うわがき

空韻

うわがき

過去の出来事の苦しみから逃げられるなら命を捧げたっていい、そう思っていた。

七月二十八日、日曜日。普段デスクワークばかりで疲れた目を癒すために緑を見に、助手席にはちょっと高級なサンドイッチを乗せて公園へと車を走らせた。

着いたところは何か特別なものがあるわけでもない、木や芝生の生えた広めな公園だ。描いたイラストとバッグを広げて写真を撮る学生、バドミントンをやる子どもとそれを見守る親などいる人は様々であった。地面が砂になっているところにあるベンチに腰をかけ、茹でたエビとアボカドのサンドイッチを頬張る。スーパーマーケットで売っているマヨネーズ臭くてシナシナの野菜が入ったものとは大違いで、甘みの感じられるパンと大きな具のハーモニーは口の中に楽園を作ってくれているようで、美味しさを噛み締めた。自分は両親が50近くになってからの子どもだったので、社会人になってからすぐ、どちらも他界して何年も会社以外の人とご飯を食べていない。ああ、隣に誰かいたらなあ___そんなことをふと思ったが、出会いがあるわけでもなくきっと孤独な一生を過ごすのだろう。そんな予感がした。

サイクリングコースや人工的に作られた小川を横目に公園を散策する。

公園の奥には水が周期的に出てくる噴水がある。夏というのもあり、幼稚園児ぐらいから小学生が混じって遊んでいる。日に当たってキラキラ輝いている水に自分も混ざって遊びたいなどと思ったが、年齢不相応なことはできない。羨ましく眺めながら自動販売機で買った麦茶を飲み、パチャパチャと涼しい音を後ろに公園を去った。

帰りには家から少し離れたデパートでお惣菜を買って帰ろう、そう思っていた。

午後五時、いや、六時くらいだっただろうか。七時くらいだったかもしれない。暗くなっていたが夏だから時間ははっきりと覚えていない。日曜日の夜であるにもかかわらず車通りは少なく、ひっそりとしていたことは鮮明に覚えている。青信号のついた、片側3車線の広い幹線道路を曲がろうとした、その時だった。車の左側で、なんとも言い表すことのできない、鈍い音がした。曲がる直前まで目に入るものはなかった、あるいは街灯が少なくて暗かった、そう思いたかったし、そうであって欲しかった。また、そんなに重い感触ではなかったので猫かたぬきだろう。そう思った。

ハザードランプをつけて、急いで車を降りた。車の前には画面が粉々になったスマートフォンがあった。さらに前に行くと、、、今思い出すだけでも吐き気がする。そこには動物ではなく人間が横たわっていた。小さい子供なのだろうか、老人なのだろうか、途端に目の前がぼんやりしてきて、気づけば救急車とパトカーが私を囲んでいた。

後日、裁判が開かれることになった。私が轢いてしまったのは子どもで、中学一年生になったばかりだったそうだ。歩きながらスマホを見ていた彼は、車通りが少なく歩行者の信号は青だと思って渡ったのだろう。視界が悪く、周りには木が多く生えていたこと、子どもが信号を無視していたことから、私の方の非は少なかったが重い、重すぎる。私が何かしたというのだろうか。その日からは一度も車に乗れていない。

まだ27歳の自分が罪を犯したという事実が上書きされるということに体が押し潰されるようだ。

会社をクビになってしまうのだろうか。会社を辞めたとして、自分を雇ってくれる所はあるのだろうか?なんで自分がこんな目に遭わないと行けないんだ…過去を悔やんでもしょうがないと分かっていても、この不遇に耐えられない。何日も会社を休み、ついには自分から辞職願を出した。

もうすぐであの日から1年経とうとしている。抜け殻のような自分は、今まで使うこともなかった貯金を切り崩して生きてきたが、もう尽きる目の前まで来ている。

この1年間、何も考えられなかった。将来が暗いのはもちろん、自分が出かけなんてしなければ、と思う。今すぐ消えてしまいたいと何度思ったことだろう。だが、1人の命を奪っておいてこの世から去るのは身勝手なのかもしれない。そんなことを思うと何も出来ずにただ1日が過ぎるのを待つほかなかった…また、目を閉じれば明日がやってくる…こんな日がずっと続いている人生がまともなものと思えない。何もやる気が起きず結局は目を閉じて太陽が登ってくるのを待つのみであった。

