闇巡り

闇巡り 1

 沙耶が霊受を成就させるまで、他の見習い巫女と同じく、修行の日々を重ねていた。


 格子窓から差し込む日の光は、立ち並ぶ木の書架を照らしていた。書架には数え切れぬほどの巻物や草子そうしが詰め込まれていた。


 ――そこは白ノ宮の中でも、文読ノ宮ふみよみのみやと呼ばれる、しょが集められた宮だった。


 沙耶は床板に広げられた白い敷布に座り、草子のひとつを両手に持って読んでいた。――そこには、神々の伝承について書かれていた。


 目の前にいる、雪凪ゆきなの声がした。


長神ながかみ様のことは、よくわかったかい?」


 沙耶は顔を上げると、


「はい……。これまで、浅くは存じておりました。されど本日、あらためて、深く学べたかと……」

「よろしい、それでは、幼子に語るつもりで、説明してみなさい」

「わ、わかりました……」


 沙耶は草子を閉じて膝の横に置くと、息を大きく吸ってから、少し緊張しながら語りはじめた。


日月ノ長神ひつきのながかみは、天のはての大いなる白花の中で、世界を見渡しておられます。銀色のうろこの輝きは、等しく交わった、霊の陰陽を示しております。長神様は前後に二つの頭を持ち、東の顎で太陽を、西の顎で月を噛むとされます」

「ふむ、よい」と雪凪はうなずいた。

「ありがとうございます……」

「なにか、聞きたいことはあるかい?」

「――そうですね」


 沙耶は少し考えてから云った。


はばかりながら――草子の中には、かの忌神様の名は、ありませんでした。冥摩ノ神くらまのかみの名は……」

「沙耶。――その名を、かような清浄であるべき宮の中で呼ぶのは控えなさい。呼ぶなら、忌神、までさ」


 すると雪凪は右手の人差し指と中指を立てて剣印を作ると、「しっ」と息を吐いて空間を斜めに斬った。――雪凪がえにしを結んだ烈賀王れつがおうにちなむ、破邪の剣印だ。沙耶は自身のうかつさに苦く顔をしかめ、


「し、失礼しました」

「よい。今後は心に留め置くことだ」

「わかりました……」

「いずれにせよ、かの忌神が、主だった神々と名を連ねることは、ありえぬさ。長神様のことわりに背き、瘴気を世に溢れさせる、あの穢れの根源が……。そうだろう?」

「は、はい。おっしゃる通りです」


 すると雪凪は心配そうな表情で、


「巫女たる者は、慎重でいなけりゃなるまいよ。ね、沙耶……。名を呼ぶだけでもえにししょうずるものさ。ゆえにだからこそ、人との関わりと同じく、神や霊、ことさら瘴気や瘴魔との縁にも、注意をせねば」


 沙耶は不安な声で尋ねた。


「縁……」

「そうさ。想いは霊の道を結び、互いに響きあうものさ。しかるに、悪しき縁ほど、恐るべきものはない」


 そのとき、宮の外から大きな音がし、巫女の悲鳴が聞こえた。誰ぞが食器かなにかをまとめて落としたのだろう。沙耶はびくりと肩を震わせて、格子窓から外へ目を向けた。そこに羽ばたきの音――燕の影がよぎった。





 馬稚国の都の市場通りは人でごった返している。一羽の燕が質屋の影から現れると、人通りをぬって飛ぶに、深編笠ふかあみがさをかむった男に行き当たった。――燕は羽ばたいてその男をかわすと、閃いて鰯雲の空へ飛んでいった。


 立ち止まったその男は、笠に右手をかけて燕を見上げると、また向き直って歩きはじめた。


 男は灰色の着流しに、小ぶりの刀を腰の後ろに差している。深編笠は顎まで覆い、表情をうかがい知ることはできない。


 遠くに城の天守閣を望める市場通りには、露天や商店が並んでおり、そこに町人や魚を売る棒手振り、侍や商人などが往来していた。そんな中では、店に目をくれもせず、素早い足取りで、それこそ燕の如く進んでゆく。――見る者が見れば、侍の動きとも違う、人間離れした身のこなしであると見てとるであろう。


 男は往来の中で急に、ある町娘風の女に近づいていった。女は黄色い華やかな髪飾りに、梅柄を散らした薄桃色の小袖というあでやかな装いなのに、目つきだけが酷薄としていた。


 男はその女の横にぴたりとつくと、「夜に咲くは……」と声を潜めて云った。


 女は、横に男などいないかのようにずっと前方を見ていた。そうしたまま、呟くように、「木蓮なり」と口にした。


 すると男は「狐焔こえんだ。――状況は?」と尋ねた。女はため息混じりに、狐焔と名乗った男に答えた。

「遅いな。宮の者よ」

「云うな。下杉村を経由すると思っていたが。――やつらを、途中で見失ったのだ」


 女は赤い唇を吊り上げると、


戸陰とかげも、ぬるうなったものよ。――よくそれで、宮の裏庭を守れるものよな」

「時がうつる。く教えよ。――戯れ事しか吐かぬ首なら、不要と見るが、いかに」


 狐焔は右手を広げ、やや後方に伸ばしてぴたりと止めた。その先に刀の柄がある。女は慄いたように半歩退がると、


「む、むきになるな。言葉の綾よ……」

「隠密に、綾は不要」


 女は頬をぴくりと引きつらせると、観念したように云った。


「これだから堅物の戸陰は……。いいさ、確かに見た。狼と巫女は、宿をとった。店は、四丁目の玉伊屋」


 女が云い終わる頃には、すでに狐焔は歩き出していた。

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