プロメティアの魔女
EF
Ch. 0 Prologue
0-0 The Demise // 死
メトロに乗っていたら口座が凍結された。
間違いない。母がしくじった。恐らくだがもう生きてはいないだろう
———マップアプリの行先を
———連中が勘付く前に、下の
母親の
仕事はカンザキの「覇道」———カンザキの言い方では「平和維持と人類の進歩のための活動」———に仇名す全ての政治活動及び経済活動の妨害。対外的な活動という表面上のお題目とは裏腹に、今や世界経済の柱と化したこの日系コングロマリットの諜報署員は、人事にも多大な影響を及ぼせる部署の性質故に、他社の人間を見張る20倍互いを見張っている有様だった。
——— ——— ——— ———
母の異変は5日前から始まった。母が少なくとも38時間に1回は欠かすことのなかったステータスチェックの如き電話がなくなった。母は仕事に没頭するときは大概そうする。自らを非人間的にすることで、仕事への集中を達成するのだ。
母の通信履歴の探索を5日前の昼休み、カンザキ・アカデミーの中庭から試みた。AVでの移動は社のネットワークにオープンで共有されているから、その履歴を見るのは簡単だったが、効率化のためにAI生成された虚偽の移動記録で埋め尽くされているのは間違いなかった。
一旦
メールに残っていたやり取りは、母が上司のリンドン・ジェファーソンに、ジェファーソンのさらに上司で、
多種多様な感情が交雑した、言いようの知れないセンセーションが胸中に去来する。なぜ言ってくれなかったのか?母と私は運命共同体なのだ。言ってくれれば、何か…アカデミーの中からだろうと外からだろうと、何かできたはずなのに。父と同じように私を置いていくのか?今度は
何より苛立ったのは、この期に及んで母が私を被保護者扱いしていることだった。私はサイバーハスラーとして、父から手解きを受け、アカデミーでも最上位のクラスに所属して、順調にスキルを積んでいた。インプラントにトラッカーが付いていようと、出来ることはあったはずなのに。それを知っていたのに、あの人は…
いや、知っている。わかっているのだ。私はどこかで生き残ることができる。インプラントにしても、即座にどこかでアンインストールすればいいだけだし、それさえ出来れば、行方をくらませることが可能になる。ハイドアウトに隠したテックや
———そう考えているうちに頭が冷え、理性が頭に戻ってきた。しかし、怒りと無念は冷えて沈殿し、心の片隅に固着した。
とりあえず、母の通信履歴を探ろう。有効な情報を探すのだ。
トゥシンスカヤ排除計画の成功報酬として、母はカンザキ製のテックを提供するとメールにはあった。
テックの保管場所を示すファイルはどこにもなかったが、AI生成された虚偽の移動記録を解析した私は、一つの結論に至った———
到着した送迎
———推測は当たっていた。私は母のウェポンスタッシュで、弾薬に偽装して置かれていた箱から、テックを見つけ出した。
シリコンウェーハに刻まれた入り組んだ電子回路。表面にCPUとGPUが成す配列。見たこともない、恐らく量子計算野と思われる部位。間違いない
———これが目的のサイバーデッキだ。ネットローマーがハッキングを仕掛ける際に行う必要のある無数の計算を補助または実行するインプラント。
———これで、今脳にインストールされているトラッカー付きのカンザキのデッキの持つようなコーポの追跡の呪縛から逃れられる。
ウェポンスタッシュから出ると、母の寝室に入り、そこにあったエンゲージリングを回収した。遂に嵌めることのなかった指輪。母の遺せるものの中だと、恐らく最も感情的価値が高いものだ。もし、
家の収まるビルから外に出た私は、
メトロで
賭けなのは知っていた。だが、これが成功すれば———父の命を飲み込み、母のそれも無残に打ち捨てようとしているあの糞
実際のところ、攻撃目標も手段もすぐに定められた計画性とは裏腹に、それは衝動的な野望だった。カンザキの粛清対象になってしまえば、逃げ場などないことは明白。どのように
崩壊するデータ
