放課後、図書室、夕焼け時【1話完結】

ますぱにーず/ユース

放課後、図書室、夕焼け時

 放課後、俺は校門へ向かう他生徒の人流に逆らいながら図書室へと足を運ぶ。


 この学校の図書室は、利用者が多い訳じゃない。教室1つほどの大きさで、こじんまりとしてる。


 図書室の前で立ち止まり、扉に手を掛けて、右にスライドさせる。


 大きなデスクトップPCとモニター、キーボードや名簿などが綺麗に置かれた受付。そこから左に目をやると、整えられた綺麗な本棚が目に入る。


 そして、読書用スペースに置いてある机に腰かけた、一人の少女。

 透き通るような白い髪が、太陽に照らされている。


 本を読まず、ただ誰かを待っているように遠くを見つめていた彼女が俺に気付くと、机から降りてこちらに向かってくる。


「やぁ、響谷くん。今日は少し早いね。HRが早く終わったの?」

「あぁ、まあそんなところだな」

「ふ~ん」

「興味なさそうだな、シズク」

「だって実際、興味ないしね」


 そう言って、俺の体を貫通して、後ろにある本棚を物色し始めた彼女の名前はシズク。…幽霊、らしい。


「…なぁ、せめて迂回してくれない?」

「えー、こっちの方が早いしいいじゃん」

「…はぁ、もういいよそれで」


 シズクと会話をしながら、読書スペースの椅子に座って、机に突っ伏す。


「…図書室にきて第一にすることがそれって、どうなのさ」


 俺の行動を見て、呆れたようにそう言うシズク。


「図書室に居るのに本を読んでないシズクには言われたくないな」

「私はもう、ここにある本を全部読みつくしたからさ、同じ本を読んでてもつまらないし」

「本屋行って新しい本でも見繕ってきてやろーか?」

「お、いいね」


「…んならリクエスト」

「え、なんで?」

「つまんない本買ってきたらどうすんだよ、好きな本のジャンルを教えろって言ってるんだ」

「何でも良いけどなぁ。でも、ラノベとかは見てみたいかも。数少ないんだよね、図書室にあるラノベ」

「…まぁ、そうだな。検討しとく」

「重ねたり加速させたら駄目だよ?」


 …どこの総理大臣の話してんだ。


「…はぁ」

「…なんかさ、今日響谷くん疲れてるよね」

「あぁ…まぁな」

「なんかあったの?」

「…両親が蒸発した」

「…はぇ?」

「だから、両親が蒸発した」

「………安易に聞いた私が馬鹿だったかもしれないね」

「いや…別に」

「…君も幽霊こちら側になってみるかい?」

「甘美なお誘いだが丁重に断るわ」


 俺がそう言った後、ゆっくりと目を閉じると、不意に後ろから頭を撫でられる感覚がする。


「…ごめんね、私はここから出られないからさ。…君の為に、私が何かをするのは難しい。…だけど、話したいなら、言いたいなら、いつでもここに来てくれていい。…なんて、君には余計なお世話だったかな?」

「…何もなくても、ここには来るぞ」

「ふふ…それでもいいさ。来たいと思ったら、ここに来ればいい。もっとも、こうして話せるのは放課後のみだけどね」


 正直、俺は引きこもっていてもいい。

 俺が学校に来る理由は、ここの図書室で、シズクと時間を潰すためだから。


 暫くシズクに頭を撫でられた後、ふと顔を上げて時計を見てみると、もう完全下校の時間になっていた。


「…おっと…そろそろ時間みたいだ…」

「…分かったよ、それじゃあ俺は帰る」

「あぁ、またね響谷くん。ラノベ、楽しみにしているよ」

「はいはい、またな」


 そう言って、俺は図書室を出て、学校から家路を辿る。

 まあ、正直戻りたくは無い。ただ、そこ以外に帰る場所もない。不可抗力と言うか、仕方なくと言うか。俺はその家に帰らざるを得ない。


「…ただいま」


 久しく言う事もなくて、忘れかけてた言葉を、不意に口から零す。

 返答は返ってこなくて、余計に虚しくなるだけなんだがな。


 家に帰って、着替えもせずに自室のベッドに仰向けに飛び込む。


「…両親はともかく葵まで…」


 なんで、なんだろうな。

 …まあ、葵は俺の口座に今も入金したりしてくれてるし、またふらっと戻って来るだろ。


「疫病神なのかね、俺って。…そんなわけないか」


 少なくとも人間は神にはなれないだろうしな。…じゃあ、シズクあいつは?


