チェスの話

 車軸を流すような雨である。川が大幅に増水し、川越えの船が、今日は出ないことになってしまった。この王国では、一定の幅以上の川に橋を架けることは、御定法で厳しく禁じられている。自治権のある領邦といえども、それは守らなくてはならなかった。

 その為、旅人達は、川沿いにある宿場町に泊まっていた。エルマーとリコも同様である。宿は、何処も満室に近かった。

 もう遅い時間だというのに、リコはまだ起きていた。運良く入れた一室で、憮然とした顔付きで、借りた書物を読んでいる。


「ちぇ……! エルマーさん、僕を置き去りにしちゃってさ。こんな雨なら、泥棒も休業だよ」


 と、彼は寝返りを打ちながら独りごちた。エルマーは、宿場町のとある商家に頼まれて、このサン伯爵領の御用金を守る用心棒として出かけていた。

 その上、リコは絶対に一人では眠れない。老朽化した古宿の持つ、独特の不気味さに、彼は照明を消せずにいた。彼は、汚らしい牀の上で、何度も寝返りを打っていた。

 大雨の屋根や窓を打つ音が激しい。リコは身を起こし、水でも飲みに行こうと部屋を出た。階段を下りていると、下が少し騒がしい。


「何やってるんだろう」


 と、リコは踊り場から覗いてみた。一階の酒場で、卓を挟んで向かい合う男女を、数人が見守っている。暇に倦んだ連中の遊興であった。

 リコは引き寄せられるように、その勝負の見物人の一人になった。彼は、目の前で俯いて座る者に、


「これ、何やってるんですか?」

「なに、君。見て解るでしょ? チェスだよ、チェス」

「チェス?」

「知らないの? 今時、珍しい坊やもいたもんだね。そうだ、ボクがルール教えてあげるから、君もやらない?」


 と、その者は初めて顔を上げた。男装しているし落ち着いた声なので、男だとばかり思っていたリコは驚いた。

 菜花のように明るい色の髪を短く揃え、澄みきった瑠璃色の瞳を持った落雁の少女である。歳頃は、リコよりも上だが、余り離れてはいないだろう。

 リコは慌てて、


「いや、僕は良いですよ。水を飲みに来ただけで」

「遠慮しない。丁度、この弱い人に飽きてたところだからさ。ボクはミア。この宿で居候してる」

「参ったな……。とんだ人に声を掛けちゃった」

「何か言った?」


 と、ミアは、リコの手を取って席に着かせ、彼が何か言うのも聞かず、駒の動かし方を教え始めた。


 ――その頃、宿場町の裏路地を、黒い塊が蠢いていた。密集した、一団の黒装束共である。彼らは夜風と豪雨に乗じて、疾風のようにやって来たのだ。

 頭目らしき男の先導で、盗賊達は一軒の商家の庭へ侵入した。一人が、音も無く母屋に潜入し、一分も経たぬ内に金蔵の鍵を持ち出してきた。

 鍵を受け取った頭目が、蔵の南京錠に差し込んだ。錠が、開いた。ゆっくりと開いた扉から、蝋燭を翳して覗くと、中に一人の男が座っていた。 鉄漿かね色の蓬髪に、端正な目鼻立ちの青年。エルマーである。


 盗賊達が、どやどやと、刃物を抜き連れて展開する。「何者だ」と盗賊の一人が誰何した。エルマーは悠揚と立ち上がり、彼らの構えを見廻し、


「いずれもただの賊ではないな。然るべき場所で調練を積んでいる。お前らの方こそ何者だ」

「どけ! どかねば斬るぞっ」

「俺を斬るなら、一太刀目に集中しろ。二太刀目は振らせんぞ」


 エルマーが挑発すると、喋っていた一人が斬り込んだ。転瞬、下半身を無くした男が、床に倒れていた。エルマーが、彼の懐で抜剣し、腰車を両断していたのだ。

 エルマーは、油断のない構えで盗賊共に近付いた。その気勢に、相手はすっかり萎えてしまった様子。頭目は素早くそれを察知し、「退け」と命令した。

 意外にも豪胆らしく、頭目は殿になった。エルマーに向かって、剣を正眼に据えた。エルマーが、斬り込む。頭目が弾く。二太刀目。前腕をかすめた。頭目は、流血する左腕を押さえながら、遮二無二、脇目も振らず逃げ出した。

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