うっすら目を開けると、日が差しているのがわかる、キジバトの鳴き声が聞こえる、頬を風がよぎる___ここでふと、違和感に気づく。部屋にいるのに風をなぜ感じるのか。慌てて目を大きく開くと、見知った公園にいた。なぜ?酔っ払って勝手に体が動いたのか。とりあえず家に戻ろうと立った時、目線が低い。四つん這いだからちゃんと立ててないのかもしれないと思い、足に力を入れるが目線も何も変わらない。四つん這いのままコンビニのガラスにうつる自分を見てやっと気づいた。自分と同じ目の高さにいるのは犬であった。片耳が垂れた、薄い茶色で、柴犬なのか雑種なのかわからない、人間の自分とは似ても似つかない犬そのものだった。

あぁ、夢を見ているんだ、いや、そうとしか考えられない。だが、足に触れる地面や風、目に映るのは現実そのものである。過去の自分から決別できるなら夢でもいい__そう強く思った。

犬になったのはいいものの、ここからどうすれば良いのかはわからないしこうすればよいという正解もないだろう。そうだ、人間だった自分はどこへ行ったのかが気になり住んでいたアパートに向かったが、もちろん鍵は空いていないしカーテンは閉まっている。どうにかして中を見るためにポストをめくって中を見るともぬけの殻になった布団が見えた。人間からそのまま姿が人間じゃなくなっただけなのか…実体がなくなって少し安心している自分がいる。

しかし安心したのも束の間、「ん?このアパートに犬飼ってるやつおったか?」と声がしてポストをのぞいているところを見られたかもしれない、と走り出そうとした瞬間、体が持ち上げられて自分の部屋の二つ隣に住んでいる歳を召したおじさんの顔が目の前にぬっと現れた。「お前、この辺の顔と違うな。」

「なんや、お前一人か、お腹空いてんちゃうか。」と急だがアパートの一階に隣接する草むらに連れて行かれ、生肉を食べさせてもらった。なんの抵抗もなく生肉が腹に入っていくことに違和感を覚えつつ、人間のモノになってたまるかと逃げようとしたがそううまくは行かない。

「知り合いにいっぱい犬飼ってるやつがおんねん、連れてったるよ。一匹増えたところで変わらんやろ。」

無茶な…と思ったが、犬だから何も言えず、車に乗せられた。誰かのペットの犬として生涯を終えるのも悪くないと思ったのも束の間、おじさんは広々とした家に車を停めた。インターホンを鳴らして出てきたのは同じくらいの年齢の夫人で、片腕にはチワワが抱かれていた。

何やら話しているのが見える。片腕に抱いたチワワは目をむき出しにしてギャンギャンこちらへ向いて鳴いている。しばらくするとくるりとこちらに顔を向け、婦人が近づいてきて私の顔を見ておじさんにこう言った。

「私の知り合いのご子息で犬を飼おうか迷っている方がいるの。一旦うちで預かるから、連絡してみるわね。」

地獄というのは、この世の中自体なのかもしれない。

連れて行かれた家は、なんの変哲もない一軒家で、子供がいるのか駐車場の横には少し小さいものと合わせて3つの自転車が置いてあった。子どもの成長を見ながら暮らし、子どもが独り立ちしてしばらくして息を引き取る___なんて素晴らしい人生設計だろう。犬になるのも悪くない。しかし人生、いや、犬生、、は甘くない。過去を忘れ、飼い主が現れるのを待ち遠しくしていたその時だった。

かちゃりと玄関の鍵が開いたのがわかる。やっと新しい家族に仲間入り…!

玄関のドアから出てきたのは、痩せ細って顔色の悪い女の人だった。30代くらいに見えるが、実際はわからない。

それ以前に、自分は出てきた人に愕然とした。見知った人である。神様がいるならきっと私の運命をゴミ箱に捨てたに違いない。そう、彼女はあの日、子どもが運ばれた病院の霊安室で立ち尽くしていた人であった。

結局引き取られることになってしまい、言葉が通じない代わりに大きな声で鳴いて反抗の意を示そうとしたが、

「元気でいいわね、ずっと寂しかったから…」

と言われ、居た堪れない気持ちになって黙るほかなかった。

犬としての一生の妄想は儚く散り、結局過去に囚われて生きていくのかと犬ながらも絶望した。いっそのこと消えたい、再びそんな思いがよぎったが、子どもを亡くした上に犬までも亡くしたらこの夫婦はどうなってしまうのかと考えて首を振った。自分には死ぬことも生きることも許されていない。

姿が変わったことは生まれ変わった、つまり過去の自分が死んだと言ってもいいだろう。

だが、過去の自分が死んだとて今の自分に明るい未来は残されていない。

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