第五話

 キツネ面顔の男が帰って母親のすすり泣く声が止んだのは夜もすっかり深まった頃。フクロウがホーホーと鳴き出す頃だった。泣き止んだわけではない。ただ、泣き疲れて眠ってしまっただけだ。


 母親と三姫が暮らす北のたいの東側。鬼門きもんと呼ばれる忌むべき方角にかんぬきで施錠された妻戸つまどがあることを三姫が不思議に思ったことはなかった。一度として開いたことのない扉の先に何があるのかも気にしたことはなかった。

 どうやら父親もそうだったらしい。祖母が鬼門の対の屋へと続く妻戸を開けるのを見て目を丸くしていた。

 両開きの木の扉は軋んだ音を立てて開いた。

 祖母が手に持った燭台しょくだいを掲げ、夜闇に包まれた扉の先を照らす。ろうそくの灯かりがゆらりと揺れるのを三姫は不気味に思いながら見つめた。


 渡殿わたどのと呼ばれる反り橋の先には小さな建物が建っていた。

 北の対の屋の半分ほどの広さしかない建物。手入れは行き届いているようだ。渡殿の高欄こうらん簀子すのこもきれいに磨かれていた。

 それでも不気味に見えるのは小さな建物と草木の一つも植えられていない殺風景な庭、それらをぐるりと囲む高い高い塀のせいだろうか。


 振り返った祖母は伊勢の袖をつかんで動こうとしない三姫を手招いた。本当は伊勢の腕にしがみつきたかったけれど触れてはならないと祖母にきつく言われている。

 祖母の手招きに三姫はふるふると首を横に振った。


「誰かに見られたら大変なことになるのです。三姫、とにかく身を隠しなさい」


 祖母の優しいけれど有無を言わせぬ微笑みに三姫は唇を噛んだ。そうしないと今にも泣き出してしまいそうだったからだ。


「大丈夫ですよ、姫様」


 そんな三姫の背中を伊勢の優しい声が押した。


「この伊勢がきちんとお世話に参ります。朝もいつもどおり起こしに参ります。寝坊してらっしゃったら容赦なく怒鳴りつけますよ」


 見上げると伊勢はにっこりと笑っていた。目尻を下げ、皺だらけの顔をさらに皺くちゃにしていつものように笑っていた。でも、伊勢の目は涙で潤んでいるようにも見えた。

 乳母として、教育係として、三姫が赤ん坊の頃から可愛がってくれた。伊勢を悲しませた上、子供みたいに困らせていることがもうしわけなくなってきた。

 自分で見ても気味が悪いと思う角と目を見ても伊勢は少しも怖がらないでいてくれた。それだけでも伊勢の愛情を信じるには十分だ。


「お母様のこと、よろしくね」


「もちろんにございます、姫様」


 三姫が精一杯の笑顔を見せると伊勢も笑い返す。大きくうなずいて三姫は祖母に向き直った。燭台を受け取り、大きく深呼吸。一歩。三姫は扉をくぐった。

 角を隠すために頭から単衣を被っているせいで視界が狭い。狭い視界が涙で滲んだ。腕の中の花籠をぎゅっと抱きしめる。布で折った百合が入っている、鬼童丸がくれた花籠だ。必要なものはもう運び入れてある。


