沈黙、そして共鳴

りりあに

沈黙、そして共鳴

 寒さがビルの隙間を吹き抜け、暗く冷たい夜の帳が街に降りてきた。通りを行き交う人々の顔には無表情が張り付いていて、殺伐とした重苦しい空気が街全体に漂っている。ビルの谷間にひっそりとたたずむ古びたレストランの重厚な扉を開けると、古ぼけたベルの音が乾いた音を立てた。


 ユイとニナは店の片隅の薄暗いテーブルに座って、重たいコートを脱ぎ捨てた。二人の姿には、長い一日の疲れと言葉にできない思いが表れている。ユイはじっとメニューを見つめ、まるでそこに書かれた文字の奥にある何かを探し出そうとするかのようだった。一方、ニナは店内の空気を感じ取るように、目を細めて周囲を眺めている。


「ここも変わったね」


 ニナがぽつりと呟いた。


 彼女の声は、かすかに掠れていて、まるで時間の経過にすり減らされたようだった。店内は以前よりもさらに古び、あらゆるものが色褪せている。壁紙は剥がれかけ、テーブルや椅子も長年の使用で磨り減っていた。かつてこの場所にあった温かな雰囲気もまた、冷え切ってしまっているように感じられた。


「何も変わらない場所なんてないよ」


 ユイの淡々とした言葉には冷静さがあったが、その奥には諦念のようなものが含まれていた。


 二人はこの場所に何度も足を運んできた。かつては自分たちにとっての一時的な避難所のような意味を持っていたが、今ではその役割さえも失われているかのようだった。


「なに頼む?」


 ニナが再びメニューに目を落とした。


「いつものようにシチュー?それとも別のにしてみる?」


 ユイは短く息をついて、メニューを閉じた。


「なんでもいい。ただ温かいものが飲みたい。それだけ」


 ウェイトレスがやってきたとき、二人はシチューとホットワインを注文した。ウェイトレスは無言で注文を取り、何の感情もなくその場を去っていった。その背中を見送りながら、ユイは視線をぼんやりとテーブルの表面に落とした。傷だらけの木製のテーブルには、過去にここを訪れた多くの人々の痕跡が残されている。彼女たちもまた、ここで何度も過去の痛みや喜びを共有してきたが、その記憶は今、どこか遠いものに思えた。


「私たち、こんな場所にいつまで来続けるの?」


 ニナがぽつりと言った。彼女の言葉には、疲労と苛立ちが混じっている。


 ユイは軽く肩をすくめた。


「わからない。ここに来ること自体が何かの証明になっているのかも。ただ、生きているってことの……」


「生きているってことの?」


 ニナは苦笑した。


「それに何の意味があるっていうの?ただ過去にしがみついているだけって思うこと、私はあるし」


 彼女の言葉は、店内に漂う湿った空気のように重く響いた。二人が過ごしてきた時間は、彼女たちに多くのものを与えてきたが、それと同じくらい多くのものを奪っていったから。そして、彼女たちの関係もまた、その中で変わり続けてきた。


「それでも、ここに来るたびに感じるものがあるはずだよ」


 ユイが言った。


「たとえそれが虚しさであっても、それは私たちがまだ何かを感じることができる証拠なのよ」


 ユイが続きを吐いたとき、ウェイトレスが戻ってきて、ホットワインとシチューをテーブルに置いた。立ち上る湯気が、冷え切った二人の身体にほんの少しの暖かさをもたらした。ユイは手をカップに添え、その温もりを感じながら目を閉じた。


「どうして私たち、こんな風にしてまで、生き続けているんだろうね?」


 ニナが言った。その声には、日々の生活の中で感じる疲労が滲み出ていた。


「ただ、生きるしかないのよ」


 ユイは短く返す。


「理由なんてない。ただそれだけ」


 彼女たちは黙々とシチューを口に運びながら、その温かさに一時的な安らぎを感じていた。しかし、その安らぎは長続きしなかった。


 温かなシチューの味は彼女たちの疲れた体を一時的に癒やすかのように思われたが、その感覚もすぐに消え去って、再び冷たい現実が二人を包み込んだ。


 ユイはスプーンをテーブルに置き、微かなため息を漏らしていた。彼女の目は当てもなく遠くを見つめているようだった。その目には、これまで耐えてきた無数の瞬間が宿っているようであると同時に、その先にある不確実な未来への重圧が見え隠れしていた。


