第三話

「もう昼ですよ! いい加減、起きてください、姫様!」


 女房の伊勢いせにそう叱られてからどれくらいの時間、ごろごろとしていただろう。背中が痛くなってきてようやく三姫は起き上がった。御簾みす越しに透けて見える庭はすっかり明るくなっていた。


 あんなに楽しみにしていた鬢削びんそぎの儀が終わったというのに。大人の女性になったというのに。一夜明けてみても心は重たいままだ。

 後ろ髪と同じように長く伸ばしていた前髪を切って、大人の女性がする髪型にして。その先を想像していなかった自分の呑気さにげんなりしていた。

 いや、想像していなかったわけではない。ただ、あまりにも能天気で自分に都合のいい想像をしていただけ。


 薄暗い部屋のすみには銀細工で作られた鳥籠が置かれていた。中には真珠や宝石で作られた百合の花が入っている。

 これも〝花籠〟の一種だ。


 上流貴族の娘は生まれたときに親から象徴花というものを与えられる。象徴花はそのまま娘の真名しんめいとなる。

 元服のときに男性は幼名から大人としての名前に改めるが、これは女子供は弱く、簡単に〝悪いモノ〟に付け込まれて死んでしまうからだ。名前には相手を支配する力がある。だから、男の子は元服して大人になるまでは仮の名で過ごす。

 そして、女の子は大人になっても真名を親と夫以外には明かさず、御簾の奥に隠れて暮らすのだ。


 部屋のすみに置かれた〝花籠〟は婚礼の儀式で使うものだ。

 結婚が決まると相手の男性から鳥籠が届く。鳥籠に入れる象徴花は娘が幼いうちから親が準備しておいたもの。宝石や稀少な生地で作られた、枯れることのない花だ。それを鳥籠に入れて布で覆い、嫁いでいく。


 真名を現わし、〝あなたの鳥籠の中、一生、あなたのそばにいます〟という意味を持つ〝花籠〟を抱えて――嫁いでいくのだ。


 繊細な銀細工の鳥籠はいかにも金と権力のある上流貴族が作らせたものといった感じだ。鳥籠の中に収まっている宝石でできた百合の花も同様。つり合いは取れているだろう。

 鬢削ぎの儀の前に父親から聞かされたのは桔梗家と同じ名門貴族の一つ、桂家の次男との結婚話だった。

 鬢削ぎの儀の次は裳着もぎの儀が行われる。その次は婚礼の儀。そして会ったこともなければ顔も知らない男の屋敷に連れていかれて、一生、北の対の屋と呼ばれる屋敷の奥の部屋に閉じ込められるのだ。


 名門貴族の子息に正妻として迎え入れられるのなら女としては上々の人生。


「可愛い三姫に相応しい相手がなかなか見つからなくて頭を抱えていたが。呪われているんじゃないかと思うくらい決まらなくて困り果てていたが! 最後の最後にやっと良いご縁に恵まれたよ」


 父親が満面の笑顔だったのは娘の嫁ぎ先が身分も評判も申し分のない相手だからだ。三姫も喜んでくれると信じて疑っていないからだ。

 父親の話と表情で三姫は思い知った。思い描いていた夢がしょせん夢でしかなかったのだと。寝て見る夢の類だったのだと。


 だというのに、あんな風に鬼童丸に八つ当たりして――。


「~~~っ!」


 三姫は床に突っ伏すとあまりの恥ずかしさに悶絶した。


 ――きい丸に私をさらうくらいの度胸があれば……!


