川陽文

@hubminty

第1話

清水健太、26歳。彼は大学を卒業して3年が経つが、心の中には終わらない葛藤が渦巻いていた。かつては作家を志していた健太だが、卒業後すぐに就職し、日々の仕事に追われるうちに、執筆の夢はいつしか遠い過去のものとなってしまっていた。現在、健太は都内の広告代理店で働いている。そこでは、クリエイティブな仕事が求められるものの、その実態は日々の営業活動と顧客の要求に追われ、彼が理想とした「創作」とはかけ離れた現実であった。

健太は子供の頃から物語を書くことが好きだった。幼少期、家族で旅行に出かけるたび、彼は旅先での経験をもとに短編小説を書き留め、家族に披露していた。その頃から健太は自分の将来を作家として描いていた。大学時代も文芸サークルに所属し、仲間たちとともに作品を創り上げる楽しさを知り、ますますその夢に燃えていた。しかし、現実はそう甘くはなかった。

大学卒業後、健太は周囲の期待と現実的なプレッシャーに屈し、就職を選んだ。それでも、最初のうちは仕事と創作を両立させようと努力していた。だが、会社での激務と上司からの厳しい叱責により、次第に創作活動は後回しになり、ついには手をつけなくなってしまった。健太の心の中には、かつての夢を諦めてしまったことに対する後悔と、目の前の現実との折り合いをつけなければならない焦燥感が常に渦巻いていた。

そんなある日、健太は仕事の疲れを癒すため、大学時代によく通った書店を訪れた。彼はその書店で偶然にも、自分が大学時代に執筆した小説が掲載された文芸雑誌を見つけた。懐かしさとともに、かつての自分が持っていた情熱が一瞬よみがえる。しかし、その思いはすぐに現実の重圧に押しつぶされてしまう。「今さらこんなものを読んで、何になるんだ?」彼は自嘲気味に笑い、雑誌を棚に戻した。

その夜、健太は久しぶりに奇妙な夢を見た。夢の中で彼は広大な海辺に立ち、波打ち際で一匹の亀と出会う。亀はゆっくりと近づいてきて、何かを伝えようとしているかのように口を開いたが、言葉はなく、ただ悲しげな瞳で健太を見つめていた。健太はその瞳に、なぜか懐かしさと共感を覚えた。目が覚めたとき、夢の内容を鮮明に覚えていたが、その意味を理解することはできなかった。

翌朝、健太はいつもと同じように出勤したが、どこか心ここにあらずの状態だった。頭の中には、あの夢の中の亀の姿が焼き付いて離れなかった。仕事中も集中力を欠き、上司から注意を受けることが増えていった。上司は彼に苛立ち、「お前は一体どうしたんだ?やる気があるのかないのか、はっきりしろ」と厳しい口調で叱責した。その言葉に健太は何も返せなかった。ただ、心の奥底で何かが崩れていく感覚があった。

その日の帰り道、健太はふと足が重くなり、歩くのが辛くなったことに気づいた。まるで体全体が鉛のように重くなっているような感覚だった。自宅に帰り着いたときには、すでに全身に強烈な倦怠感が広がっていた。体を動かすのがやっとの状態でベッドに倒れ込むと、すぐに意識が遠のいていった。

目が覚めたとき、健太は自分が見知らぬ場所にいることに気づいた。周りを見渡すと、そこはどこか暗く湿った洞窟のような場所だった。恐怖と混乱が押し寄せる中、彼は自分の手を見て驚愕した。そこには人間の手ではなく、硬い甲羅に覆われた亀の足があった。驚きと恐怖が入り混じり、健太は叫び声をあげようとしたが、口から出たのは甲高い鳴き声だけだった。

「これは夢だ。そうに違いない。」健太は何度も自分にそう言い聞かせた。しかし、目の前の現実は変わらず、彼の姿は亀のままだった。動揺しながらも、健太は何とかしてこの状況から抜け出そうと試みた。しかし、動くたびに甲羅が重くのしかかり、足は鈍重で思うように進まない。彼は洞窟の中を彷徨い続けたが、出口を見つけることができなかった。

時間の感覚が曖昧になる中、健太は次第に自分の置かれた状況を受け入れざるを得なくなった。彼は亀として生きるしかないのだ、と。亀の体は徐々に彼の意識と同化し、健太の人間としての記憶や感情は薄れていった。かつての夢や希望、そして後悔さえも、今では遠い過去のことのように感じられた。

洞窟の中で孤独な日々が続く中、健太はしばしば自分の姿を映す小さな水たまりを覗き込んだ。そこに映るのは、無表情で硬い甲羅に覆われた亀の姿だった。しかし、その瞳だけはかつての自分を思わせるような深い悲しみをたたえていた。健太はその瞳を見つめながら、かつての夢を思い出すことがあった。だが、その思い出は次第に薄れ、やがて消え去っていった。

