孤城のアトリエ

第25話:対峙する意地

　和哉はスプーンを持ったまま椅子から滑り落ちた。六人分には十分すぎる大きさの鍋に、250gの蜂蜜1本入れたとなると糖尿病まっしぐらである。というかもはや鍋の大きさは問題ではない。菜摘もスプーンをテーブルに置き、諦めたような顔をしている。

「食べないならいただいてもいいですか？」

　結局、菜摘と和哉の分は食い意地の張った硝子が食べた。

　昼食を食べ終え、ひよりが皿洗いで3枚ほど犠牲を作っていた頃。めずらしく菜摘から声をかけた。

「散歩に行くぞ」

　ひよりは、菜摘からの誘いに嬉しそうに承諾し、奏人を呼びに行こうと、洗い物そっちのけでパタパタと駆けていく。

「う〜！僕も行きたいです！でも、これから洗濯物の追加分を干さないといけないので...」

　そういわれた。他にも和哉と隼人と硝子も誘うがやはりみんな忙しく結局二人で行くこととなった。

　昼間は避け、日が傾いた頃に出かければ、日中より随分と涼しくなっている。のんびり歩くひよりの歩幅に合わせて菜摘が歩く。それだけでひよりは心底楽しそうにしていた。

「ありがとう」

　そういうひよりに菜摘は首を傾げた。

「今日、初めて教徒の人の名前と顔を知った。今日、初めて洗濯をした。料理をした。後片づけをした。こんなに楽しいことを知らなかったから。きっかけをくれてありがとう」

　素直な感謝にむず痒さを感じそっぽ向いた。それでも悪い気はしなかった。だが、途端に険しい顔をする。

「16年だ」

　その言葉にひよりが足を止める。

「お前のところの教徒達がデカい顔して町中を歩き、過激な資金調達と豪遊をして歩いた年数だ」

　菜摘の目を見れば、怒りや憎しみを感じられる強い眼差しをしていた。

「救急車や消防車なんかもそうだ。お前のところの教徒達がタクシーみたいに乗り回し始め常態化した」

　自身が今まで乗っていたものを思い出す。サイレンを鳴らしながら走るパトカーや救急車、消防車とどれも当たり前のように乗っていた。

「当時まだ研修医をやっていた塩屋直哉は必死に魔女になるための努力をした。魔女になって、教徒や魔女たちの存在に人々の生命が脅かされないために、独立した医療を提供する組織を作るってな」

　直哉の生い立ちを初めて聞いた。普段は決して見せない思想や努力を聞いた。

「お前は、自分の名前の話が出たときに、人を殺した事がない直哉には分からないといったよな」

　嫌な汗が出た。魔女になるための努力。魔女は努力したところでなれるものではない。席が空くか否かであり、あとは運である。ひと握りの幸運を持つものだけが名声、絶対的な権力を得る夢のような話。

「あいつは魔女になるまでの間ずっと、反魔女を掲げる組織に入り浸り夜は魔女狩り、昼は医者の生活を続けた。魔女を殺して帰ってきた日には夜通し泣いていた。席を開けたところで誰が魔女になるかは分からない。終わりの見えない日々。俺の中のあいつはいつも壊れそうな面をしてた」

　辛いのは私だけじゃなかった。私よりもずっと辛い思いをしながら耐えていた人がこんなに身近にいた。出会ったときの直哉は、ただ治癒の魔法が使える珍しい魔女の卵だった。でも、いつの間にか魔女になっていた。身近な人間が魔女になるなんていう幸運があるもんなんだと、たいして気にも止めていなかった。

　その裏では、こんなにも悲しい努力があったなんて知らなかった。

　ひよりは何を言えばいいのか。言葉が出なかった。

「叡智の魔女。俺はお前が嫌いだ。魔女は等しく嫌いだが特にお前が許せない。例え、お前が教徒達にいいように使われていただけだったとしても。俺はお前を認めない」

　真っ直ぐな目は最初よりも随分丸みを帯びていた。頬を伝う涙が光る。

「俺と戦え。屋敷の奴らは見込みがあるから残した奴らだ。だが、お前はまだ見込みがあると証明できていない」

　その涙は、直哉を想って流されたものだ。それだけで、菜摘にとって直哉がどれだけ大きな存在であるかが分かった。

「手加減は...しないよ。全力で証明する」

　自身もまた、負けられない理由が頭に浮かぶ。ただ、楽しかった。16年生きてきて、今が一番楽しいのだ。16年という歳月より、泰人と出会って過ごした1ヶ月程度の月日が勝った。きっと、これからも楽しいはずだ。そう拳を握った。