 途中で言葉を切りはしたけれど聡い幼馴染が気付かないわけがない。あんなの、本人に向かって〝きい丸と結婚できると信じていた〟と言ったようなものだ。

 頭が良くて現実的な幼馴染のことだ。身分の差なんて十分すぎるくらいにわかっていたはずだ。そもそも鬼童丸が三姫の相手をしていたのは父親が三姫の父親に仕える家臣の一人だったからだ。嫌々、子守りをしていた可能性だってある。いや、そちらの可能性の方が高い。

 子供の頃から気に入らないことがあれば金切り声をあげて地団駄を踏んでいた。拳を振り上げて鬼の形相で鬼童丸を追いかけ回したりもした。全く胸を張れないけれど昨日のなんて――花籠をはたき落として怒鳴る、なんてまだ可愛いものだ。

 幼い頃にしろ何にしろ結婚の約束をしたわけでもない。鬼童丸に好きだと言われたわけでもない。その上、そんなことばかりやっていて、どうして鬼童丸と結婚できるだなんて……鬼童丸が好いてくれるだなんて思っていたのだろうか。


「~~~っ、~~~っ!」


 しばらく身もだえて床をジタバタ転がっていた三姫だったが大きなため息をついてようやく顔をあげた。

 枕元に置いてあった花籠を引き寄せて膝の上に乗せる。銀細工でできた婚礼用の花籠ではない。鬼童丸が置いていった花籠だ。あのまま置き去りにすることも捨てることもできなくて、結局、こうしてそばに置いていた。


 昔、二人でケガをしたスズメの世話をしたことがあった。そのときに使った鳥籠だろう。百合の形に折った白い手拭いも桔梗家の姫からしたら安物だ。銀細工でできた鳥籠と宝石でできた百合の花と比べたら月とスッポン、雲泥の差だ。


 竹製の鳥籠をそっと撫でながら三姫は最後に見た鬼童丸の表情を思い浮かべた。

 三姫が思い描いていた子供じみた夢を見透かして、呆れて、表情がなくなったのだろうか。それとも、これまでに積もりに積もった怒りが顔に現れたのだろうか。

 鬼童丸は〝また、来ます〟と言っていたけれど三姫は成人した身だ。もうすぐどこぞの正室になる身だ。もう簡単には会えないし、もし会えたとしても御簾越しの対面となるだろう。

 最後に見た鬼童丸の顔があんな怖い顔だなんて最悪だ。最後ならいつも通りの、優しくて穏やかな幼馴染の微笑みが見たかった。


「姫様! いい加減、起きないと怒りますよ!」


「はーい!」


 女房の伊勢いせの声に三姫は鬼童丸がくれた花籠を抱えたまま鏡の前に歩み寄った。鏡に写る鬢を切った自分の姿を見るのは憂鬱ゆううつだ。でも泣きらした赤い目で母親や祖母、女房たちの前に出たりしたら心配させてしまう。

 三姫はうつむいたまま鏡に掛けてある布を上げた。もう一度、ため息をついて顔をあげ――鏡に映る自分の姿を見て首を傾げた。


 びんは肩に掛かる程度の長さに切られていた。昨日、切ったあとに鏡を見たときと同じだ。首を傾げたのはそういう理由ではなくて――。


「……」


 親指ほどの大きさの黒くてつるりとした角が生えていたからだ。

 どこから。自分の右の額から。


 三姫はそっと鏡の布を下した。膝の上の花籠をひと撫でして自嘲気味に笑う。きっと鬼童丸とのことに動揺し過ぎて見間違えたのだ。ちょっと気が滅入めいっているか、疲れているだけ。

 目頭めがしらを指でもみほぐし、もう一度、鏡に掛けた布を上げてみる。鏡に映る自分の右額にはやっぱり角が生えている。

 つついてみる。つるりとした感触。残念ながら触れる。幻ではない。

 爪先で弾いてみる。見た目通りの固さ。それになんだかくすぐったい。つまり感覚があるということ。

 鏡に映る自分としばらく見つめ合っていた三姫は――。


「ぎゃあああぁぁぁーーー!!!」


 不意に全力の悲鳴をあげた。


「姫様、なんて声を出すんですか! 大人の女性の仲間入りをしたんですよ! もう少しつつしみと言うものをですねぇ……!」


 三姫の絶叫を聞きつけて伊勢がバタバタとやってきた。お説教しながら御簾をあげた伊勢が三姫と同じように絶叫するのはこのあとすぐだ。

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