いつしか健太は、自分が何者であったのかすら忘れてしまった。ただ、洞窟の中を彷徨い続ける亀としての生活に慣れ、そこに生きるしかなかった。そして、ある日、彼は洞窟の中でまた別の亀と出会った。新たな仲間の存在に、健太は一瞬心が温かくなるのを感じたが、その感覚もすぐに薄れ、亀としての生活に戻った。

やがて、健太の記憶は完全に消え去り、彼はただ洞窟の中で静かに生きる亀となった。かつての人間としての健太は、亀の甲羅の中に閉じ込められ、二度と外に出ることはなかった。そして、その洞窟の中で、彼は永遠に静かな時を過ごし続けるのだった。

こうして、清水健太という青年は、この世から消え去った。彼の存在を覚えている者は、今や誰もいない。彼の夢や希望、そして後悔さえも、すべてが遠い過去の一部となり、ただ静かな亀としての生が残されたのだった。

月日は流れ、洞窟の外の世界では季節が巡り、時代が移り変わっていった。しかし、洞窟の中は相変わらず静かで、時間が止まったかのように感じられた。清水健太が変わり果てた亀として生き続ける中、彼の存在は次第に洞窟の自然の一部となりつつあった。もう彼は自分がかつて人間であったことを忘れていた。それどころか、自分が何者であるかさえも気にしなくなっていた。

洞窟の中には他にも生き物が存在していた。小さな虫や、時折訪れる鳥たちが彼の周りを飛び交い、亀としての健太にささやかな刺激を与えていた。しかし、その刺激も次第に平凡な日常の一部となり、健太はただ静かに、何事もない日々を過ごし続けた。

ある日、洞窟の外から人間の足音が聞こえてきた。健太はその音に耳を傾けたが、心の中には特別な感情は湧き上がらなかった。彼はただ、音が次第に近づいてくるのを感じていた。やがて、洞窟の入り口に一人の青年が姿を現した。青年は好奇心旺盛な目で洞窟の中を覗き込み、懐中電灯を持ちながらゆっくりと歩みを進めた。

青年はやがて健太のそばまでやってきた。そのとき、健太は初めて自分が人間に見られていることに気づいた。青年は亀の姿をじっと見つめ、不思議そうな表情を浮かべた。そして、まるで自分に話しかけるように、静かに言葉を発した。

「君は、ずっとここにいたのか?」

その言葉は、健太の心の奥底に何かを呼び覚ました。かつて彼が持っていた人間としての記憶や感情が、微かにだが戻ってくるような感覚があった。しかし、それはすぐに消え去り、再び彼は無表情な亀の姿に戻った。

青年はさらに洞窟の奥を調べようとしたが、そのとき、健太の心の中に一瞬の葛藤が生まれた。彼は何かを伝えたかった。だが、亀の体ではそれを表現することはできなかった。彼はただじっと青年を見つめることしかできなかった。

青年は洞窟の中を一通り調べた後、何も見つからなかったように肩を落とし、再び入り口へと戻っていった。彼が去った後、健太は再び洞窟の静けさの中に戻った。しかし、その静けさの中で、彼はかつての自分の存在を僅かに感じ取った。

健太の心には、一抹の後悔が残った。彼はもう一度、人間としての生を取り戻したいという欲求を感じた。しかし、それは叶わない願いであった。彼はすでに亀となり、人間としての生を永遠に失ってしまったのだ。その現実を受け入れるしかなかった。

日が過ぎ、月が満ち欠ける中で、健太は再び亀としての静かな日常に戻っていった。しかし、時折、洞窟の水たまりに映る自分の姿を見つめるたびに、彼はかつての自分を思い出し、その瞳に一瞬の悲しみが宿ることがあった。

やがて、洞窟の中に光が差し込む季節が訪れた。洞窟の外では花が咲き、風が草原を吹き抜け、生命が再び息づいていた。健太はその光の中で何かを感じたが、もうそれを確かめる術はなかった。ただ、洞窟の中で、彼は静かにその瞬間を受け入れた。

ある夜、満月が洞窟の入り口を照らし、健太は再び夢を見た。今度の夢では、彼は再びあの広大な海辺に立っていた。そして、再び亀と出会った。しかし、今度の亀は彼自身であり、健太はその亀と一つになった感覚を覚えた。海は静かで、月明かりが波間に揺れていた。

「これが、俺の運命なのか。」

健太は心の中で呟いたが、その言葉は海風に乗って消えていった。彼はもう一度、広大な海に飛び込むように感じたが、その瞬間、夢は途切れ、彼は再び洞窟の中で目を覚ました。

しかし、その朝、洞窟の外から聞こえてくる鳥のさえずりや風の音が、以前よりも少しだけ鮮やかに感じられた。彼はその音に耳を澄ませながら、再び静かな日常に戻っていった。

時間は再び流れ、季節が変わり続けた。健太は静かに洞窟の中で生き続け、やがて彼の存在もまた、洞窟の中で消えていった。しかし、その洞窟の中には、かつて人間であった一つの魂が、永遠に漂い続けているのかもしれない。かつての夢や希望と共に、静かに。

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