僕の妻は交換日記でしか話さない

ましろ毛糸

プロローグ 僕と妻の交換日記



 ルール①:会話は最小限にとどめ、話したいことは この日記を通して伝えること。


 ルール②:日記は日替わりで交換すること。

      その日の出来事などを日記に書き、翌朝までに相手に渡すこと。


 ルール③:以上が守れない場合、速やかに離婚の手続きを行うこと。



 ・  ・  ・  ・  ・  ・



 窓を開けると、ベランダが湿っていた。 昨夜降った雨のせいだろう。

 だが、今日の天気は、快晴。 気温も上がるだろうから、じきに乾くだろう。


 今日はドリンクの注文が増えるだろうな────と考えながら、しゅうは朝食の準備にとりかかった。


 コーヒー用にお湯を沸かしている間に、トースターに食パンをセットする。

 冷蔵庫からバターとジャム、野菜室からサラダ用のレタスを取り出した。


 香ばしいトーストの香りと、コーヒーの匂いが部屋中に広がる。

 それを嗅ぎつけたかのように、寝室のドアから 妻の莉子りこが顔を覗かせた。


「おはよう、莉子」


 寝ぼけまなこの莉子は、フラフラと柊の前まで来ると、水色の縞模様が特徴的なノートを差し出してきた。

 柊は それを受け取った。


「ありがとう。 あとで読んで、返事書くね」


 莉子はコクリと頷くと、ゆっくりとした足取りでダイニングまで行き、椅子に腰を下ろした。


 莉子は、朝に弱いのだ。

 だが、柊が朝食をテーブルに並べていくと、彼女の目は徐々に覚醒していくようだった。


「お待ちどうさま。 それじゃ、いただきます」


 柊が手を合わせると、莉子もそれに続いて「……いただきます」と小さく呟いた。






 朝食を食べ終えた柊たちは、それぞれ仕事へ行く準備を進め、一緒に家を出た。


 お互いが出勤の日は、必ず一緒に仕事場へ向かうのだが、会話はない。

 柊の方から話しかけたりはするのだが、莉子はただ相槌を打つか、頷く程度の反応しかしない。

 だが柊は、それを寂しいなどと思ったことはなかった。


 気がつくと、あっという間に柊の店の前まで来ていた。

 『レストラン Shu-』────3年前に開いた 念願の自分のレストランだ。

 莉子の職場は もう少し先にあるため、彼女とは ここでお別れだ。


「それじゃ、気をつけてね」


 莉子はコクリと頷き、小さな手を左右に振った。

 柊も手を振ると、莉子は唇をキュッと締め、歩き出した。

 その背中を見送ったあと、柊は店のドアを開け、中に入った。


 誰もいない店内は、昼間の賑やかさとは対照的で暗い印象があるが、意外と心地いい。

 柊は、一番手前のカウンター席に腰掛け、先程莉子からもらったノートを 鞄から取り出した。


 表紙には『水シマ日記』と書かれている。 柊たち水嶌みずしま夫婦が毎日交わしている交換日記の名前だ。

 柊は毎朝店に来たら、はじめに この日記を読むことを日課としている。


 日記をパラパラとめくると、後半のページに、昨日の日付で書かれた莉子のコロコロした字があった。


 ────・────・────・────・────


 5/18(Thu)


 今日は定休日だったのに、朝起こしてくれて ありがとう。

 お陰様で遅刻しないで済みました。


 お仕事は今日も順調でした。

 今日は特に、小さな子どもの患者さんが多くて、とっても癒されました。


 休憩の時に、同僚の亜美あみさんから、今度柊のお店に行ってみたいと言われました。

 近々、ランチで利用させてもらうかもしれませんので、よろしくね。

 行く時は、ちゃんと事前にお伝えします。


 亜美さんのことは前に話したけど、いつも色んな話をしてくれて、賑やかで、とても面白い人です。

 仲良くさせてもらってるの。

 お店に行く時がきたら、柊にもちゃんと紹介させてください。


 ◎連絡事項

 ・昨日の洗濯物の中に、ティッシュが入ってました。 気をつけること。

 ・明日は駅前に寄って帰りたいので、家に着くのが少し遅くなります。 でも、夜ごはんは一緒に食べたいです。


 ────・────・────・────・────


 よく日記に出てくる『亜美さん』とは、莉子の高校の同級生で、中通クリニック莉子の職場で、偶然にも同じ医療事務員として働くことになったのだという。

 高校時代はクラスが違い、あまり話したことがなかったらしいが、今の職場で再会してから ぐっと距離が縮まったようだ。


 直接話を聞いていないから分からないが、亜美のことを嬉しそうに話していることが文面から伝わってくる。

 自分の頬が自然と緩むのが分かった。


 柊は日記をパタンと閉じ、鞄の中に戻した。

 バックヤードに私物を置き、厨房に置いてあるエプロンを手に取った。

 エプロンを着け、腰紐を締めると「またいつもの朝が来たな」と、気持ちも引き締まった。


 今日は、どんなことが起きるかな。 どんなことを日記に書こうかな。


 こうして今日も、柊の1日が始まる。


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