第35話 オペラ

 炎は消えたが、クロスの体からはまだ煙が出ている。


「オペラ……オペラ……」


 黒く焼けたその塊を抱いたまま座り込んだクロスの横にヘルメが立った。


「それは……オペラ?」


「うん、オペラだ。僕が駆け付けた時はまだ生きていたんだ。入ろうとしたら屋根が崩れて助けられなかった……ごめん、ごめんオペラ」


 ヘルメがクロスの腕からオペラを抱き上げた。


「ヘルメ?」


「オペラは無理です。しかしマカロは急げばまだ間に合う」


 そう言うとヘルメは焼けただれたオペラの腕を無理やり広げた。

 辛うじて形を成していたオペラの腕が灰のように崩れ落ちる。

 すると顔や胸はきれいなままのマカロが目を瞑っていた。


「おそらく気を失ったまま、魂が抜けた状態ですから大丈夫」


 ヘルメはマカロの体を高く持ち上げ、天に向かって言葉を発した。


「戻れ。お前の体はここだ! マカロ! 戻ってこい!」


 次の瞬間、マカロの体がずしっと重みをもった。


「よし……後は手当だ。アテナ、頼む」


 アテナがひゅっと現れ、頷くやいなやマカロの体を抱いて消えた。


「クロス、立てますか? 父上と母上が来ておられますよ」


「え? そうなの?」


 立とうとしたクロスが枯れ木のように倒れた。


「あれ? 体が動かないや……どうしたんだろ」


 ヘルメがクロスを抱き上げた。


「今は人間並みの体力しかないですからね。いわゆる火事場の馬鹿力というやつです。限界突破したのですよ」


「ははは……夢中だったからわからなかった。オペラは?」


「オペラは冥王ハデスに委ねましょう」


 ハデスが黒焦げになったオペラの亡骸を抱いた。


「この者は私が責任をもって預かるよ。心配するな、必ず復活させる」


「うん、おじさん。お願いします……お願いします……こいつって本当に良い奴なんだ。自分は食べなくても母親と弟には食べさせるような奴でさぁ。僕の手伝いも一生懸命にしてくれてさぁ。自分も辛いのに、困った人を見ると手を差し伸べてさぁ……オペラ……オペラ……助けられなくてゴメン。死なせちゃってゴメン。君の最後の言葉は絶対に忘れない」


 ヘルメが幼子のように泣きじゃくるクロスに聞いた。


「オペラは最後になんと?」


「僕は大丈夫だからクロスは早く逃げてってそう言ったんだ……体中を焼かれながら必死でマカロを守ってた。僕を見てニコッと笑ったんだよ、オペラは」


 ハデスの目が真っ赤になっている。

 マカロを守るために必死で地面を掘ったのだろう、残った腕の先には剝がれた爪の代わりに白い骨が覗いていた。

 その生木を裂いたような細い指を見ながら、ハデスが地響きがするような低い声を出す。


「許さん。絶対に許さんぞ、ルシファー」


 ハデスの神が逆立つように天を突いた。

 クロスを抱いたまま広場へと歩き出すヘルメを囲む神々の髪も、ヘルメと同じように逆立っている。


 燃え残った瓦礫が集まる広場の中央には、聖なる泉の水玉に閉じ込められたルシファーが、憤怒の顔でゼウルスとヘレラを睨みつけていた。 

 その視線を涼し気な顔で受けている二人を神々が取り囲む。


「揃ったか? これほどの顔ぶれは千年ぶりだな」


 ゼウルスの声が雷を呼ぶ。

 人の気配がなくなった広場に、大粒の雨が降り注いだ。


「ルシファー。随分とみすぼらしい姿になったではないか」


 聖なる泉の聖水の中で真っ黒な粒子の塊が揺れた。


「なぜ市場を燃やした? お前には何の得もあるまいに」


 黒い粒子の塊の中心が青く光る。


「ここを燃やしたのは宿主との契約だ。俺は体が死んで漂う魂を喰らうつもりだった。まさか冥王ハデスが回収に乗り出すとはな」


「なるほど。しかし宿主は燃え尽きて死んだのだろう? 焼け野原にする意味がないじゃないか」


「それは関係ない。奴はこの市場周辺を更地にしたがっていた。そしてここを燃やすことを望んで俺と契約を結んだ。それだけだ」


「ふんっ、下らん取引だ。まあ契約は履行されたということだな。ではお前は今、何も契約を持っていないということになる。違うか?」


 ゼウルスの言葉にルシファーは返事をしなかった。

 アプロが広場中央に残っていた瓦礫を一気に持ち上げて、海に捨てた。

 市場の中心に立っているのは、オペラの亡骸をかかえた満身創痍のクロス、そしてゼウルスとヘレラ夫妻だ。

 少し離れたところで宙に浮いているのは、聖水の中に囚われているルシファーだ。


 医療神アスクレは教会の聖堂で、怪我人の手当を行っていた。

 じっとルシファーを見つめていたヘレラがぽつっと言う。


「やっかいね。ルシファーのあの炎は聖水では消えないわ」


 ゼウルスが聞く。


「聖なる泉の水でダメとは……まさか」


「ほら見て? 青い炎の中心に金色が光ってるでしょう? あれは神の残り火だわ。何処のどいつが差し出したのかしら」


 二人の会話を他所に、クロスは黒こげのオペラを撫で続けている。

 ヘルメの纏っていた服は焼け落ちて、生まれたままの姿となっているが、まったく気にもしていない。

 もともと神界では全裸が当たり前なので、その場の神々も違和感を抱いていない様子だ。


「巨岩になった誰かでしょうね。今更犯人を探しても意味はないけれど」


 マカロを教会に運んでいたヘルメが戻ってきた。


「生存者は全員保護しました。ここは一度全てをリセットせねばならないでしょう。どこにあのクソ野郎の粒が潜んでいるかわからない」


 その声を聞いたアプロが一歩前に出た。


「一応生存者がいないか全員で確認してくれ。いないならすぐにでも一掃しよう」


 神々が頷いてじっと目を瞑った。

 自分の精神を細い糸にして飛ばし、あらゆるところに潜り込んで生存者を探している。


「いないみたいだな。では父上、掃除を始めます」


 ゼウルスが頷いた。


「ああ、教会は残せよ? それと市場の敷地以外には手を出すな」


「畏まりました」


 アプロが高く舞い上がると、マルスとアテナとヘルメも後に続いた。


「真四角なんだな。巨大な広場ができそうだ」


 そう言ったアプロの号令で、四人の神が一斉に神力を放出した。

 すると、まるで切り取られたように正方形の土地が石畳ごと宙に浮き上がる。

 つい今朝方まで営まれていた人々の生活の欠片が舞い上がり、ゆらゆらと揺れていた。

 

 クロスとヘルメが贔屓にしていた串焼きやの屋台も、ロビンが一生懸命に手伝いをしていた野菜売りの屋台も全てが無かったことにされようとしている。

 オペラがクズ野菜を貰い歩いていた食堂街も、ルナが何年かぶりに洋服を買って貰った店も全部が消え去ろうとしているのだった。


「太平洋のど真ん中に落とそう」


 四人は呼吸を揃えて瓦礫の山を吹き飛ばした。

 ゆっくりと揺蕩うように空を飛んでいく黒い瓦礫に全員が注目した瞬間、聖水の中で蠢いていたルシファーがヌルッと動いた。

 誰にも気付かれないように、徐々に位置を変えていることに気付いたものはいない。

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