第十一話

 北の対の屋に比べれば小さいとは言え、鬼門の対の屋も三姫一人が生活するには十分過ぎるほどの広さのある建物だ。だというのに、バケモノは窮屈そうに八本の足を折り曲げて屋根にしがみついている。


「鬼だ、ずいぶんと小さいが本当に鬼がいるぞ! 力比べだ、力比べだぁ!」


 バケモノは三姫を血走った目で見下ろし、口の両端を持ち上げて、ニタァ……と気味の悪い笑みを浮かべた。男の声だった。虫の羽音が混ざったようなひどく耳障りが悪い声だ。


「ありゃあ、多分、クラベだ。力比べだっつって誰彼構わず襲い掛かって殺しちまう。だから、そう呼ばれるようになったって話だ」


 スズメ天狗は小さな体をプルプルと震わせて三姫の首にしがみついた。甘い匂いがする。鬼童丸に持っていく唐菓子を抱えたままなのだ。


「クラベは鬼と力比べをしたがってるって天狗の師匠から聞いたことがある。でも、鬼は隠れ里に暮らしてて滅多なことじゃあ、出てこない。腕っ節ばっかりで頭の悪いクラベが

鬼の隠れ里を見つけられるわけもない。そこに鬼の姫さんが現れた」


「つまり私は今からあのバケモノに襲い掛かられて殺されちゃうってこと?」


 乾いた笑い声を漏らす三姫をじっと見つめたスズメ天狗は――。


「よっし、俺はきい丸のところにこの唐菓子を届けに行ってくらぁ!」


 紙にくるまれた唐菓子を抱え直すとバサリと羽を広げて三姫の肩から飛び立った。


「ちょ、ちょっと……この状況で置いてかないでよ!」


 振り返って追いすがろうとする三姫の視界が不意に暗くなった。

 恐る恐る顔をあげると――。


「力比べだ! 鬼と力比べだぁーーー!」


 いつの間に屋根から飛び降りたのか。クラベの薄気味悪い顔が目の前にあった。

 大きな口。垢だらけの牙。臭い息。ごちそうでも目の前にしているかのようにクラベは舌なめずりする。


「鬼は相手の力を映す鏡なんだろ? 俺は自分と力比べがしたい! 俺は俺がどれくらい強いのか、確かめたい!」


「コイツ、とんだ自惚れ屋じゃねえか!」


「そんなことを言ってる暇があったら助けるか、助けを呼んできてよ!」


 頭上から聞こえるスズメ天狗の声に三姫は涙混じりに叫んだ。

 クラベが飛び降りたときの反動で壊れたのだろう。鬼門の対の屋は屋根の瓦が崩れ落ち、簀子には穴が開き、きざはしは半分以上が木片に変わっていた。

 飛び退いて三姫から距離を取ったクラベは苛立った牛のように後ろの足で地面を蹴った。踏み固められた地面に引っ掻き傷のような爪痕が残る。グッと姿勢を低くて体当たりしてくる気満々だ。


「……無理」


 牛車よりも大きなバケモノに、ゆったりと牛車に乗れるほど小さな三姫が力比べで勝てるわけがない。


「無理! 無理無理、無理無理……!」


「姫さん、手を前に出せ!」


 スズメ天狗が叫ぶのとクラベが突進して来るのとはほとんど同時だった。スズメ天狗の言う通り、三姫は反射的に手を前に出していた。


 ――最後にもう一度、鬼童丸が微笑んでいるのを見てから死にたかったなぁ。


 そんなことを考えながら衝撃と痛みを覚悟して、ぎゅっと目をつむった三姫は――。


「……あ、れ?」


 思っていたのとは違う感覚に間の抜けた声をあげた。ゆっくりと目を開けてみると三姫の手はクラベの前足をがしりと掴んでいた。

 天災のような衝撃を想像していた。崩れた鬼門の対の屋のようにぺしゃりと押し潰されて、ぐしゃぐしゃになってしまうのだろうと思っていた。でも、実際にはどうにか耐えることのできる程度の衝撃だった。余裕があるというわけではない。奥歯をグッと噛みしめて、足を踏ん張って、どうにかという感じだ。

