社畜から始める櫻花荘

杠静流

プロローグ

 『今いる環境が自分に適しているとは限らない』

 俺は最近そのことを実感した。


 四月の頭、閑散とした駅のホームからなんとなく懐かしい景色を眺め、今にも花を咲かせようとしている桜に心を奪われていた。


 目的地はとある老舗旅館。

 なんでも、俺の親戚が営んでいる旅館なんだそうな。

 以前にここへ来たことまでは覚えているが、なにせ二〇年以上前の事だからほとんど覚えていない。


 風景を眺めてぼぅっとしていると、帽子を深く被りなおす車掌が申し訳無さそうに話しかけてくる。

「そろそろ出発なので、切符を頂戴しても?」

 俺は慌てて切符を手渡すと、車掌は軽く礼をして列車の最後尾に戻る。

「田舎は改札じゃなくて車掌に渡すのか……」

 都会でしか電車に乗ったことが無い俺は、ここらの電車の乗り方を知って少し驚いた。


 金属の台で仕切られた改札を抜けるとスマートフォンの地図アプリを開き、母から聞いた旅館の名前を入力する。

 ここからバスに乗っておよそ二~三〇分くらいで着くようだ。


 ちょうどバス乗り場にバスが到着したため乗り込む。

 整理券を取り、窓際に着座すると窓の外を眺めた。


 バスは法面のりめんが舗装された崖路ほきじをくねくねと折り返すように登っていく。

 一気に山を登ったからか耳鳴りが気圧の変化を知らせる。


 三〇分もすると運転手が「高谷たかや駅」と到着を告げたため停車ボタンを押下した。

 徐々に見えてくる駅は鉄道なんてものは通っていなく、いわゆる自動車駅というものらしい。

 

 運転手に礼を告げてバスから降り、目的地へと歩き始める。


 少し歩くと、歩道が赤いレンガで彩られた古風な商店街が見えており、突き当りには和洋折衷わようせっちゅうな建物が見えてきた。

 まだまだ建物までは遠く、扁額へんがくに書かれた文字までは読めないが、きっとあそこが俺の目的地なんだろう。


 遠目から見てもわかるノスタルジック風景はその旅館に対する期待を増長させる。

 これがエモいってやつなのかな?


 ◇◆◇

 

 旅館の眼の前まで来ると古いが丁寧に手入れされている建物が見えてくる。

 駐車場には観光客のものだろうか、何台か車が駐められている。

 先程まで読めなかった扁額の文字ははっきりと読める。


『櫻花荘』


 篆書てんしょで書かれた旅館の名前は歴史を感じながらも美しく輝いていた。

 建物に見とれつつも建物の引き戸を開けると、そこにいた和服の女性がこちらに気づき向き直った。

 背丈が一六〇センチメートルばかりで黒髪をまとめ上げたきれいな女性が話しかけてくる。


「お待ちしておりました。こちらの受付へどうぞ」

 一瞬で男の心を射止めんばかりの笑顔に誘導され、用意された履物を履き受付へ歩を進めた。

 

 受付に立つと先程の女性改めて礼をし口を開く。

「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

長谷川 健太郎はせがわ けんたろうです」

 そう答えると女性は多少驚いたような表情を見せた。


「あなたが旦那さんの親戚の方?お待ちしておりました。それでは宿泊名簿に記入して頂いてもよろしいでしょうか? 」

 眼の前のデスクに用紙とペンが置かれ記入を求められる。

 

 名前と連絡先を記入したあとに筆が止まる。

 職業の欄があったからだ。


 俺は先日会社をやめた。いわゆる無職だ。

 少し従業員の目を気にしながら『無職』と記入した。


 先程の女性はこちらが筆をおいたことを確認すると用紙を預かりカウンターから出てくる。

 「今回担当する仲居の佐久 雪乃さく ゆきのと申します。お部屋の”さくら”へご案内いたします」

 

 仲居さんの後ろに着いていくときれいな和室に案内される。

 中央の座椅子に腰掛けると、彼女は側方に着く。

 「今回は旦那さんから色々聞いているので細かな説明は省きますね。すぐ旦那さんと女将さんが来るので少しだけお待ちいただけますか?」

 お茶を入れながら親戚夫妻がすぐに来ると告げられる。

 了承すると「失礼します」と告げ、退室した。


 旅の疲れもあり一息つくとここへ来ることになった経緯を思い出した。

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