朔月の思い出
@ailans2
第1話
29.0__ 2024年6月6日午前6時。スマホのアラームが鼓膜をたたき割る勢いで鳴り響き、浅い 眠りから意識が戻る。私の憂鬱な気分と、眩い光を悪気もなく差し込んでくる朝日はまるで対照 的だった。重い体を持ち上げ、洗顔を済ませた私の顔は1日のうち最悪のビジュアルといえるだ ろう。毎朝少しはましに見えるよう化粧水、日焼け止め、コンシーラー、アイブロウ、アイメイク、ハ イライトを塗り施す。最近流行りのメイクを研究して、貴重な朝の30分を費やしているのは、ほん の少しでも自分に自信をつけるためだ。 私は神奈川の県立高校に通う、普通の高校2年生。7時52分発の満員電車に揺られ20分。駅か ら学校までも徒歩20分。まだ6月だというのに教室につく頃には少し汗ばむほどの陽気だ。後ろ 側のドアを開け、冷房の効きすぎた冷たい空気が全身に当たると同時にほぼ無意識のうちにあ る人を探してしまう。窓側から2列目の前から4番目。毎日早くに学校に来ては読書をしている。 勉強はテスト前にのみ、読書などもってのほかな私とはまるで住む世界の違う、かけ離れた人の ようにも思える。効きすぎた冷房直下の席に座っている彼の単行本を姿勢よく読むその肩は寒さ に耐えているようにも見える。彼は男女ともに人気のある人だ。私はそんな彼と少しでも距離を縮 めたいために話しかけに行ったり、連絡を取り合ってみたりしたいという妄想ばかりするが実際そ んな勇気があるはずもない。ズボラな性格で見た目にも自分に自信がなく、2か月たっても一歩 踏み出せずにいる。__ 放課後、少しでも彼に近づきたいという気持ちから、年に1回行くかも怪しいほど興味のなかっ た図書室へ足を運ぶことにした。重いドアを開けると、様々な紙、木、古びた絨毯の、どこか落ち 着くような香りが鼻を擽る。私は本を読むうえで、分厚いものはどうせ飽きると思ったのでできる だけ薄い短編小説を探した。ひときわ目についた、タイトル部分がワインレッドで、年季の入った 黄色に変色した紙に何より1cmに満たない薄さの本を見つけ、手に取った。用意されている椅子 に音を出さないよう慎重に腰かけ、ページをめくる音しか聞こえない、慣れない静けさの中、本を 読んでみた。内容は、平民の主人公の女の子が町で馬車で通りかかった貴族の男に憧れを抱 き、不相応な叶わぬ恋だと分かりつつも、主人公は新月の日に悪魔と取引をし、貴族の装いを手 に入れる。男に近づき、ついには愛人関係まで発展するが___。 気が付いたのは、司書さんに寝ているところを起こしてもらう声だった。まだ読み終わっていな かったが貸出の手続きをするにも面倒なので本は棚に戻し、家に帰ることにした。 帰りの電車の中で、ふとこう思った。もし私が自分に自信が持てて、真面目な性格でおしとやか な、理想の人間になれたら勇気を出して話しかけるのに。そんな今の自分には実現不可能な願 望を心の片隅に置きつつ、眠りについた。
その日の夜は悪夢を見た。内容こそ思い出せないが、後味の悪い夢だった。
0.6__ 2024年6月7日。午前6時。スマホのアラームが鼓膜をたたき割る勢いで鳴り響き、浅い眠 りから意識が戻る。悪夢を見たせいか体は少し汗ばみ、嫌悪感に襲われる。だが何と言おうと6 時は6時なのでいつも通り洗顔に向かう。その時。洗面所の鏡を見て初めて、自分の姿が昨日と はまるで違うことに気づいた。寝起きにもかかわらず艶やかな長い黒髪。白く、血色感のある肌。 大きい目に長い睫毛。スッと直線に伸びた鼻筋に主張こそ強くないが口角が少しばかり上がった バランスのいい口。昨日の自分とは似ても似つかない、完全に別人の、いわゆる理想の自分に なっていた。一体何が起こっているのかわからない私は部屋に戻り、スマホの写真フォルダに目
を通した。2週間前に友達と撮った自撮り、3か月前のクラス打ち上げの集合写真、1年前の入学 式の写真、、、。どれも写真に写っている自分は、今、今現在の顔の私だった。ありえない。何が どうなっているのだろう。 そうこうしているうちに朝の準備が何一つ終わっていないことに気づいた私はまず、メイクをして 学校に向かうことにした。 教室に着く前に電源を落としたスマホの暗い画面で自分の顔を見た。やはりこれは私じゃない。 でもなぜか今日から、いや、ずっと前から私はこの顔だという世界に飛んできたのか。あるいは 昨日の夜に私の過去の何もかもが変わってしまったのか。そう考えながら教室の後ろのドアを開 ける。窓側2列目の前から4番目。エアコンの風になびくセンター分けの毛先を日光が照らし、薄 茶に光るその様子は何処か儚い空気をまとっている。彼が今日も分厚い本を読んでいるのを見 て私は昨日の短編小説を思い出した。まさか、私は___。思考を遮るように音割れした始業の チャイムが鳴った。
