第12話 カナホの悪夢
街の中心部から少し離れた、住宅街。
その中のある一軒の家から、ピアノの音が聞こえます。
ピアノを弾いていたのは、カナホでした。
リビングに置かれたアップライトピアノの鍵盤。その白鍵と黒鍵を撫でるようにカナホは弾いていきます。
明るく、でも少し悲しげでもある音楽が、響きます。
カナホも、どこか寂し気な表情です。
そのとき、突然、ダンっ、と不協和音が鳴りました。
演奏を止め、ゆっくりと顔を横にむけます。
椅子に座るカナホの横に、一人の男性が立っていました。
さっきの不協和音はこの男性が乱暴に鍵盤を叩いた音でした。
この男性は、カナホの“父親”でした。
父親はわざとらしい笑顔をうかべ、カナホを見下ろします。
「カナホ。それは『お父さん』に教えてもらった曲かい?」
尋ねられて、カナホは気まずそうに小さくうなずきました。
「じゃあ、二度と弾かないでね」
父親はそう言ってから、鍵盤の上に一枚の紙を置きました。
それは、算数のノートでした。表紙にはカナホの名前が書いてあります。
「カナホ。宿題は終わった?」
「……はい。終わりました」
「違うね。全然ちがうね。僕はカナホのお父さんなんだから『うん。終わったよ』って言わないと」
カナホはそっと自分のズボンを握りしめました。その様子に気付かない父親は、さらに続けます。
「カナホは勉強が苦手でしょ? この前のテストも百点じゃなかった。宿題以外にも家庭学習しないと。カナホに合いそうな問題集買っておいたから、やるんだよ」
カナホは小さくうなずきました。
布団の上。タオルケットを跳ね飛ばしてカナホは飛び起きました。
オレンジ色の小さな常夜灯が照らす和室。
勉強机の上に置かれた時計が指すのは二時五分。深夜。
ここはどこだろう、とカナホは不思議そうな表情を浮かべますが、すぐに思い出したようです。ここは、伯父さんと伯母さんのお家です。
さっきまで、夢を見ていたのです。
夢でよかった。そう思ってもまだ胸がドキドキしていて、水玉のパジャマは汗でぐっしょりです。
薄暗さに目が慣れてくると、枕元で眠る三人の妖精が見えるようになってきました。
自分の左手を見ます。
何日か前にお医者さんに診てもらい、包帯がとれました。
包帯は無くなりましたが、まだ傷跡ははっきりと残っています。
カナホは音をたてないように、ソロリと部屋を出ました。
カナホの部屋の横は、シアンの部屋です。
少し開いたふすまから漏れる、光。
カナホはその隙間から中をのぞきました。
シアンは勉強机にむかい、楽し気に古びた本の文字を追っていました。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説『星の王子様』です。
カナホの視線に気付いたようで、頁に栞をはさむとカナホの前までやってきます。
「シアンちゃん、まだおきてたんだ」
カナホが小声で言います。
「うん。明日土曜日だから、つい夜更かししちゃった。カナホはどうしたの?」
シアンも小声です。
「喉が乾いちゃったから、お水飲みに行こうと思って」
カナホは誤魔化すように言いました。
しかし、シアンはカナホの様子が普段と違うことに気付いたようです。
「カナホ、汗びっしょり。悪い夢でもみたのかな? 一緒に行こうか」
ダイニングキッチン。
カナホはテーブルにつきます。
シアンはマグカップを二つ用意すると、牛乳を注ぎ、電子レンジで温めてから、ハチミツを入れてかき混ぜました。
「ハチミツ入りのホットミルク。気持ちが落ち着くよ」
シアンは片方のマグカップをカナホの前に置きました。
「ありがとう。シアンちゃん」
カナホはふー、ふー、してから一口飲みます。
シアンもカナホの正面の席に座りました。
「そういえば、カナホ、誕生日近かった気がするんだけど、いつだっけ?」
シアンはそう尋ねましたが、カナホはチラリとカレンダーを見てから、首を横に振ります。
「ううん。まだまだ先だよ。えっと……冬だから」
カナホはシアンと目を合わせませんでした。
「そうだっけ? そろそろって思ってたんだけど……」
シアンはそう言ってから、自分のホットミルクを一口飲みました。
深夜。静かなダイニングキッチンでは、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえます。
カナホは何かに気付きました。
「そういえば、シアンちゃんのマグカップって、もしかしてお婆ちゃんに貰ったやつ?」
シアンが使っている陶器のマグカップは、クマのイラストが描かれています。
「うん、そうだよ。なんでわかったの?」
シアンはそう言ってから、自分のマグカップに口をつけます。
「私も、お婆ちゃんに同じのもらったから。割っちゃったけど」
カナホは慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと言いました。
シアンはハッとしたようになりました。
「……そっか。そうなんだね」
シアンは自分のマグカップをテーブルの隅に移動させました。
「カナホ、あのね。前読んだ本に書いてあったことなんだけど、過去が辛いなら振り返らなくていいんだよ。前だけ見ていたらいいんだよ」
シアンに問われて、カナホはうつむきます。
「お父さんも……同じようなこと言ってた。昔に捕らわれちゃ駄目って」
シアンはしまった、という表情になり小さく「……ごめん」と言いました
沈黙。
「シアンちゃんは悪くないよ。ウチ、もう寝るね」
カナホは残りのホットミルクを一気に飲み干すと、自分の部屋に戻っていきました。
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