プロメティアの魔女

EF

Ch. 0 Prologue

0-0 The Demise // 死

 メトロに乗っていたら口座が凍結された。


 武装医療回収チームメディックスクアッドのサポートも切れた。オープンで契約していた全サブスクリプションが切れ、口座に紐づけられていた全アカウントが凍結されていった。最早、私、ロイドLloydの名前を持つ有効資産は存在しない。


 間違いない。母がしくじった。恐らくだがもう生きてはいないだろう

 ———マップアプリの行先をクライトンCrichton地区Districtに設定した。二駅先。18時の橙光が大気汚染ヘイズで散乱し、赤褐色に輝くのを見やりながら考える。ハイドアウトに到達するまでにカンザキがこちらに手を伸ばす可能性は高い。カモフラージュはむしろ危険だ


 ———連中が勘付く前に、下の路地アレイに紛れ込んでしまうほかない。


 母親のアリアAria・中浜はメガコーポのうちでも最大のものの一つ、カンザキの北アメリカ支社ブランチ諜報対応カウンターインテル部署で働いていた。

 仕事はカンザキの「覇道」———カンザキの言い方では「平和維持と人類の進歩のための活動」———に仇名す全ての政治活動及び経済活動の妨害。対外的な活動という表面上のお題目とは裏腹に、今や世界経済の柱と化したこの日系コングロマリットの諜報署員は、人事にも多大な影響を及ぼせる部署の性質故に、他社の人間を見張る20倍互いを見張っている有様だった。

 企業のレールコーポレートラダーはゼロサムゲームであり、手段を躊躇する奴がその性質のために得るリターンはコンクリートの足枷と永年海水浴溺死の権利だ。興奮剤スティムと精神安定カウンセリングに依って地位にまともにとどまることの報酬は、支社内トップクラスの給与、武装回収チームメディックスクアッド絶対回収フル・カヴァープラン、およびカンザキ傘下の名門学園であり、企業のレールコーポレートラダーのショートカットであるカンザキ・アカデミーの、少人数教育コースへの子供の入学権———アカデミーのそのコースに居た私は、ちょうどこの入学権利を活用したわけである。


——— ——— ——— ———


 母の異変は5日前から始まった。母が少なくとも38時間に1回は欠かすことのなかったステータスチェックの如き電話がなくなった。母は仕事に没頭するときは大概そうする。自らを非人間的にすることで、仕事への集中を達成するのだ。


 母の通信履歴の探索を5日前の昼休み、カンザキ・アカデミーの中庭から試みた。AVでの移動は社のネットワークにオープンで共有されているから、その履歴を見るのは簡単だったが、効率化のためにAI生成された虚偽の移動記録で埋め尽くされているのは間違いなかった。


 一旦データ収集スクレイピングを諦めた私に、母の仕事周りで次報が来たのは今日だった。昨日の深夜に無連絡で帰宅していた母は、今朝私を抱きすくめると、アカデミーに送る車両リモが30分後に来ると言い、自分はAVに乗って出社した。この忙しかった4日の後に唐突に帰宅して、ただ車両が来ることだけ告げる意味は明白だった。自宅のPCから母の通信履歴にブリーチをかけると、ICEに突き当たることなく侵入できた———何者かが既に無効化していたのだ。


 メールに残っていたやり取りは、母が上司のリンドン・ジェファーソンに、ジェファーソンのさらに上司で、上等諜報監督Senior Intel DirectorであるトゥシンスカヤTushinskayaの排除を提案されたことを示していた。その実行のため、母は社外のフリーのネットランナーと、ソロ数人に連絡を掛けた。トゥシンスカヤをカンザキの対立企業ラスターワークスRaster Worksの情報で釣って罠にかけるためだ。


 多種多様な感情が交雑した、言いようの知れないセンセーションが胸中に去来する。なぜ言ってくれなかったのか?母と私は運命共同体なのだ。言ってくれれば、何か…アカデミーの中からだろうと外からだろうと、何かできたはずなのに。父と同じように私を置いていくのか?今度は墓室コランバリウムすら作れないかもしれないというのに。


 何より苛立ったのは、この期に及んで母が私を被保護者扱いしていることだった。私はサイバーハスラーとして、父から手解きを受け、アカデミーでも最上位のクラスに所属して、順調にスキルを積んでいた。インプラントにトラッカーが付いていようと、出来ることはあったはずなのに。それを知っていたのに、あの人は…