夜、勇気を出して寝る前にクラスラインから彼のLINEを探し、やっとの思いで追加し、気軽な挨拶 の文でさえ15分はかけて送った。彼の返信は思っていたよりも早く、ものの5分ほどだった。挨拶 をし、今日話しかけられてびっくりしたこと、お互いに話してみたいと思っていたことなどを話し、会 話はいい雰囲気の中終わった。夢にまで思った彼との会話ができたことに心臓が張り裂けるほ ど嬉しかった。
22.6_ 2024年6月29日午後8時。 彼とLINEで話し始めて3週間ほど経ったある日、2週間後に控える期末テストの勉強を一緒にし ないか、という願ってもないような提案をされた。もちろん私は誘いに乗り、月曜日から市立図書 館で放課後を一緒に過ごすことになった。
24.6 ̳2024年7月3日。 一昨日から始まった彼と私の一緒に過ごす時間は、3時間ほどほぼ無言で勉強に集中し、帰りは 最寄り駅まで2人で歩きながら会話をするという内容だった。そして今私は世界史のワークに取り 組んでいる。教科書や資料集に詳しく書かれていない事柄を見つけ、スマホで調べようとも思っ たが、真剣に数学に取り組む彼の目の前で、遊んでいると思われるのは嫌だったので館内で違 う資料集を見つけてくることにした。図書館など少し前までは素通りしていたような場所が、今で は彼と過ごせる特別な場所になっていた。 資料集を探しているとき、ふと何週間か前に読んだあの短編小説を思い出した。私が私でなく なったのはあの本を読んだ次の日だった。興味本位で手に取ったあの本の結末が気になり、分 類表の938の棚まで出向き、タイトル部分がワインレッドのひと際目立つその本を手に取る。最後 の10ページほどを読んでみると、そこには想像しているよりも残酷な結末が書かれていた。 主人公の女の子と男はパーティー会場で出会い仲を深め愛人関係にまで発展するが、密会して いた次の新月の日、主人公の貴族の装いといえる全てのものが男の目の前で元の姿に戻ってし まう。男は貴族である自分を主人公は騙したのだと激高し、慈悲のかけらもなくその場で切り捨 ててしまう。__ 男は本当に主人公のことを愛してはなかったんだ。何て酷い終わり方だと私は思った。すると私 はまたありえないような考えが頭に浮かんだ。もしかしたら私のこの”変身”は、このストーリーと繋 がりがあるのではないか。私がこの姿になれてはじめて彼に近づくことが出来た。主人公は新月 の日に悪魔と取引をした。私がこの姿になった日、図書室に行ってこの本を読んだ日、彼とLINE を交換する前の日、、。私は迷いなくスマホの検索欄に、「2024年6月 月齢」と文字を入れた。1 番最初に出てきたサイトを開き、6日の月の満ち欠けの図を見た。新月だった。その文字を見た 途端、次の新月の日を調べずにはいられなかった。もしこの仮説が本当なら、私は次の新月の 日に元の姿に戻ってしまう。彼と過ごした3週間はなかったことになってしまうのか、それが私に
は怖かった。サイトをタップし、心臓を強く握られるような感覚に襲われた。3日後の7月6日。私は この日に元に戻ってしまう。不安と焦りに絶望すらも覚えた。
28.6_2024年7月5日午後10時。 明日がどうなるのかすら分からない恐怖で私は彼とのLINEを未読無視してしまっていた。幸い明 日は土曜日で、勉強の予定も午後からだ、という気休めにもならない言い訳しか考えられなかっ た。LINEが4件も入っている。それを見たらなおさら眠りに落ちることができなくなると思った。私 はこの姿になった意味を、意義を考えながら目を閉じた。自分に自信がなく、それを見た目や性 格のせいにして何も行動することができなかった私は、この姿になって初めて、彼との関係に1歩 踏み出すことができた。もし明日、元の姿に戻って今までのことが存在しなかったとしても、ありの ままの私で生きていく勇気をもって生きていかなければならない。そう心の中で結論付けた。明 日が来るのが怖い。枕元を涙で濡らしながら深い眠りについた。
__スマホのアラームが鼓膜をたたき割る勢いで鳴り響き、深い眠りから意識が戻る。いつもより 目覚めのいい脳と、眩い光を悪気もなく差し込んでくる朝日はこの世界が私を歓迎しているよう だった。体を起こし洗顔を済ませた私の顔は元の姿に戻っていた。今日も化粧水、日焼け止め、 コンシーラー、アイブロウ、アイメイク、ハイライトを塗り、今日1日で1番可愛い状態の私が出来上 がる。最近流行りのメイクを研究して、貴重な朝の30分を費やしているのは、ほんの少しでも自 分に自信をつけるためだ。 2024年6月6日午前6時 天気は晴れ。今日は月齢0.2の新月。7時52分の電車に乗り今日も学 校へ向う。まだ6月だというのに教室につく頃には少し汗ばむほどの陽気だった。1つ、深呼吸を し、効きすぎたエアコンの冷気を足元に感じながら、教室の後ろ側のドアを開けた。
朔月の思い出 @ailans2
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます