五年生の孤独
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五年生の孤独
威風堂々。わたしたちの一つ上の六年生の子たちの卒業式でわたしたちが六年生の子たちのために入場曲としてリコーダーで演奏しなきゃいけないあのいまいましい曲の名前はそういうらしいのです。たしかに卒業式におあつらえむきなえらそうな曲調と題名だと思うけどいまは20世紀初期ではなく令和6年なんですからもっとポップな曲にしたほーが卒業していく六年生たちも嬉しいと思います。なんというか五年生のわたしがこんなこと言うのもヘンなんだけどぶっちゃけ小学六年生ごときに威風堂々てあんまり似合ってないというか曲のわりには入場してくる主役たちはぜんぜん威厳もないし練習のときからすでに緊張しているこわっぱには役(者?)不足なんじゃないかと感じてしまいます。たぶんYOASOBIとかの音源を流しておけばそれでもう事足りるんではないでしょーか。そうしたらわたしは卒業式のあいだ椅子に座ってぼーっとしているだけでいいからです。わたしは手先が器用ではないのでもちろんリコーダーもへたっぴでよく音を外すし演奏のペースにおいてけぼりにされて指も止まってしまいます。それを目ざとく見つけた音楽のたかはしせんせいは両方の目を吊り上げたおそろしい顔でわたしをキーキー怒鳴るのです。「いのうえさん! あなたいつになったら通して吹けるようになるんですか! 僕はちゃんと言いましたよね? あなたのミスひとつで全体に影響が出てしまうんですよ」。まわりのみんなはカンカンに怒られちゅうのわたしを見てお友達とクスクスわらい合うのです。そしたらそのクスクスがわたしのお腹のあたりに溜まってその重みでわたしは苦しくなって動けなくなってしまいます。クスクスクスクスクスクス。そんなわたしをわらうクスクスがさらにお腹に溜まって大変! いよいよわたしは石のようにその場にうずくまってお腹からクスクスが消えるのをじっと待つしかないのです。そのうちたかはしせんせいはわたしを叱るのを諦めてわたしをクスクスしていたまわりのみんなもぴーぴろぴーぴーぴーと威風堂々し始めます。ようやく動けるようになったと思って顔を上げたら体育館のなかにはわたし以外のひとは一人もいなくてわたしは恥ずかしい思いをしながら五時間目の理科の授業をしている教室に戻るのです。理科のやまざきせんせいは教室に入ってきたわたしを見てきょとんとした顔をしますがとくになにも言わずにいてくれました。わたしはそんなやまざきせんせいが大好きです。だから理科もおべんきょうのなかでは好きな部類だと思います。なぜならテストでいい点を取ると普段は授業内容以外のことをあんまり口にしないのに「頑張ったねぇ」と褒めてくれるからです。そうえば給食の時間は体育館でうずくまっていたのでお昼ご飯を食べることができていませんでした。でも今日は五時間目が終わったらすぐに帰りの会になっておうちに帰れるのでつらくはないです。おうちにはママが夕食用にいつも置いていってくれる千円札が一枚あります。それでなにかおやつを買うことに決めました。気づけば帰りの会は終わっていておうちに帰るところでした。わたしはもう怒られたくないので帰り道も威風堂々の練習をしながら歩きます。ぴーッ。出だしから音を外さないで吹くのが難しいのです。威風堂々という名の通りに堂々とした音を出すためには力強く空気を入れる必要があると思うんですがそうするときれいな音が出なくてきれいな音を出そうと思ったらこんどは弱っちいおどおどした感じになります。そんなのぜんぜん威風堂々じゃありません。難しいな難しいなーとうんうん悩みながら練習していると道端でお父さんがたばこを吸っていました。「おっ。ちよじゃねぇか。おぉい元気にしてっか」。わたしの頭をなでに近寄ってくるお父さんの首には中空に向かってぴんと張ったロープが巻き付いています。お父さんはわたしが一年生のときにじょーしのパワハラに耐え切れなくなって自分の部屋で自殺したのです。わたしはうっとうしいお父さんの手をよけながらまぁまぁぼちぼちほどほどに元気だよと言いました。「はっはっは。そんくらいがちょうどいいわな。むしろ毎日楽しくて仕方ないくらい元気だとか言われたら心配になっちまうよ。俺みたいにどっかで燃え尽きて首くくっちまうんじゃねぇかってな」。そうえばお父さんはまだ生きているうちから自分のことを必ず『俺』と言います。ママは自分のことを『ママ』と言っていた気がするのでそう考えると不思議です。父親としての自負がなかったのでしょーか。それとも単に『パパ』と名乗る必要性を感じなかっただけなんでしょーか。わざわざ本人に聞いたところで意味はないのですが。なにせもう死んでいるので。「あっこんなところにいやがったこのハゲおやじが!」。お父さんのぶかだったらしいきょうこさんが向こうのほうから走ってきて包丁を持ってお父さんに突撃していきます。「げげげ。見つかっちまった。じゃあなちよ! ほどほどに元気でな。あと俺はハゲてねぇ! ハゲはあのクソパワハラ野郎だっちゅーに!」。お父さんは一瞬の隙にわたしの頭をひと撫ですると彼岸の世界にすうっと消えていきました。油断してしまいました。次回は絶対に撫でられません。「はぁはぁ……。あのセクハラおやじめ。逃げ足だけは立派だな」。きょうこさんはわたしのすぐ近くまで来ると膝に手をついて息を整えます。お父さんは生前パワハラによるストレスを発散しようときょうこさんにセクハラをかましていたそうです。だからわたしはお父さんのことがあんまり可哀想だとは思えません。セクハラは敵です。もちろんパワハラもぜんぜんよくないけれども。きょうこさんは会社勤めの傍らエクソシストの資格も有しているのでわたしのママが幽霊になったお父さんの除霊を依頼したんでした。セクハラの恨みが募っていたきょうこさんはこれを二つ返事で了承して包丁でお父さんをめった刺しにする機会を狙っているのですがお父さんは意外にも現世への未練が強いみたいでなんだか苦戦しているようです。わたしは大丈夫ですか。いつもうちの父がすみませんときょうこさんに声をかけました。「あぁちよちゃん。ちょっと息が上がっただけだから大丈夫。ありがとう」ときょうこさんはちょっと美人すぎる笑顔を見せてくれます。さぞモテるんだろーなと思います。わたしも大きくなったらこんな美人さんになりたいものです。「なにそれ。リコーダー?」。こんどの卒業式で威風堂々を演奏することになってるんですとわたしは言いました。ついでにちょっと吹いてみせます。ぴーッぴろぴーぴゅ~ぴー。やっぱり上手に吹けません。どうしたら上手になりますかとわたしはきょうこさんに訊きました。するときょうこさんはニヤリと大人らしいいじわるででもやっぱり美人な笑みを作ると内緒話をするみたいにわたしの耳元に口を近づけました。ミントみたいないい匂いがします。「上手くなる必要なんてないんだよ。吹いてるフリをしちゃえばいい。私もちよちゃんとおんなじで楽器とか歌とかへたっぴだったからそうやってごまかして乗り切ってきたんだ」。なんと! その手がありました。これは青天の霹靂です。さすがきょうこさん。……でもいいんでしょーか。まわりのみんなもたかはしせんせいもいやな人間ですがリコーダーだけはちゃんとやっています。わたしはやつらに負けたくないのです。演奏するフリでごまかすのはやつらに屈服するのと同義です。すばらしい提案ですけどなにかほかにいい方法はないですかとわたしが遠慮がちに再び訊くときょうこさんはこんどは子どもみたいにニンマリわらってわたしの頭をガシガシと撫でくり回しました。「んーえらい! かわいい! そうだよねズルはいけないもんね。私が間違ってた!」。きょうこさんの手は暖かくて安心できるのできょうこさんに撫でられるのはけっこう好きです。それはそうとわたしがズルを選ぶのか選ばないのか試したということでしょーか。きょうこさんはわりと策士です。わたしがズルい方法を選んでいたら叱られていたんでしょーか。そっちから提案しておいてちょっと理不尽だなと思いました。「ほかにいい方法はないね。上手くなりたいなら練習あるのみ。頑張ってね!」と言ってきょうこさんは最後にわたしの頭をポンポンすると「ぶっころォオ!」と鬼のような顔をして包丁を構えて駆けだしていってしまいました。きっとお父さんをめった刺しにいったんだと思います。わたしはその背中を眺めながらけっきょくのところ地道に練習するほかないのかとちょっと落胆しました。きょうこさんみたいな素敵な大人のひとでも魔法のような解決方法はないんだと思うとつくづく世知辛いです。とはいえまだ五年生のわたしはリコーダーで威風堂々が吹けるようになればいいだけなのでそう考えるとお父さんとかきょうこさんとか毎日大変そうにしているひとたちに比べれば大したことないのかもしれません。景気づけとばかりにリコーダーに向かって息を吹き込んでみました。びーッ。ちょっと勢いが強すぎました。そうこうしているうちにいつのまにかおうちの前までたどり着いていてわたしはポッケのなかから鍵を取り出して玄関扉を開けます。扉を開けようと手前に引っ張りましたが開きません。何度か引っ張っても開かないので押し込んでみたところガチャリと音を立てて開きました。いままで引戸だった玄関扉は今日から押戸になったようです。そのへんは玄関扉の機嫌次第なので明日には引戸に戻っているかもしれませんがまぁぶっちゃけどちらでもいいと思います。リビングに入ると相変わらずひいおじいちゃんが真ん中で座禅を組んで宙に浮いていました。ママが言うにはママがこの家に嫁いできたときからひいおじいちゃんはここで浮いていたそうです。ずっと瞑想しているので会話したことはありませんが普通に生活する分にはそんなに気にならないです。むしろわたしが小学校に入ってからはランドセル置き場として活用しているのでひいおじいちゃんにはあと一年は浮いていてもらわないと困ってしまいます。そんなひいおじいちゃんに一応ただいまと声をかけますがもちろんなんの反応もありません。ダイニングテーブルの上にはママが置いていってくれた千円札がありました。それを見たらわたしは急にお昼ご飯を食べれなかったことを思い出して腹の虫がぎゅうぎゅうと鳴きました。早くなにか食べないと我慢できなくなった腹の虫がわたしのお腹を喰い破って出てきてしまってとてもとても痛いことになります。わたしのおばあちゃんは貧乏性だったのでお昼ご飯に食パン一枚だけの生活をしていたらある日突然腹の虫に内側から喰い尽くされて死んでしまったそうです。遺言は「食事ケチれば己が食事」だそうです。いい遺言だと思います。ちょっと贅沢だけどおいしいコンビニスイーツでも買いにいってしまおーか。ママはどうせ帰ってこないのでついでに夕ご飯も買います。ママはお父さんが死んで一年ほど経つとあまり家に帰ってこなくなりました。それでも朝ご飯くらいは一緒に食べていましたがここ一年ほどはほとんど会っていません。とっくに死んだお父さんのほうが高い頻度で会っているので死人の顔は覚えているのに生きているはずのママの顔はうろ覚えというちょっと面白い状態になっています。つぎにママに会えるのはいつになるんでしょーか。それとももう会えないのでしょーか。毎日千円札はきっちりテーブルに置かれているのでときたま帰ってきていることは確実でそのタイミングに待ち伏せすれば確実に会えるとは思いますがなぜだかそうする気力がわたしにはあんまりないのです。いざ顔を合わせて「誰かしら?」とか「会いたくなかった」なんて言われるのが怖いのです。ママがわたしのことをどう思っているのかわからない今の状況だったらわたしはまだママに嫌われていないしむしろ好かれているのかもしれないからです。