闇巡り 9
色褪せた紅い鳥居の中に、その祭壇があった。
白木で組まれた左右の壁と屋根があり、正面は開け放たれていた。その祭壇の中には白木の板が備えつけられ、文字が書かれていた。文字は焼きつけられたように、克明と刻まれていた。
蓮二は松明を近づけるに、それらの言葉を照らした。
白花の芽の 浄しなるかな
蓮二は沙耶を見て尋ねた。
「これは、白花ノ浄歌なのか? いや、違うみてえだなァ」
沙耶は驚いたように目を広げて、
「――ええ。違うのです。白花ノ浄歌ではありませぬ。このような歌は、見たことも聞いたこともなく」
「なんだと? どう見ても、白ノ宮の様式だろうが。おまえが、見たこともねえ、だと?」
「そ、そうなのです。白花の芽……。わかりませぬ……」
そこで蓮二は再び松明を向けると、歌の上部にある紋様が彫られているのを見つけた。――その紋様は、上に向かって開こうとする、花の芽を描いているかのようだ。
「おい、この紋様は。俺でもわかるぜ。白花紋じゃねえ」
蓮二はまた振り返り、沙耶の巫女装束の胸元に縫われた、花開く白花紋を見た。――それこそが、八つの花弁が開くさまを描いた、白ノ宮の象徴とも云えるものだ。
沙耶は戸惑ったように、『花の芽』を見つめる。
「たしかに、そのようです……。これはいったい……」
*
沙耶はまじまじと祭壇を見るのだが、歌にしても紋様にしても、それらか何なのか検討もつかなかった。
そのとき、視界に黒いもやが見えた。――瘴気の
煌びやかな水晶のかけらに囲まれて、濃密な瘴気の海とも呼べる空間をなしていた。
「おいおい。まさか、浄める、なんて云わねえだろうな」
蓮二の声がすると、沙耶は云った。
「再びまた、無明様のような存在が、産まれるやもしれませぬ。だから、浄めねば……」
「ちッ。いい加減にしねえか! そのおせっかいのせいで、失明したんだろうがよォ! バカがッ」
沙耶は眉をきつく寄せて、
「だからこそ。きっと、それが
「ダメだ。許さねえ。第一、これまでの比じゃねえだろう。この瘴気の重さはよォ」
沙耶は言葉に詰まってうなだれると、再び、救いを求めるように祭壇を見た。――そして、何気なく読み上げるように、その歌を口にする。
白花の芽の 浄しなるかな
そのときのことだ。沙耶の脳裏に突如、奇妙な光景が浮かんだ。
夜空を埋めつくすほどの、紫色の蝶。折り重なる紫色の光。巨大な女神の如き姿。
『アアアァァ…………』
嘆くようなあの声。
体が震えて、目頭が熱くなってくる。
自身に襲いかかってきた感情や映像が、理解できない。
けれど、狂おしい感覚の奥底には何かがあった。
沙耶は狭世の、ある領域を落ちていた。
周囲は緑色の光に包まれ、葉と草花と土が渦巻いていた。それに、遥か下方の最奥にはあるものが見えた。
――最奥にいたのは、見たこともない女神だった。
朝露に濡れて光る白花の肌。手の中にある白花の芽。瑞々しく震える芽から、白い霊気が溢れ出す。
その瞬間、緑色の世界を落ちてゆく沙耶の体がぴたりと止まった。周囲に舞い散る葉や草花のかけらがざわめき出す。風が下から突き上げてきて、竜巻のようになって吹き荒れる。竜巻は世界を包んでゆく。
大きな力が胎動し、飛び出そうとしていた。
沙耶は突き動かされるように両手を合わせて、白花ノ浄化を口にした。
穢れし土へ根をはらむ
花開きては 浄しなるかな
*
蓮二は腕の中に沙耶の体を包みながら、目を見張っていた。
祭壇の前にいた沙耶は、突如意識を失ってしまった。それを抱き留め、しばらくすると沙耶の体から白い霊気が溢れてきた。霊気は洞穴の広間へ広がって、渦を描きはじめた。
目の前の祭壇もほのかに光を放ち、共鳴するように甲高い音を発した。
霊気の渦は瘴気を絡め取りながら、巨大なうねりとなって、広間や洞穴に広がった。あるいは庄全体に広がってゆくようだった。
蓮二は呆気に取られ、それらの光景を見守ることしかできなかった。顎の感覚がなくなるほど口を広げ、霊気の渦がとめどなく蠕動するのを見ていた。
――それでもやがて、霊気の渦はおさまっていった。その頃には、洞穴の中は白ノ宮の本宮とも覚しき、清澄な気配に満たされていた。
*
蓮二は右手に火の尽きかけた松明を持ち、背中に沙耶を背負って、洞穴の道を戻っていった。
渦の光景を思い出しては、目を回してしまいそうになりながら。
(まったく。なんだってんだ、ありゃあ。とんでもねえ。とんでもねえぜ……)
そうこうするうちに、外の光が見えてきた。
まばゆい白光の中に飛び出すと、清々しい風が吹き込んできた。まだまだ明るかった。
