七日目の蝉
干し星
七日目の蝉
梅雨が明けて、青すぎる空が見える。
蝉の鳴き声がする。
────わたしは夏が嫌いだ。
気づかないうちに眠っていた。
わたしが目を開けると、教壇の上で、牛の顔をした先生が、こちらを睨みつけていた。
「……………すみません」
先生はわたしの謝罪には目もくれず、黒板に向かった。
声を潜めた笑い声に周りを見渡せば、猫の尻尾やうさぎの耳を生やしたたくさんのクラスメイトが、こちらをちらちらと見ては笑っていた。
わたしはまた机に突っ伏す。
これが、わたしの日常だ。
「───先輩、こんにちは」
声を掛けると、先輩はびくりと肩を震わせた。
「あぁ、柴崎さん、こんにちは」
振り返った先輩の顔が少し綻ぶ。いつも通り少し眠たげな、優しい瞳にわたしは見惚れた。
「今日も、とってもいい天気ですね」
「そうだね、この時間だと、気温も過ごしやすくて…ずっと、こうだったらいいのに」
「先輩、この間もそんなこと言ってました」
そうだったかな───と先輩は微笑む。わたしは彼の隣にそっと腰掛けた。
学校の裏庭にある大きな木の袂は、先輩の特等席だ。わたしは昼休みになると、時々ここを訪れては、先輩とそんな他愛もない話をする。
淡く、脆く、今にも崩れ落ちそうな狭間を幾重にも重ねて紡ぎあげたような、時間。
「ねぇ先輩聞いてください」
「うん?」
「今日のお弁当パスタ入ってたんです」
「ふふ、本当、パスタ好きだよね」
「何パスタだと思います?」
うーん、とそんなくだらない問いに頭を捻る先輩。もし許されるならわたしは、この彼を永遠に見ていられる自信がある。
「んー、ギブアップ」
「早くないですか?」
「そんなことないよ」
「ふーん…まぁ、正解は、和風パスタでしたー」
意外な答えだったらしく、先輩は目を丸くして笑っていた。
こんな会話をずっとしていられたら、どんなに幸せだろうとわたしは切実に思う。夏はもう終わりだというのに、目の前を蝉がばたばたと飛んでいた。
「柴崎さんは、本当によく飽きないね、こんなところ」
笑顔の余韻も途切れ、自然と沈黙が降りた頃、先輩の声がぽつりと言う。仄暗く自嘲を込めたその呟きに、わたしは何も言えなかった。想いを乗せられる言葉が見当たらなかった。
『先輩が退学する』
そんなニュースが舞い込んできたのは、ちょうど梅雨入りの頃だったと思う。
出どころは一人の生徒の盗み聞きらしい───詳しいことはわからないまま、良くも悪くも目立つため、校内ではそこそこ名を馳せていた先輩のそんな噂は、瞬く間に広まった。
「一つだけ…訊いていいですか」
だから、わたしは、答える代わりにそう訊いた。
答えられない問いへの誤魔化しでもあった。でも、それ以上にわたしは、今しかないと思った。
今しか訊けないと思った。
「──先輩にとってのわたしって、なんですか?」
その唐突な問いに、先輩は僅かながら驚いたようで、こちらを向く瞳が小さく震えた。ふ、と柔らかな息遣いをひとつして、彼は目線を外す。滑らかな睫毛の影が、細く瞼を縁取った。
「……そうだね───」
先輩はごく穏やかに、微笑みを崩さずにそう零した。その目はこちらを向かない。ただ虚空を、先輩にしか見えない何かを、見ていた。
「───意地悪なこと言うね、柴崎さんは」
「そうやって逃れようとする先輩のほうがよっぽど意地悪じゃないですか」
「…手厳しいなぁ」
先輩は苦笑した。図星ですよね、と畳み掛けたくなる衝動をわたしはぐっと堪えた。わたしは、先輩を困らせたいわけではなかった。
「わたしに誤魔化せると思わないでください」
先輩の顔を覗き込むようにしてわたしはそう言った。
先輩は困ったような顔をしていた。その顔が、何故か泣いているように見えた。
「──でも、これだけは言えるよ」
「……はい?」
「柴崎さんがここにいたことは、僕は多分ずっと忘れないと思う」
「………なんですか、その言い方…」
まるで、終わりみたいじゃないですか───。
続く言葉は口にできずに霧散した。わたしは俯く。
「どうして……そんな、」
「──退学のこと」
思わず、弾かれたように顔を上げた。
「……………ほんと、なんですか、それ」
「うん、噂になってるみたいだね。本当だよ。もう来週には、ね」
信じたく、なかった。
先輩の顔を見る。やはりもうこちらを向いてはくれない、その端正な顔を。
「ごめんね」
切り捨てるような、やけにはっきりとしたその口調に、何かを押し殺しているような、苦しみを痛いほど感じた。
「理由を、言ったほうがいいよね」
「……いいです。なんとなく、わかるから」
わたしは、先輩の声が好きだ。
甘くて、優しくて、それでいて少し掠れている。
でも、今だけはその声を聞きたくなかった。
「……きっとみんなと同じなんでしょ」
「柴崎さん、」