 持って行くのはこの花籠一つ。


 よし、と覚悟を決めると三姫は渡殿を歩き出した。後ろで妻戸が軋んだ音を立てるのが聞こえた。振り返ると木の扉がぴたりと閉まるところだった。

 花籠をぎゅっと抱き締めて三姫は再び、渡殿を歩き始めた。

 小さな建物の周りをぐるりと囲うように作られた簀子を歩いていく。簀子は通路として使われる以外に御簾や几帳を置くことで応接の場として使われることもある。


「まぁ、こんなところに誰かが来ることなんてないだろうけど」


 北東の位置にある入り口から部屋の中をのぞき込んで三姫は小さくため息をついた。鬼門に建てられたこの建物が北の対の屋よりもずっと小さい理由がわかった。

 塗籠ぬりごめ一部屋しかないのだ。

 厚い土塀に三辺を囲まれた小さな部屋。窓すらない。庭はと言えば三段のきざはしがあって降りることが出来るけれど、狭いし何もない。踏み固められた黒い土があるだけだ。

 母親たちがいる北の対の屋とのあいだも黒いかわら屋根を乗せた白い塀が遮っている。


「なんだか牢屋ろうやみたい」


 苦笑いしたあと、三姫はその場にすとんと座り込んだ。本当にそうなるのかもしれない。一生の牢屋に。そう考えた瞬間、体がぶるりと震えた。


 燭台を隅に置いて簀子の上に仰向けになった。頭から被っていた単衣がはらりと落ちる音がした。こんなところにやってくる人もいない。今は角も目も隠さなくていいだろう。

 伊勢が見ていたらお行儀が悪いと叱られただろうか。鬼童丸が見ていたら苦笑いで注意されただろうか。考えて、ゆるゆると首を横に振った。鬼童丸のあの苦笑いを見ることはもうないだろう。

 なにせ、こんな気味の悪い、恐ろしい姿になってしまったのだ。大好きな幼馴染に見せられるわけがない。


 ――原因はそれだ。

 ――その鳥籠の中に呪符が仕込まれているねぇ。


 キツネ面顔の男が言った言葉を思い出す。あんな、見るからに怪しげな男が言うことを信じたわけではない。信じたくない。ただ、思い当たる節がなくもないのだ。


 空にはあと少しで丸くなる月が一つと無数の星が浮かんでいた。腹の上に乗せた鳥籠を――鬼童丸に贈られた花籠を撫でた手で星の一つを指さした。


「きい丸の大好きなお菓子を取り上げて全部、食べた」


 隣の星を指さす。


「お隣の庭に入り込んだとき。私をかばってきい丸だけが捕まって、お隣の人にも、きい丸のお父様にも怒られてた」


 また、隣の星。


「馬を撫でようとしたら無理矢理に引き離されて、腹が立ってグーで殴った」


 蹴り癖のある馬だったとわかったのは殴って鼻血を出させた後だった。


「スズに懐かれてるきい丸がうらやましくて庭の池に突き落とした。登っちゃダメって言われてたのに木登りして、落っこちて、きい丸を下敷きにした」


 また隣、さらにその隣……と、三姫は次々と星を指さしていく。


「それから……」


 でも、次の星を指さそうとしたところでゆっくりと腕を下ろした。いくらでも出てきそうだったからだ。

 鬼童丸に恨まれる理由。呪いを掛けられた原因。


「どうして、きい丸なら許してくれるなんて思っていたのかしら。どうして、きい丸が結婚してくれるなんて思ったのかしら」


 自嘲気味に笑って三姫は腹の上の花籠を抱きしめた。

 そういえば――。


「どうやって……きい丸は、私の象徴花と真名しんめいが百合だって知ったのかしら?」


 呟いて三姫は首を傾げた。

 鬢削びんそぎの儀のあと、父親が持ってきた銀細工の鳥籠と宝石で作られた百合の花を見るまで三姫自身も自分の象徴花と真名を知らなかったのだ。だと言うのに、鬼童丸が持ってきた花籠には布で折られた百合の花が入っていた。


 しばらく星を見つめて考えてみたけれど結局、諦めた。ただの偶然かもしれない。もし、三姫の象徴花と真名を知っていたのだとして、みずら髪の幼馴染は昔からそこいらの大人よりもよほど頭がまわった。

 鬢削びんそぎの儀のあと、どうなるかにも思い当たらない自分が考えたところで――。


「きい丸が考えていることなんてわかるわけがない……わよね」


 三姫は自嘲気味に笑って目を閉じたのだった。

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