ああ憧れの情報屋

毒島(リコリス)*書籍発売中

第1話 通りすがりのおじさんと僕

 人生で最初に命の危険を感じた時のことを覚えている人は、この世にどれくらいいるだろうか。

 僕は鮮明に覚えている。五歳になったばかりの冬、家族で出かけた際にショーウィンドウのおもちゃに気を取られて一瞬置いていかれたところで、治安の悪い身なりの男たちに路地に連れ込まれて首元にナイフを当てられた時だ。


「よう坊ちゃん。自分の名前とお家の名前は言えるかい」

「……は、ハイド。ハイド・ミスティコ……」

「よく言えました。これ以上喋ったら殺す」


 助けてと声を上げようにも恐怖で掠れた声しか出せず、手足を縛られ猿ぐつわを噛まされ、人気のない廃屋に転がされた。


「この坊ちゃんを売ればもう一儲けできるんじゃないか?」

「こんな身なりのいいガキ、出所を調べられたらすぐに足が付く。顔も見られてるし、生かしておく道理はねえよ」


 リーダー格と思しき男は、懐から年季の入ったスキットルを取り出してぐいっと飲むと、僕を見下ろして鼻で笑った。


「いくら出しますかねえ、あの家」

「さあなあ」


 その時にはまだ自分の家や立場がどのようなものなのか知らなかったが、残念なことにミスティコ家は貴族といっても領地すら持たない宮仕えの子爵家で、そんな家の三男なんて大した価値はないということは後から知った。僕の命に良い値段がついたところで、我が家の財政状況ではどうせ用意もできなかったはずだ。


「さて、手紙を出したら前祝いに一杯やるか」

「いいっすねえ」


 高い位置にしか窓がない暗い部屋のドアが乱暴に閉まり、外側から鍵を掛ける音がした後、足音と話し声が遠ざかっていく。

 身代金目的の誘拐犯たちは初めから僕を家に帰すつもりなどなく、食事を与える金も連れ回す手間も惜しいということで、暖房もないぼろぼろの家に放置してそのまま餓死か凍死でもすればいいと考えていたようだった。直接手を下さなかったのは、返り血で汚れた服を真冬の冷たい水で洗うのが面倒だからとか、その程度のことだろう。




 男たちが戻ってくる気配も誰かが建物の外を通りかかる気配もなく、水すら与えられないまま夜になり、きっとこのまま死ぬのだと思いながら空腹と寒さと恐怖で震えていた時、彼は突然現れた。


「ああ、良かった。まだ生きているね」


 監禁されていた部屋の扉が開いた時には奴らの仲間が戻ってきたのかと思ったが、その声色は優しかった。


「怖かっただろう。もう大丈夫だ」


 暗くて顔はよく見えなかった。帽子を被り、仕立ての良い服を着た男性は手際よく僕を拘束していた縄をほどき、


「ただの水だよ。ゆっくり飲むといい」


 水筒を差し出した。喉がからからだった僕は一気に飲みたいのをなんとか我慢しながら、言われたとおり少しずつ飲んだ。外気で冷えた水で咳き込む僕の背中を、男性は大きな手でさすってくれた。


「パンも持ってきた。お腹が空いてると思ってね。食べられるかい」

「あ、ありがとう、ございます」


 喉が潤ったことでようやく声を出せた。その時に食べたパンは、今までの人生で一番美味しかったと思う。


「うん、ちゃんとお礼が言える良い子だ。それを食べたら家に帰ろう。送っていくよ」

「はい……」


 家に帰れる。助かったのだ。そう思った瞬間枯れていた涙がまたぼろぼろと零れた。男性は泣きじゃくりながらもたもたとパンを食べる僕を静かに見守っていた。


「助けてくれて、ありがとうございます」

「どういたしまして」


 長時間拘束されていたせいで手首と足首に縄の跡が残り、身体が強張って歩くのが覚束ない僕は、背負ってくれた男性の背からおずおずと声をかけた。


「あなたは、誰ですか? 警察のひと?」

「ただの通りすがりのおじさんだよ」


 嘘だ。だって、僕が閉じ込められていた廃屋から大きな通りに出るまで誰ともすれ違わなかった。おじさんがどれだけ散歩好きでも偶然通りすがるような場所じゃない。


「どうして、僕を助けてくれたんですか」

「そりゃあ、子どもが誘拐されたと聞いたら助けないわけにはいかないだろう」


 やっぱり通りすがりではなく、僕を探しにきてくれたのだ。見ず知らずのおじさんなのに、その背中はとても広くて頼もしかった。


「僕も、おじさんみたいに困っている人を助けられるようになりたいです」

「じゃあ、まずは身体を鍛えよう。魔法が使えるともっといいな」

「どうして?」


 朗らかに話すおじさんのおかげで僕の恐怖心は少しずつ薄れて、話す余裕ができていた。おじさんも、適当に話していた方が僕の気が紛れると思って付き合ってくれたのだと思う。


「強くならないと、助けに行っても逆に怪我をするかもしれないからね。きみの家族だって、きみを助けたい気持ちはあったさ」


 荒事と無縁の文官家系には、ごろつきと渡り合う度胸も技術もなかったというだけだ。こんな事件でもなければ僕も武術に興味など持たなかっただろうから、家族を責めることはできない。


「そっか……」

「それから勉強もしっかりして、周りの人とも適度に仲良くしないとね。大切なのは、常に最新の知識と情報だ」

「ちしきとじょうほう……?」


 当時の僕には少し難しい言葉だった。安心感と空腹が満たされたことにおじさんの背中の温かさまで加わって眠くなってきたこともあって、それ以上のことは考えられなかった。


「おじさんの、なまえは……?」

「元気になったら、自分で調べてみてごらん。次に会った時に答え合わせをしよう」

「わかりました……」


 いよいよ目を開けていられなくなった僕が持っているおじさんの最後の記憶は、


「また会えるのを楽しみにしてるよ、ハイドくん」


 教えていないはずの僕の名前を呼ぶ声だった。

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