 いや、知っている。わかっているのだ。私はどこかで生き残ることができる。インプラントにしても、即座にどこかでアンインストールすればいいだけだし、それさえ出来れば、行方をくらませることが可能になる。ハイドアウトに隠したテックや資金洗浄マネーロンダリングしてカンザキでも容易に見つけ出せないところに置いた資産を回収すれば、サイバースペースの放浪者ローマーとして経験を積み、傭兵マークのたむろする界隈で、フリーランスとして生きていけるはずだ。ただ、それにしたって、父母を両方失った喪失感と目的意識の欠如の中で生きていくという、そのままストレートで死ぬよりもしかすると幾分マシかもしれないパスを選び取れるに過ぎないのだ。


 ———そう考えているうちに頭が冷え、理性が頭に戻ってきた。しかし、怒りと無念は冷えて沈殿し、心の片隅に固着した。


 とりあえず、母の通信履歴を探ろう。有効な情報を探すのだ。反転探査カウンターブリーチの危険はあるが、私ができる偽装はコーポ側の精査に耐えうるだろう。

 トゥシンスカヤ排除計画の成功報酬として、母はカンザキ製のテックを提供するとメールにはあった。


 テックの保管場所を示すファイルはどこにもなかったが、AI生成された虚偽の移動記録を解析した私は、一つの結論に至った———工業集積施設インダストリアル・コンプレックスにあるインプラントの研究施設。そこに隠されていたテックが提供される報酬となったはずだ。そこまで解析してから工業集積施設インダストリアル・コンプレックス関係の記録を探すと、テックの詳細を見つけた。試作型プロトタイプのサイバーデッキ。CPU、GPUを積んだ古典的なヘテロジニアスシステムに、前代未聞の容量のMRAM。量子計算野クアンタム・カルキュレーターすら有した、新技術でつなぎ合わされ、同期シンクロナイズされた計算資源のキメラだった。


 到着した送迎車両リモに適当な言い訳を付けて待機を要求しつつ、家の中を探した。本社は危険。インダストリアル・コンプレックスに隠しておいてもいいだろうが、既に持ち出しを決めたテックなら、そのコンプレックスに置き続けることもしないはず———残る候補は死んだ父のハイドアウトとこの家の二つ。ハイドアウトは私の最後の逃げ場になるから、恐らく

 ———推測は当たっていた。私は母のウェポンスタッシュで、弾薬に偽装して置かれていた箱から、テックを見つけ出した。

 シリコンウェーハに刻まれた入り組んだ電子回路。表面にCPUとGPUが成す配列。見たこともない、恐らく量子計算野と思われる部位。間違いない

 ———これが目的のサイバーデッキだ。ネットローマーがハッキングを仕掛ける際に行う必要のある無数の計算を補助または実行するインプラント。


 ———これで、今脳にインストールされているトラッカー付きのカンザキのデッキの持つようなコーポの追跡の呪縛から逃れられる。


 ウェポンスタッシュから出ると、母の寝室に入り、そこにあったエンゲージリングを回収した。遂に嵌めることのなかった指輪。母の遺せるものの中だと、恐らく最も感情的価値が高いものだ。もし、墓室コランバリウムに入れるならこれになるだろう。


 家の収まるビルから外に出た私は、車両リモに近付くと、自動運転のそれの緊急手動操作用のコネクタに、右手首のインプラントからプラグを差し込んでウイルスを突っ込んだ。車両リモ掌握テイクオーヴァ―完了の通知とともに、位置追跡を落とし、母の個人履歴に侵入したときに手に入れた位置の偽装AIを起動。そのままメトロの駅を行先に設定した。


 メトロで車両リモを乗り捨てたら、適当に数駅周って行先をごまかし、その後フォレスターForrester地区Districtのクロームドックに行く予定だった。あそこのドックなら、出所不明の試験テックであってもインストールしてくれるだろう。


 賭けなのは知っていた。だが、これが成功すれば———父の命を飲み込み、母のそれも無残に打ち捨てようとしているあの糞企業コーポに、目にもの見せてやることができる。データ要塞フォートへの突貫。ICEをウイルスと計算能力でねじ伏せ、中から破壊して見せる。私は父がハイドアウトに隠したウイルスを使えばそれができることを知っていた。必要なのはウイルスをしばらくキャリーして、データ要塞フォートに突っ込むRAMと妨害を排して接続を維持する計算能力。


 実際のところ、攻撃目標も手段もすぐに定められた計画性とは裏腹に、それは衝動的な野望だった。カンザキの粛清対象になってしまえば、逃げ場などないことは明白。どのように傭兵マークの世界で生き残ればいいかもしれない私が、追手が居る中でできるのは、その追手ごと大爆散してやることだけだ。


 崩壊するデータ要塞フォート、失われる投資、暴落する株価…!


