延命
海崎しのぎ
前編
彼女と出会ったのは晩蝉の鳴く夏の夕暮れだった。
そこは家からほど近いいつも無人の河川敷で、執筆に行き詰まった私の逃げ場でもあった。私はほぼ毎週この河川敷を当てもなく歩きながら、時には石を川に放り投げてみたりして適当に時間を潰していた。
その日も上手く筆が乗らず、いつものように河川敷を訪れた。薄紫に膨れた雲の暗い夕暮れの河川敷には珍しく一人の先客が居て、私は酷く驚いたことを覚えている。それは少女であった。まだ学生くらいの少女は夏だというのに長袖の白いブラウスを着て、白いスカートを履いていた。丈の長いスカートを持ち上げて足首までを水に浸け、蹴り上げて飛沫をあげながら舞う少女は何処か満たされた表情であったが私はその少女に世界に一人だけ取り残されてしまったような悲愴感を感じた。私が河川敷に足を踏み入れようものなら消えてしまうかもしれない、そういう儚さがあった。少女は私に気づくことなく回り続ける。何度か足を取られよろけながら、水飛沫に湿った黒髪が頬に張り付くのも気に留めず一心不乱に舞っていた。
私は少女が何か人ではない神秘的なものに見えた。同時に、私は少女を書いてみたいと思った。
その後彼女の舞を見届けることなく帰路に着き、その晩から執筆を始めた。たった一度見ただけの少女は私の文字でより儚く、より神秘性の増した何者かになった。もはやあの少女ではなかったので、私は誰の目に触れる前にこの原稿を処分してしまおうと思ったが運悪く家にやって来た担当の青年に見つかって製本の運びになってしまった。
私は少女に対して大罪を働いた気分になって、しばらくその河川敷に行くのをやめた。
私は文章で生計を立ててきた。
元は絵を描いて生きるつもりであった。学生時代に手遊びで書いた小説が何かの拍子に評価を得てしまい私はそちらに舵を切ることになったのであるが、この瞬間に絵では食っていけないのだときっぱり筆を折ってしまえばよかったと後悔する日々が始まったのである。
最初、絵を描くことは私の心の支えであった。私の絵は生活を支えてはくれなかったが、それでも私は構わなかった。
そもそも私には文章の価値など分からない。好きなように読み、好きなように書くだけだったのが、売れるだとか、売れないだとか、良しとか悪しとかで読んだり書いたりしなければならなくなってしまったことが私には何よりもしんどいものであった。
私はいつも苦しみ悶えながら原稿用紙に向き合った。何を書いているのか分からなくなりながらも私は書き続けた。生きている中で一番無価値だったこの時間は、しかし果てに生まれたものに大層な価値を付けるのだった。
いつ頃からだったか、遂に私を支えてくれていた筈の絵も私を嘖む種になった。
何も分からないまま文章を書き続けるのはあまりにも木偶ではないか。吐露するような心内も無く、ともすれば己の虚無を吐き出しているとも言えようか。これといった思想も無く、目標も無く、拘りも無い。だのに作品には値が付けられる。だから、書く。
そんな男が描いた絵のどこに魅力があるだろう。そう思わない日はいつの間にか無くなった。
たとえ絵に値が付かなくとも、描けるだけで幸せだった。自分にとっては何よりも価値のある作品だった。価値のあるものを私は作れるのだと虚勢を張って、それで生きながらえていた。
私は、とうとう気付いたのだ。私は空っぽだったのだと、空っぽの木偶が何を描いたところで、全くの我楽多でしかないと、私は気付いてしまった。否、目を背けてきただけだったのである。文章を書きながら募ってきたこの疑惑に向き合わねばならない時が来た。ただそれだけのことだった。
気付いてから、私はあの時の小説で少女をあまりに神聖的に書いてしまったことを一層後悔した。満ち足りた顔で舞う少女の不思議な儚さと、不釣り合いで、しかし妙に調和の取れた生命力は少女が人のままに神聖な雰囲気を醸したからこそ成り立つ奇跡の産物であるというのに、私は神秘性のみを抽出して彼女の姿を浮き彫りに書いた。私がもっと信条に溢れた人間だったならばこの悲劇は起こらなかっただろう。
