にも?」
「そうさ。村に現れた瘴魔のことや。作物のこと。村や周りでおきた、おかしなことだとか」
蓮二はふと、須未が不安そうにしていることに気づいた。顔を曇らせ、服の裾をぎゅう、と掴んでくる。
「大丈夫だよ。きっと、巫女様やお侍様が、瘴気を浄めて、瘴魔を追い払ってくれるさ」
「本当?」
「ああ。もちろんだよ、須未」
果与は思い出したように、
「そう云えば、巫女様は字もお達者でねえ」
「字が?」と蓮二が問うと、
「そうさ。巫女様は、左利きで物を書かれるのかねえ。筆をとって、手紙みたいなものを書かれてなすったよ。白ノ宮への連絡かなにかか……」
「そうかい。巫女様だからって。――そりゃあ、左利きの人もいるだろうよ」
「ふうん、そうかねえ」
夕刻が迫る頃。巫女を筆頭に、侍たちは畦道を歩き、村の出口へと向かっていた。
蓮二は大人たちの後ろから、笠をかむった巫女を見ていた。真っ白な小袖に緋袴を帯び、端然とした足取りで歩く巫女を目掛けて、村の大人たちは呼びかけた。
「なぜお帰りになられるのです?」
「どうか白花のお浄めを!」
壁のように巫女を守る、甲冑姿の武士は怒鳴った。
「ええい、下がれ! 控えおろう! 巫女様はお帰りになられる!」
やがて巫女がぴたりと歩みを止めたとき、群衆はにわかに静まった。巫女は小首を前方に傾げると、
「先ほども申した通り。日に日にこの村を覆う瘴気が増しているようです。おそらく、極めて近く――場合によっては今宵には、瘴魔が押し寄せてきてもおかしくありませぬ。瘴気は凝り固まり、動物に取り憑き、あるいは恐ろしい形を得て、生者――あなたがたに襲いくるでしょう。もはや、手の施しようがない。ゆえに、あたら兵を損耗するには及ばぬものと考えます。――しかるに、みなさまも早う、避難すべきです」
再び非難の声が上がると、巫女は聴こえぬかのように、前を見て歩き出した。
「なぜです? 巫女様ァ……」
「先祖代々の、この土地を離れることなど、できませぬ……」
「わしらは、村を守ります!」
「宮のお侍様のように、わしらは戦います!」
「待ってください、巫女様……」
遠くに去ってゆく巫女の一団を見て、蓮二は呆然としていた。大人は冷静で正しく、巫女や武士は庶民を守ってくれる。――そんな思い込みが消えてゆくようだった。そこで蓮二は凛然たる声を聞いた。
「諦めてはだめ」
顔を上げると、果与の真剣な眼差しが夕日を浴びて輝いていた。
「長神様が……。日月ノ長神が、必ずや守ってくださるから。だから、祈りましょう。大いなる白花の中におわす、長神様へ……」
むべなるかな、その夜、蛇川村は瘴気に呑まれた。
日月ノ長神は天の果てで、人々の運命たる、精妙な色彩の生地を織りなしている。渇望と絶望を織り込んで、希望の白糸を忍ばせて。
この因業な神の芸術の綾に、蓮二の命運が絡まっていたと云えよう。ゆえに蓮二は生き延びた。
蓮二の心には、母の果与が伝えてくれた、ある情景だけが色濃く残っていた。目で見たわけでもないのに。――場合によっては、瘴魔が村へもたらした凶事そのものよりも克明に、映像となって焼きついた。
『……巫女様は、左利きで物を書かれるのかねえ。筆をとって、手紙みたいなものを書かれてなすったよ……』
*
蛇川村でのことから長い歳月が流れた。
灯明皿には菜種油が満たされ、小さな火が闇の中でくねっていた。火は二つの影を木壁に映していた。
一人は、貫禄の中に若さを残す一位巫女の
ゆらめく灯明の影の中で、大巫女は密やかに云った。
「
菜玖が黙っていると、再び大巫女の声がした。
「ゆえに、知らねばならぬ。守らねばならぬ。わかるな? 白き花弁を。その表と裏を……」
「大巫女様……。それは、どのような意味でありましょう……」
菜玖が不安げに顔を上げると、大巫女は皺に埋もれた瞼を開いて、はっきりと云った。
「戦乱を抑えねばならぬ。そして人々を神なる道へ、導かねばならぬ。施政者とは、かようなものなのだ、菜玖……。わかるな」
*
馬稚国の城下に、黒衣に太刀を佩いた浪人の如き男がいた。――彼がかつて、あの紅顔の少年であったなどとは、神々ですら気づかぬであろう。左目は失明を免れたものの、縦に走る顔の傷痕は見る者を畏怖させた。
長い修練と戦いの中で、人はこれほどに変化しうるのか、というほど、変わり果てていた。
その男――蓮二は、兵の詰め所の戸口に立った。街道から城下へと道を折れた、城門の手前だ。
通行人は口を
やがて詰め所の戸口が開くと、馬稚国らしい白木の鎧を着込んだ、髷を結った武士が現れた。
「こ、ここに何用か」
蓮二は一歩近づくと、ゆっくりと云った。
「話に聞いたァ。――次の鎮め巫女の、護衛役を募集するのだと。それに、瘴魔の扱いに慣れた者を、とのことだな。――違うか?」
武士は怪訝そうな表情で、
「む? ――た、たしかに。違いないはずだ。年々の瘴気の強まりに、並の武士では務まらぬようになってきたらしいからな。さりとて、多勢で護衛しては、楼迦国との約定に触れる……」
「細かいこたァいい。俺が、それに志願してやるって云ってんだ」
「なんだと? ――ふむ。もしや、うぬは、銀狼衆の者ではあるまいな?」
武士は警戒するように一歩退がり、蓮二の風体を見回す。蓮二は左腰の太刀の鍔に左手をかけ、
「へッ。だとしたらなんだ。うってつけじゃねえかよ。それとも、人間様は、狼の手は借りねえ、ってか?」
すると、武士はしばし考える素振りを見せてから、「ま、待っておれ」と姿を消した。
蓮二はその後ろ姿を見ながら呟いた。
「ッたく、遠回りだがよ。これで、やっと白ノ宮に潜り込めるかもなァ。益体もねェぜ。こいつは……」
蓮二は左手を鍔から持ち上げ、くるりと返し、傷だらけの黒ずんだ手のひらを見る。
――左利きの巫女。その幻のような姿を胸に、白ノ宮へ入り込む機を待っていた。その日が来るまでに、銀狼衆としての戦いの中で死んでしまうなら、それでもよいと思っていた。
やがて馬稚の武士が戻ってきた。
「ついて参れ、狼よ。仔細を申し伝えようぞ」
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