 想像するだけでも愉悦で口が歪んだ。あのコーポレーションはその程度では倒れないだろう。しかし、私が、父が、母が、少なくとも存在していて、全員株価に0.1ポイントも反映されることなく海の藻屑にできるような、交換可能な塵芥ではなかったことを証明できる。これは明白なテロリズムの論理。しかし、この構想は、胸を焦がすほど愛おしくて、抗う気すら起きないほど魅力的だった。


——— ——— ——— ———


 そして———時刻18:32:11(Pacific Standard)。母の置き土産となったデッキをドックにインストールしてもらった私は、現在ハイドアウトに向かっている。メトロのカート内に、サイン波を数波重ねただけに違いない合成臭い音が響く。ハイドアウトがあるクライトン地区に到着だ。アナウンスとともに平静を装ってカートを降り、高架上のステーションから下に降りる。地区はまだメガビルディングに囲まれ、整然としていた。ここからおよそ1km。保険的にだが、監視カメラを避けつつ行こう。


 コーポのオフィスらしきタワーやメガビルディングのエントランスは避けつつ、そこら中の裏路地にたむろするギャングと屍食者キャリオン・チャンパーも避けつつ、不可避のカメラは停止と気温によるブラーの発生を装った隠蔽を仕掛けて潜り抜ける。あと200m。追手のサインはなかった。メガビルディングは密度を増し、町並みはゴミゴミとして、整然とした碁盤目の路地は曲がりくねった複雑な小径と屋台で埋め尽くされた広場の群れへと姿を変える。

 高層に折り重なった建築群。樹冠キャノピーと化した上層のマーケットのせいで、このコンクリートとメタルの雨林の下層は永久に宵闇に飲まれ、外が夕方であろうと関係なく、路地の深くではネオンライトが反射的な娯楽への欲求を誘発する。


 都市下層アーバン・ダウンアンダー———この都市の表層、コーポやもう少し稼いでいる連中の領域と、ホームレスやギャング―ン、屍食者キャリオン・チャンパーの巣窟たる本当の地下や深層の狭間に位置する、どちらにも付きかねる傭兵マークやネットローマー、売春婦の領域。そして、父が拠点にしてきたハイドアウトが潜む場所でもあった。


 目的とする建築物———誰が泊りたがるんだかわからない小さな元モーテル、現在は適当なギャング―ンと技術屋がたむろするエレクトロニクス・雑居ビルクラッタ―———が視界に入った。下層の入り口にあるその建物は、さらに奥のペデストリアン・ラウンドアバウトの中心に植えられた電飾のかかった桜の光を受けて、低彩度なマジェンタに色付いていた。


 都市下層に入った途端、銃声。三発。良くあることではあるが、方向が問題だ———大丈夫だ、下層ダウンアンダーからではない。恐らくだが、近くのメガビルディングの駐車場かどこかだろう。とりあえず追手はもうないようだった。コートの襟を若干きつめに引き寄せつつ、コンプレックスに入り、興奮剤ハイポで誘発された技術屋達のギラつく目線を避け、地下階に入る。上でけたたましく響いていたTVと音楽のミクスチュアは遠のき、ただの回折した低周波振動となった。


 ハイドアウトはモーテルのメンテナンスセクションの奥。メンテナンスセクションの、火災報知器やスプリンクラーなどに巧妙に隠蔽された監視カメラを使ったセキュリティを、虹彩認証とパスワードの二要素認証2FA、ついでに事前に実行した認証代わりの暗号解除ディクリプションで通り抜け、ハイドアウトに入ると同時に扉を閉めた。

 しばらくは万全。ここは完全に、肉眼で道を覚え、対処法を覚え、記憶にパスワードをとどめるという、前時代的だが信頼できる手法を元にしたセキュリティが敷かれている。カンザキによる私の所在の特定は時間の問題かもしれないが、大容量RAMを積んだデッキをインストールした今、父の持っていたウイルス、ICE、データ要塞フォートセキュリティの脆弱性に関する情報の数々を抜き出していくことは可能だ。


 とりあえず、休息をとりたい気分だった。推定ではあるが、母の死。復讐の決意。急なサイバーデッキのインストール。今日は起きたこと、下した決断があまりに多く、またどれも重大すぎる。


 インストールしたデッキに対する免疫反応に対処するべく、処方された抑制剤サプレッサントを飲み下すと、10時間以上空だった胃が急にむかつきだした。それと同時に、身体の各所から疲れが溢れ出てくる。倒れるようにランナーチェアの上に転がった。夢か走馬灯の如く、色々と去来する幻影たちは、最早この非現実感の中では全て虚像、存在しなかった日々のような気がした。もう、どの日常も現実ではないのだ。きっと今この瞬間でさえ現実ではないに違いない。そう思った後、何分か把握していない時間、何も考えずに過ごした。