「そうですよね、先輩。わたしに、仲間だって言ったくせに」
「………柴崎さん」
「馬鹿にしないでください、そのくらいわたしだってわかります。だって───」
「────柴崎さんっ!」
先輩の手が、わたしの肩を掴んだ。
目が合う。苦しそうに歪んだ顔がわたしの目に映る。
ああこの人はこんなに力が強かったか、と場違いに今更なことを思って、わたしは彼の瞳を静かに見つめ返した。
「……わたしは先輩のこと、信じてました」
「…………うん」
「……先輩、だけでした。あのときから、わたしの隣にいてくれたのは」
数年前だった。その『病』が発見されたのは。
初めそのことをニュースで知ったとき、わたしは耳を疑った。わたしだけではなかった。周りの人は誰も、その『病』を信じなかった。
──────人が、人でないものに、変身する病。
その『病』───『変身症候群』は、わたし達の当惑をよそに、瞬く間に、爆発的に地球全土に広がった。
初めは勿論、世界は混乱した。
しかし、時が経つにつれて、『変身症候群』は、徐々に脅威ではなくなっていった。稀に、動物以外のものになり、死亡してしまうケースもあるが───それでも全体で見れば致死率はほぼ0に等しかったし、健康に大きな被害もなかったからだ。近年では、有名人が変身の様子をSNSにあげるなど、エンタメとして扱われるようになった。まして、『変身』がステータスになるような、そんな世の中にすらなりつつあった。
しかし、例外はある。
例えば──────わたしの場合。
『変身』が当たり前の世界になり、世界の様相はまるで変わった。今や、動物の頭や体をした人のようなものが、世界のどこでも歩いている。
でも、わたしは、いくら待っても『変身』することはなかった。
それは、わたしの体質のせいだった。でも、それだけではない。わたしの、変身を強く拒絶する心が原因でもあった。
そして次第に、誰でも望めば『変身』できる薬が作られるようになって、もう体質は言い訳にできなくなった。
わたしはただ怖い。
自分が、自分でないものになるのが、怖い。
みんな、そうなっているから────そんな理由で、自分がなくなってしまうのが、怖かった。
そんなわたしの心を理解してくれたのは、先輩だけだった。
同じ思いを抱いて、わたしを認めてくれた。
そしてわたし達は、今はもうこの学校でたった2人だけの、人間だった。
「………まさか、今になって発症するなんて思わなかったんだ」
先輩はぽつりと零した。
「僕は拒否した。でも、逆らえなかった。忘れちゃいけないけど、これは病気なんだ。防ごうと思っても、防げるものじゃないんだよ」
「わかってます。わかってるけど……じゃあどうして、退学になるんですか」
先輩は、静かに首を横に振った。
「それは、言えない」
想像通りだった。
わたしは先輩がそう言うことを知っていた。
きっと、先輩はわたしに、何も言わない。
何も言わずに、消えるつもりでいる。
「……わかりました」
「…………」
「正直、納得なんてできません」
「……うん」
「…でも────」
わたしは、それを止められない。
わたしに止める権利はない。
「──先輩が決めたことなら、わたしは応援します」
長い沈黙のあと、ありがとう、と先輩は微笑んで、小さく絞り出した。
「………………先輩」
「…うん?」
「最後に一つだけ、いいですか?」
「いいよ、何?」
わたしは先輩の目をまっすぐ見つめた。
「─────今まで、ありがとうございました」
先輩は、笑った。
今まででいちばん綺麗な笑顔だった。
「ね、先輩、そんな会話があったの、覚えてます?」
「忘れるわけないよ」
「まあ、そうですよねー」
駅前の道を歩きながら、わたしは先輩にそんなことを聞いてみた。
世界は相変わらずだ。キリンの首の子ども達を、象の鼻を引きずって歩く親が、微笑ましげに眺めている。
「それより、柴崎さん、何食べたい?」
「えー、なんだろう…パスタとかですかね」
やっぱり、と先輩は笑う。知ってたよと言わんばかりのその笑顔に、わたしもつられて笑顔になった。
「この頃先輩、よく笑いますよね」
「そうかな?」
「はい、わたしも嬉しいです。先輩が笑ってると───あ!」
わたしは、喫茶店を指さした。
「この店、入りましょう!オシャレだしおいしそうです」
「いいね、そうしようか」
わたしはドアノブに手をかける。心地の良いベルの音がした。
その音で、犬の顔をした店員がにこやかに向かってきた。
「いらっしゃいませ、1名様ですか?」
わたしは隣の空間を見た。そこには誰もいない。
先輩の笑顔は、そこにはなかった。
「───────はい」
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