もう何も手に付かなくなった私はほぼ無意識に河川敷へ足を向けた。水の音が聞こえたあたりでやっと自分が河川敷に向かっていることを自覚したが、そのまま川に入ってしまえと思って引き返さなかった。だが運悪く河川敷には先客が居て、私の密かな計画は決行されることはなかった。先客はあの時の儚い少女だった。私はあの小説のことを思い出して引き返そうとしたのだが、それよりも早く少女は私に気が付いた。彼女は私に近づいて、一言挨拶をしてから川が好きなのかと問うてきた。私が訝しむと彼女はいつもここに居るでしょう、と笑った。最近は姿が見えないから心配だったとも付け加えた。
少女は私が拒まないのを見て私の隣に並んだ。それからもう一度川が好きなのかと問うた。
様々なものに興味を持つ歳なのだろう、自分とは親子ほどに歳が離れていそうな少女と共に河川敷を歩きながら、私は別に特別好きなわけではないと答えた。
少女は若干気落ちして、では何故ここへ通うのですか、と問うた。仕事に行き詰まったら来るだけで通ってはいないと答えたら、少女は私の仕事に食い付いた。もう私は自分を物書きだと言いたくなかったが、それ以外には何も仕事をしていなかったので答えられずに黙ってしまった。少女はきっと難しいお仕事をなさっているのですね、と一人で呟き納得していた。
その日は日が落ちるまで話をして次の約束を取り付けてから別れた。
少女と別れた後の私は晴れ晴れとした心持ちで帰路についた。久々に他者と仕事以外の話をしたのが良い気分転換になったのだろう。
だが帰宅してからも別段、ものをかくような事はしなかった。せっかくの良い気分が濁ってしまうことが怖かったので、ものぐさに放っておいた絵の具や筆や、原稿用紙も全て見えないように仕舞い込んだ。
一切仕事をしないまま私は約束の日を迎えた。少女に会ったらその足でどこか遠くへ行ってしまうつもりであった。あの日少女と別れてからは良い気分でいたのだが、時間が経つにつれて私が抱え続けた気持ちの悪い虚無感が再び湧き上がってきてしまったからである。一度向き合ってしまった以上、背く事はできないらしい。私は不器用なのだ。
河川敷にはもう少女が来ていた。川の近くでしゃがみこむ小さな背中に近づいて声をかけると、少女は嬉しそうに振り返った。手には一つの石を持っていた。
青みがかった灰色の、角が丸く削れた石を少女は両手で弄ぶ。以前の会話で少女は石を集めるのが好きだと云っていた。様々な色と形があって、沢山の中できらりとするのを見つけるのが楽しいのだと笑っていたのを思い出した。
少女は額に汗を浮かべていた。長い時間ここで石を見ていたのだろう。晩蝉に助長される暑さの中で、相変わらず少女は長袖の服を着ていた。私の視線を辿った少女は石を持ったまま両手を後ろに回してはにかんだ。
私は少女を小説に書いてしまった時の大罪を働いた気分をもう一度味わいながら彼女と木陰へ移動した。
道中風に吹かれた少女の袖口から白い包帯が覗いたのが視界の端に映った。そして、それが私の目に触れた事を察した彼女は小さな声で私に謝罪して、私は成り行きで彼女の長袖の理由を知る事になった。
だがここで少女の抱える事情について詳らかにするのは辞めておく。特筆すべき事では無いし、彼女の尊厳に傷がつく以外には一切意味を持たないからだ。
木陰から沈みゆく太陽を眺めながら、少女は絵が描けたら良かったとのにと云った。ただ白いだけの包帯が色鮮やかになったらどんなに素敵なことか、もう数え切れない程そんなことばかり考えたが自分にはそれを叶える術が無いと続けた。
その顔が、声が、あまりに儚かったものだから、私は少女の願いを叶える申し出をしたのだった。これは決して少女の危うい神秘性に魅せられた故の同情などではなく、かつて少女に働いた大罪に対する、私なりの精一杯の贖罪である。
三回目の約束は私の家の縁側で果たされた。
私はこの約束の為に固く施錠した箱から画材を全て取り出して久方振りに絵を描いた。勝手を思い出すまでに随分と時間を掛けてしまったが私は無事に少女を迎え入れ、その腕を彩ることができた。少女は驚き、感嘆の声を漏らしたあとで代金の話を振ってきた。私は別に一銭も貰うつもりはなく、そもそも値が付く程大層なものでもないと拒んだが少女は頑なに聞かなかった。
長い押し問答の末に私が折れた。ただし、金銭の代わりに私は少女に石を所望した。
誰からも評価されることなく、終ぞ作者からも見捨てられたような絵に熱烈な評価を下した少女の見る世界ではどんな石がきらりとするのか、私は知りたくなったのだ。何か特別な石を期待した訳ではない。ただ純粋に少女の感性が見たかった。
対価に石を据える事に少女は案の定良い顔はしなかったが今度は私が言い包めて承認させた。無理に毎回持ってくることはない、見つかったらで良い、と再三少女に言い聞かせてその日は解散とした。
この日を境に私たちは明確に会う約束をしなくなり、不定期に少女が訪ねて来るのを私は縁側でゆっくり待っている形になった。
何度回数を重ねても少女は新鮮な反応をした。
少女は週に数回来ることもあれば、一、二ヶ月ぱったり来なくなる時もあった。来ない日があまり続くと寂しく感じたが、少女は長い間来なくなる直前は必ず猫を描くように頼んできたので私は心積りをすることが出来た。
不定期で訪ねて来る少女の為にすっかり時期をを逃して死に損なった私は執筆活動を開始した。相変わらず空っぽな私の文章は多方面に歓迎され、休職前よりも良く評価されるようになった。私はまた評価と価値の中に身を置く生活に戻ったが以前ほどそれを気に病む事はなくなった。興味がなくなったのだ。私は少女に絵を描くことだけを拠り所に生きていた。
延命に近い感覚であった。贖罪という名の元に始まったこの関係は穏やかに崩れ、気付く事も出来ないくらい静かに静かに関係の名を依存に変えた。
私は最初から描けなくなったら幕を引くつもりであった。だが彼女と関わりを持ってから引き時が狂い、そのまま見失ってしまった私は勝手ながら少女に引き時を半分委ねたのである。
私の不純な思いを知る由もない少女は家を訪ねて来る度に石を一つ持ってきた。彼女の世界で輝いた石は、私の世界でも輝いた。
色も形も様々な石から、次に彼女が来た時に描くおおよその案を纏めるようになった。同時期から私も外出の際石を見るようになったが、少女が持って来るようなきらりとした石が見つかったことはただの一度もない。だから、私の部屋には彼女が見つけて来た石以外は何も並ばなかった。
少女と出会い、私の延命が始まってから一年が過ぎた。変わらず石を持って訪ねて来る少女は、しかしその頻度を段々落としていった。理由は大体察していた。
少女があまり来なくなってから私は執筆に多く時間を割けるようになったので、酷い後悔に終わったあの小説を、ひいては少女を、もう一度書いてみようと思った。
あの頃から変わったのは少女との関係のみで私自身はきっと何も変わってはいなかったが、彼女に延命されてからの鮮やかになったこの日々をどうにか形にしたいと思ったのである。
世間が良いという私の文章で記憶を綴って、少女が良いという私の絵で表紙を飾って、私の全てを詰めようと、そう思った。この時の私は全てを詰められる気がしていのだ。実際、過去に見ない速さで書きあがった小説は過去に見ない文章量で、それが自分の絵で、予想していたよりも重い本に仕上げられて手元に届いた時は本当に、全てが詰まっていると感じたものである。
空っぽな私でもかき集めればこれだけのものがあるという事実が私は何よりも嬉しくて、少女がくれた石の隣にその本を置いた。
執筆中、少女は一度も来なかった。
少女が来なくなってから半年が過ぎた。
私はあの本が出来てから全く文章が書けなくなってしまった。何を書いても劣るのである。あれ以上のものはもう書けなくなってしまった。全てを詰めて作ったせいで本当に何もなくなってしまった、そんな感覚だった。
何を書くにしてもあの本がちらつき筆が行き詰まる。今までも何度か書けなくなりそうになったことはあったが、ここまで何も書けないというのは初めてだった。
打開策など考えず日がな一日筆を握った。一枚も書けないで日は落ちていくばかりであった。
私はすっかり絵も描かなくなった。紙に向き合って、何も描けなかった時が怖かった。
少女はもうすっかり姿を見せなくなった。
私は決心して暫くぶりに絵筆を取った。
私の手は微塵も動かず、頭も一切回らなかった。
描けなくなった。
なんと静かな最後だろうか。
たった一つ、心に蟠るものを挙げるとすれば、私の人生を鮮やかにしてくれた、私に価値を付与してくれた、あの少女に身分も明かさず直接の礼もしないまま逝く事である。
最後に、少女からの石は私の墓に、本の表紙に使った絵の原画を礼の代わりとして彼女の元に、それぞれ送ってくださるよう。
(ある作家の書簡より 全文)
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