 それでも、絶望的な力の差があるようには思えなかった。


「姫さん……姫さん! 耐えらえそうか、姫さん!」


「耐えられそう、だけれども……!」


 そう、耐えられそうだけれど、それだけ。二進にっち三進さっちもいかない。だから、助けを呼んできて。そう、目で訴えかけるけれど――。


「そうかい、耐えられそうかい! さすがは鬼の姫さんだ!」


 スズメ天狗は全然、気が付いてくれない。


「やっぱり鬼ってのはすげえなぁ! あのクラベの攻撃を受け止めちまった! よぉし、そこだ! そのまま押し返してやれぇ!」


「いや、そうじゃ……なくて……!」


 三姫の遥か頭上をくるくる、ばっさばっさと飛びまわって賑やかに、軽率にはやし立てる。スズメ天狗の声援にイラッとしたのは三姫だけではなかったらしい。


目障めざわりだ、スズメ。邪魔を……するなぁ!」


 空気をぴりぴりと震わすほどの大声で怒鳴るとクラベは三姫を突き飛ばした。


「……っ」


 急なことに驚いてよろめきはしたものの、三姫の方はそれだけで済んだ。

 でも――。


「力比べするまでもねえ! うるさいコバエは叩き潰ーす!」


「ぎゃあぁぁぁーーー!!!」


 遥か頭上でスズメ天狗が悲鳴をあげた。クラベがスズメ天狗目掛けて跳び上がったのだ。高く、それこそ空を飛んでいるスズメ天狗よりも遥か高くに跳び上がり、拳――というか前足を振り下ろす。


「……!」


 クラベの巨体が落下した衝撃で起こった風に三姫は腕で頭をかばい、ぎゅっと目をつむった。風圧で飛ばされそうになるのを姿勢を低くして踏ん張る。

 風が止むのを感じて恐る恐る目を開ける。

 クラベの足元は地面が陥没して大穴になっていた。鬼門の対の屋も、鬼門の対の屋をぐるりと囲む高い高い塀も粉々になっている。

 スズメ天狗の姿は見つからない。吹き飛ばされてしまったのか。もし本当に叩き潰されたのなら小さな体は跡形も残っていないだろう。


「……そんな」


「あーあー、うるさいコバエが増えちまった」


 呆然と瓦礫の山を見つめていた三姫はクラベのぼやき声にハッとあたりを見まわした。

 崩れた塀に面した道をたまたま通っていただけの牛車や人々。何があったのかと集まって来た野次馬たち。何事かと刀を手に駆けてくる桔梗家の武士団の者たち。

 そういう人たちを苛立った様子で一瞥いちべつ


「力比べするまでもねえや。コバエは叩き潰す!」


 クラベは前足を鞭のようにしならせて右にいだ。

 小屋ほどの大きさがある牛車が、クラベの恐ろしい姿に逃げようとしてた野次馬たちが、刀を構えてクラベの攻撃を受けようとした武士団の者たちが、軽々と吹き飛ばされる。塀や地面に体を叩きつけられて動かなくなる。

 その光景を三姫は身動き一つ出来ずに見つめていた。自分よりもずっと体が大きくて力も強い武士すら吹き飛ばされたのだ。


 と――。


「お前らも……叩き潰ーーーっす!」


「ダメ……!」


 返す手で反対側にいる人たちを薙ぎ払おうとするクラベに三姫は悲鳴をあげた。

 駆け出して――。


「させ、ない……!」


 鞭のようにしなるクラベの前足を受け止めた。

 前足をグッと押し込んでも三姫の体はずる、ずる……とわずかに後退するだけ。牛車や野次馬、武士たちのように吹き飛ばされたりはしない。


「……力比べ」


 遥かに小さな体の三姫が動きを封じ、目に涙をいっぱいに溜めながら睨み付けてくるのを見下ろしてクラベはニタァ……と笑った。

 そして――。


「力比べだ! 鬼と力比べだぁぁぁーーー!!!」


 虫の羽音が混ざったような不愉快な声で実に嬉しそうに叫んだのだった。

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