想像するだけでも愉悦で口が歪んだ。あのコーポレーションはその程度では倒れないだろう。しかし、私が、父が、母が、少なくとも存在していて、全員株価に0.1ポイントも反映されることなく海の藻屑にできるような、交換可能な塵芥ではなかったことを証明できる。これは明白なテロリズムの論理。しかし、この構想は、胸を焦がすほど愛おしくて、抗う気すら起きないほど魅力的だった。
——— ——— ——— ———
そして———時刻18:32:11(Pacific Standard)。母の置き土産となったデッキをドックにインストールしてもらった私は、現在ハイドアウトに向かっている。メトロの
コーポのオフィスらしきタワーやメガビルディングのエントランスは避けつつ、そこら中の裏路地にたむろするギャングと
高層に折り重なった建築群。
目的とする建築物———誰が泊りたがるんだかわからない小さな元モーテル、現在は適当なギャング―ンと技術屋がたむろするエレクトロニクス・
都市下層に入った途端、銃声。三発。良くあることではあるが、方向が問題だ———大丈夫だ、
ハイドアウトはモーテルのメンテナンスセクションの奥。メンテナンスセクションの、火災報知器やスプリンクラーなどに巧妙に隠蔽された監視カメラを使ったセキュリティを、虹彩認証とパスワードの
しばらくは万全。ここは完全に、肉眼で道を覚え、対処法を覚え、記憶にパスワードをとどめるという、前時代的だが信頼できる手法を元にしたセキュリティが敷かれている。カンザキによる私の所在の特定は時間の問題かもしれないが、大容量RAMを積んだデッキをインストールした今、父の持っていたウイルス、ICE、データ
とりあえず、休息をとりたい気分だった。推定ではあるが、母の死。復讐の決意。急なサイバーデッキのインストール。今日は起きたこと、下した決断があまりに多く、またどれも重大すぎる。
インストールしたデッキに対する免疫反応に対処するべく、処方された
ハイドアウトのセキュリティを確認した後、家を出たときから着ていたコートとカーゴパンツ、スニーカーを脱ぎ捨て、ネットランナースーツに着替える。生地に
後頭部に貼り付けられた、
知り合いの一人から何個かメッセージが来ていた。
そう思いつつ、崩壊したはずの日常への
『滅多にしないのに欠席してたけど、大丈夫なの?
スプロール
『アクセス妨害時のウイルスプロトコルの解説リンク、送っておくわよ。
有効期限は24時間だから』
律儀な奴だ。この前、彼女をインターネットミームにしてから口を利いていなかったというのに、平然とこちらの心配をしている。
ああ、こいつとも離れるのだ。私の
さらにメッセージを手繰る。
『どうやら不味いことになったようね…
アカデミーへの復帰は期待できないだろうし、この会話も12時間以内には消しとくわ。どこで生きていくかは知らないけど…
ロイドのことだから
気を付けて』
目を見開いた。見抜かれるほど親密な付き合いだという認識はなかった。こいつは…どこからそうなるような兆候を見て取ったのか。
アカデミーでの生徒同士の関係は、将来の競争相手となることを見越して、水面下に緊張の漂うものだった。確かにアステリアとは一番親密ではあったが、あの程度の関係からどこまで私の意志を読み取ったのか。いや、もしかすると…
既にカンザキに情報を抜かれているかもしれない。セキュリティをもう一度入念に確認し、私自身を精査する。オールグリーン。
何かの冗談だったのだろうと信じたかった。しかし、脳の疑念は焼け付いたグリスの如く思考に張り付いて離れず、私は逡巡ののち、マトリックスにダイヴすることに決めた。
ポートをオンラインにする。金属極から流れ込む情報が脳内で
———
もはや日常の行為となったそれが、一つの違和感を私に伝える。テンソルが、揺れている。無数のシアンの光点。私のクオリアによればネット上のノードを指すそれが、これまでにないほどに
何が起きている…
振動の元を見やる。こちらに伝わってくるのとは比べ物にならない高周波の振動。共感覚により、引き裂くような音、恐竜映画の咆哮か風洞音のような本能的恐怖を誘う音が伝達される。
何だ、あれ…ミリタリーグレードAIか何か?
遥か昔にXRS(裏レゾン)で見たあれ。冷徹なアルゴリズム、複雑怪奇な
反抗の暇なく、ICEは貫通され、私は震動に飲まれた。
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