松明を横に放ると、沙耶を地上への階段に寝かせた。
沙耶のまぶたは蕾のように閉じられ、胸が静かに上下していた。穏やかな寝息をたてている。
蓮二は横に腰を下ろすと、その寝顔に云った。
「休めよ、沙耶。これからも旅だ。おまえを、生贄にするためのなァ……」
階段の上方で足音がした。
見上げると、真っ白な袴が見えた。右目に眼帯を巻いた巫女――咤紀だ。
「何をした。おのれらは……」
蓮二はゆっくりと立ち上がると、
「掃除だ」
「誰に断った?」
「世の
「理だと?」
「そうだ。穢れは浄める。クソは川に流す。そういうもんだろ」
「なんだと……」
咤紀は石段を数歩降りると、叩き壊された格子扉の錠前を、傷だらけの蓮二の姿を、眠りこけた沙耶の姿を見た。相変わらず見下ろす位置から、
「瘴気が失せたのは、おのれらの仕業か」
「みてえだなァ。正確には、この沙耶がやったんだが」
「なるほど。浄化の巫女が……。それに、無明様をも……。そういうことだな」
蓮二は左腰の鞘へ、左手を載せた。
「難儀な瘴魔だったな。邪眼の蜘蛛たァ」
ふいに咤紀は右手を伸ばして、額を押さえた。階段の壁に身をもたげ、ふう、とため息をついた。
「答えろ。わたしに、どうせよと云うのだ。――先代から継いだ、あの呪わしい、無明様の祀り。それが、わたしの役目だったのだ。決して浄むることのない、この洞穴と、無明様の世話が……」
「巫女のことなんざ、知るか。バカが」
咤紀は拳を握ると、壁をどんと殴った。
「答えろォ!」
蓮二は舌打ちをすると、階段の上に目を向けた。
「そいつは、自分の目で見て、考えろよ。なあ、咤紀……」
すると咤紀は、左目をにわかに見開いた。
右目を覆う眼帯に手をかけて、取り外した。その下には、押さえつけられて白くなった瞼があった。
「うう……」
かすかな呻き声。咤紀は重い扉を開けるように、右目を開いていった。その右目から涙が溢れ出してくる。よほど眩しいようで、細くしか開いていられないようだ。
蓮二は開きかけた咤紀の右目の奥に、光が宿るのを見た。
「その様子だと、やはり、視力が戻ったようだなァ」
「ああ……」
「結構なことじゃねえか。――それはそうと、聞きたいことがある」
「答える義理はない。――と云いたいところだが。借りを作ってしまったな。云ってみろ」
「洞穴の奥の、祭壇のことだ。なんだありゃ。なんの神だ」
咤紀は苦い顔をして、なぜか振り返って周囲を見回した。声を潜めて、
「見たのか。わたしすら、この目で見たことはないのだが。――なにしろ、無明様にまみえるような
「それは、なんだ」
「隠された神だ」
「ああ? 隠された神?」
「左様。母から――先代から役目を継いだとき。書や口伝の中に、空白があった。あれはその、空白だったのだ。わたしは……」
そのとき、咤紀の背後に人影が通りがかった。咤紀は口を結んだ。人が離れると咤紀は続けた。
「結局のところ、わたしとて、詳しくは分からなかったのだ。真実を知ろうと無明様に近づいたゆえ、この右目を奪われた。それでも分からなかった。――空白と、無明様とのつながりすら。誰がなにを隠したのか。いや、隠されていたのか? 忘れられていたのか? ――ああ、わたしは、自分がなにを護っていたのかさえ、知らなかったのだな」
咤紀は右手を広げて顔を覆うと、肩を揺すって笑った。
「ふふ、くくく……。はははッ」
やがて笑い声も小さくなった頃、咤紀は蓮二に向き直った。両目には炯々とした光が宿っている。
「さて。これから、とくと視るとしよう。おまえたちの、浄めの旅路を。この庄の行く末を。わたしたちの、奇しき
咤紀は階段を登って去った。しばらく蓮二は階段に座りながら、深い疲労の中で眠りこけそうになっていた。やがて小さな声がした。
「こ、ここは……」
沙耶が意識を取り戻したようだ。
体をよじって上体を起こすと、沙耶は云った。
「お、終わったのですね」
「そうだな」
「ここまで、運んでくださったのですか?」
「そうだな」
「あ、ありがとうございます」
「ああ」
蓮二は沙耶を見た。傾きはじめた西日が差して、沙耶の顔をほの紅く染めた。
階段の上から足音がした。見ると、貧相な髷を結った中年の男がいた。
「ごめんなすって。ご両人様……。手前は、咤紀様の使いの者でございます。お宿を手配しておりますので、ご案内に参りました」
闇巡り おわり
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