 神経回路ニューロマトリックスが論理的思考力を取り戻し、再び感情を演算し始めたので、私は体を引きずって着替えに向かった。とりあえず、マトリックスの妄想幻視ハルシネーションに浸りたかった。それから、父の残したウイルスを品定めしてみるのだ。


 ハイドアウトのセキュリティを確認した後、家を出たときから着ていたコートとカーゴパンツ、スニーカーを脱ぎ捨て、ネットランナースーツに着替える。生地に熱伝導素材コンダクターが走る冷却に特化したフルボディスーツ。その上に、これまた熱伝導素材コンダクターを編み込んだボトムスを履き、ヴァイザーを着けてランナーチェアの上に転がった。


 後頭部に貼り付けられた、合成皮膚シンセティックスキン覆材シールを剝ぎ、露になったディープダイヴポートにコネクターを突きさす。ゴーグルを流れる情報を見ながら、ハイドアウトのセキュリティを今一度確認。ふと気づいて、しばらく無視していたSNSを見てみた。


 知り合いの一人から何個かメッセージが来ていた。アステリアAsteriaサンドラSandraヴィッカースVickers…私のクラスメートの一人で、実際のところ最も親しかった奴だ。政治的に負けたやつに連絡してくるとは…巻き込まれないと良いのだが。

 そう思いつつ、崩壊したはずの日常への親近感ファミリアリティを覚えたい私の情動中枢はメッセージを手繰った。


 『滅多にしないのに欠席してたけど、大丈夫なの?

 スプロールフィーヴァーじゃないでしょうね』


 『アクセス妨害時のウイルスプロトコルの解説リンク、送っておくわよ。

 有効期限は24時間だから』


 律儀な奴だ。この前、彼女をインターネットミームにしてから口を利いていなかったというのに、平然とこちらの心配をしている。


 ああ、こいつとも離れるのだ。私の自殺行スーサイドランには誰も巻き込みたくない。こいつみたいな、サイバーハスラーには稀有な性格のひねくれていないやつは、本気で貴重なのだ。少なくとも、ミームにしてやりたいくらいには。


 さらにメッセージを手繰る。


 『どうやら不味いことになったようね…

 アカデミーへの復帰は期待できないだろうし、この会話も12時間以内には消しとくわ。どこで生きていくかは知らないけど…

 ロイドのことだから栄光の炎ブレイズ・オヴ・グローリーを目指すでしょうけど、くれぐれも目標を見失わないように。

 気を付けて』


 目を見開いた。見抜かれるほど親密な付き合いだという認識はなかった。こいつは…どこからそうなるような兆候を見て取ったのか。


 アカデミーでの生徒同士の関係は、将来の競争相手となることを見越して、水面下に緊張の漂うものだった。確かにアステリアとは一番親密ではあったが、あの程度の関係からどこまで私の意志を読み取ったのか。いや、もしかすると…

 既にカンザキに情報を抜かれているかもしれない。セキュリティをもう一度入念に確認し、私自身を精査する。オールグリーン。


 何かの冗談だったのだろうと信じたかった。しかし、脳の疑念は焼け付いたグリスの如く思考に張り付いて離れず、私は逡巡ののち、マトリックスにダイヴすることに決めた。


 ポートをオンラインにする。金属極から流れ込む情報が脳内で相互結合インターコネクトし、クオリアがそれを解釈して妄想幻視ハルシネーションを生み出し、ゴーグルに流れる情報と同期する。フルダイヴ状態。今や私は、肉体の軛を脱してネットを自由に往来できる

 ———超越潜行トランスセンデント・ダイヴ


 もはや日常の行為となったそれが、一つの違和感を私に伝える。テンソルが、揺れている。無数のシアンの光点。私のクオリアによればネット上のノードを指すそれが、これまでにないほどに振動オシレートし、もとより活写的ヴァイブラント妄想幻視ハルシネーションの世界は、地震にあったかのように猛烈な、低振動数のビートの上で波動する。


 何が起きている…


 振動の元を見やる。こちらに伝わってくるのとは比べ物にならない高周波の振動。共感覚により、引き裂くような音、恐竜映画の咆哮か風洞音のような本能的恐怖を誘う音が伝達される。


 何だ、あれ…ミリタリーグレードAIか何か?

 遥か昔にXRS(裏レゾン)で見たあれ。冷徹なアルゴリズム、複雑怪奇なレイヤーが絡み合ったさらに複雑なネットワークデザインアーキテクチュア巨大さイメンシティと全方向のクラックアクセスにより、電脳空間サイバースペース震動クェイクするほどのそれが、こちらに向かってきて…


 反抗の暇なく、ICEは貫通され、私は震動に飲まれた。

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