「ニナは今、何か感じてることある?」


 ユイが突然、抑えた声で尋ねた。その言葉は重く、静かな店内に落とされた。彼女は何かを掴みたいという願望を秘めた声で問いかけたが、その一方で答えを恐れているようにも思えた。


 ニナは、しばらくスプーンを皿の中で動かし続けていたが、やがてそれを置いて顔を上げた。彼女の瞳は深く、暗い海のように静かで、底知れない思いが詰まっているようだった。


「感じること……正直、もう何も感じない時は……あるよ」


 ユイは頷きながら、冷たい指先をホットワインのカップにそっと押し当てた。


「同じだね。何かを感じようとすればするほど、空っぽの感覚ばっかり広がるの。でも、それが私たちの生き方なのかな。何もない中で、ただ感じないことが唯一の安らぎ」


 ニナはその言葉を聞いて、ゆっくりと微笑んだ。だが、その笑みは苦々しさを含んでいた。


「そうかも。でも、それでも私たちはこうして会いに来るでしょ。それで、また同じように、何も感じないままに帰っていく。奇妙な反復だけど、私たちにとっては何か意味があるんじゃないかな」


 二人はしばらく黙っていたが、その沈黙は決して心地よいものではなく、大きな倦怠感を伴っていた。ビストロの中には他にも何組かの客がいたが、彼らの姿はまるでぼやけた背景の一部であり、ユイとニナの存在を強調する存在でしかなかった。


「本当に、ここに来ることには意味があるの?」


 ユイが再び問いかけた。その声には疑念と不安が混じっていた。


「こうしている時間は、私たちの人生に何かをくれたことあったっけ?」


 ニナはユイの質問に、すぐには答えなかった。彼女は、手元にあるニンジンの欠片をじっと見つめながら、ゆっくりと口を開いた。


「意味なんて考えるだけ無駄かもしれないね。意味があるかどうかなんて、私たちには判断できないよ。たぶん、私たちがしていることは、ただの習慣に過ぎなくて。でも、その習慣がなければ、私たちは何もできなくなってしまう。習慣があるからこそ、私たちは生きてる」


 ユイはその言葉を聞きながら、静かに息を吐き出した。


「そうだね、たしかに。ただ、繰り返すだけ。それが唯一、私たちに残された選択肢なのかもしれないから」


 二人は再び食事に戻ったが、味わうというよりも、ただ口に運ぶだけの作業となっていた。シチューの温かさも、ホットワインのアルコール度数も、二人にとってはもう重要ではなかった。求めているものは、ただ日常のテンポの中に身を委ねること。それ以上の何かを探す気力は失われていた。


「ユイ……この先、何を望んでいるの?」


 と、ニナが唐突に問いかけた。その問いは、まるで彼女たちの習慣的な対話から飛び出してきた異物のように、場に不自然な緊張感をもたらした。


 ユイは一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに眉をひそめ、深く考え込むような表情を浮かべた。


「望んでいること?」


 彼女はその言葉を反芻しながら、言葉を慎重に選んだ。


「私は……もう何も望んでいないのかもしれない。願うこと自体が無駄だと思ってる。何を望んでも、その結果が私たちに何かを与えることなんてないから。ただ……望むことをやめたら、少しは楽になるんじゃないかって」


 その答えを聞いて、ニナは微かに頷いた。


「私も同じような気持ち。何を望んでいるかを考えれば考えるほど答えは遠ざかってく。私たちはただ、この先も生き続けるんだ。それ以上でも以下でもない」


 ユイはニナの言葉に耳を傾け、頷きながら静かに微笑んだ。


「そうだね。それだけで十分なのかもしれない。少なくとも、今は」


 店の中の時間はゆっくりと流れていく。二人は互いに向き合いながら、静かにカップを手に取った。


 レストランの空間は相変わらず冷たいが、その中で二人だけが、どこか別の世界にいるような感覚を抱いていた。


 外の世界がどう変わろうとも、彼女たちはこの場所で一緒に過ごし続けるだろう。


 理由や意味を求めることなく、ただその瞬間を共有するために。

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