こういうのなんて言うんでしたっけ。そうそうシュレーディンガーのママです。想像のなかだったらわたしの自由なのでそういう解釈にしておくのです。ママはわたしのことが大好きだしお父さんは…………残念ながら死んでいることが確定しているんでした。死亡証明書もあります。ええっとそれからたかはしせんせいはわたしをキーキー怒鳴らないしまわりのみんなはわたしをクスクスしないのでわたしはお腹の重みに苦しむことなく快適に給食を食べることができて理科のテストは毎回百点満点でやまざきせんせいは「ちよちゃんはすごいねぇ」とにっこり。だからわたしを心配して死んでも未練たらしくこの世に残っているお父さんも安心して成仏してきょうこさんと出会うこともなく……いやそれは嫌なのできょうこさんとはまたべつの方法で出会うのです。きっと大人で素敵な出会い方をします。ああそうそれに座禅を組んで浮いているひいおじいちゃんの両腕は水平に広げられてランドセルだけでなく傘とか体操服を入れた袋とかをひっかけられるようになってさらに省スペースになってわたしが物心つく前に死んでしまったおばあちゃんも腹の虫に腹を喰い破られることがなく生きていて小学校から帰ってきたわたしの遊び相手になってくれます。それとこれが一番大事! わたしは誰もが感激するくらいにきれいな威風堂々を演奏するのです。卒業する六年生のみんながわたしの演奏のせいで入場時点から号泣しちゃうような百年に一度あるかないかの伝説の卒業式にしてやるのです。わたしはそんな伝説を作り出した伝説のリコーダー使いとしてまわりのみんなから尊敬の眼差しで見られるのです。決してクスクスではありません。きっとそれはとても愉快だと思います。その光景を思い浮かべていたらぎゅうぎゅうぎゅうといよいよ腹の虫の鳴き声が大きくなってちょっとお腹を齧られているような気がするのでわたしは慌てて千円札をポッケに突っ込んでリビングを後にします。シュレーディンガーごっこは楽しいけれど現実は「食事ケチれば己が食事」です。要は物事は待ってくれないし手厳しいということだと勝手に思っています。ちょっと拡大解釈かもしれません。玄関で靴を履いていたら廊下の向こうの和室を仕切る襖がちょっとだけ開けられていることに気がつきました。その隙間からお父さんがこちらを盗み見ていました。お父さんの覗きはいつもの事なので気にしないことにします。玄関扉の取っ手に手をかけて押しましたが開きません。そういえば内側からは引戸になったんだと思い至って引いてみましたが開きません。まさかと思ったらスライド式になっていました。ちょっとイライラします。思わずため息を一つついてしまいました。幸せがわたしの口から勢いよく逃げていきます。あっと思っても捕まえるための虫網を持っていません。幸せはわたしの身長じゃぜんぜん届かない上空に向かって飛んでいきます。わたしは楽しそうに飛んでいる幸せをただ見ていることしかできませんでした。仕方がありません。わたしは和室のほうを振り向いていまだにわたしのことを心配そうに見守っているお父さんに向かっていってきますと言いました。お父さんはバレてないとでも思っていたのかちょっとうろたえてから「おおう。気をつけてな。行ってらっしゃい」とはにかみました。わたしはスライド式の扉を閉めながらスイーツはなににしようと考えます。そうしてふと気づくのです。わたしはこのちょっと変わっている孤独がそんなに嫌いではないことに。とくに好きでもないしどんどん解消していこうと思ってはいます。けれどこの孤独にちょっとだけ心地よさを感じている自分がいることもまた事実なのです。スイーツはプリンにします。それから夕ご飯の後は威風堂々の練習を頑張りたいと思います。わたしは威風堂々を鼻唄でふんふんと奏でながらコンビニへの道を歩いていきます。
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