「…はぁ、やめだやめ」


 意味ないだろ、こんな事に脳のリソースを割くな。

 …それにしても、もう1年近く経つのか。シズクと会った日から…、時間が経つのって結構早いんだな。


 何の意味もなく、ただ自分だけの居場所を求めて立ち入った図書室で、まさか幽霊に会うなんて予想もしなかった。

 シズクと会う度、砕けた話し方になって、それに見合うくらい仲良くなって。…図書室に入って、俺と彼女だけの時間を過ごして…。


 …自分だけの居場所が欲しかった…はずだったんだがなぁ。


「…ラノベ…買い行くかぁ」


 立ち上がって私服に着替えた後、制服を洗濯機に突っ込んで家を出る。


「…近場の本屋ってどこだろ」


 外出なんてまともにしていない。基本は家と学校の往復だけだから。


 スマホで最寄りの本屋を検索して、その表示通りに道を辿る。



 本屋の中に入って、柱に書かれた案内を頼りにラノベのコーナーへと向かう。


 何も考えずに、取り敢えず1、2冊ラノベを手に取ってレジに向かう。

 その2冊を購入した後、俺は来た道を逆走して家へと帰る。


「…てか、冷静に考えたらラノベを買った理由が幽霊に読ませるためって、結構…やばい奴だな」


 まあ、いいや。



 翌日。いつも筆箱すら入れない鞄に、本一冊を入れて図書室に向かう。

 …本一冊は軽いはずなのに、鞄越しには妙に重い。

 何時もの様に、図書室のドアを開けようとすると…。


「…開かない」


 …誰か悪戯したのか?

 そんな事を考えていると、扉が勝手に開く。


「響谷くん。今日って本当は図書室開いてない日なんだよ?」

「…だから何だ?『何もなくても来たらいい』って言ったのはシズクだろ」

「あはは…怒られても知らないよ」

「別に、どうでも良い」

「退学になったらどうするの?」

「シズクと俺が孤独になるだけだ」

「いやだなぁ、孤独になるのは響谷くんだけだよ。…図書室ここに来るのは別に君だけって訳じゃないんだしさ。ここに来た人たちで暇潰しくらいできるし。楽しいかどうかは別としてだけど」


 …まあ、そう言われればそうかもな。


「まぁ、君がこの学校の在校生の内は、私は退屈しないだろうけどね」

「俺は孤独になったら即死かな…多分誰も悲しまないだろうし」

「じゃあ、そうなっても良いように未練は今の内から消しておかないとね」

「…俺に未練ねぇ、あるのかな」

「…人は死に際になって、初めて未練を感じるのもなんだよ」

「それは実体験?」

「さぁ、どうだっただろう?」


「そうだ、ラノベは買ってきてくれたのかい?」


 俺はシズクから投げかけられた疑問を、鞄から取り出したラノベをシズクに差し出すことで回答する。


「…これ、図書室にあるやつだ」


 …まじか。


「…だからリクエストしろって言ったんだよ」

「いや、いいさ。これで良いんだよ」

「…なんでさ」

「君がくれた。…それだけで、この本には図書室の物よりも価値がある。そうは思わない?」

「思わない」

「…まぁ、君がくれたものに私が勝手に価値を感じてるだけさ。変に共感しようとしないのもまた、君らしいと言えばらしいのかもね」


 そんなことを言いながら、シズクはペラペラとページをめくっていく。


「そのスピードで読めてるのか?」

「うん。私はこう見えても速読が得意だからね」

「へぇー」

「…まぁ、その所為でこの図書室の本全部読み終わったんだけど」



 ある日の事。


「時に響谷くん。幽霊が何故生まれるか知ってる?」

「さぁ」

「即答…もうちょっと考えて答えてよ」

「嫌だ。…で、答えは?」

「この世に未練があるから…なんだってさ」

「へぇ。じゃあシズクにも未練があるのか?」

「…ん~…どうなんだろ。あるのかな、私に未練って。なんだと思う?」

「本人が分からないならなんとも」

「だよねぇ~」

「…で、なんで急に?」

「…いや、さ。流石に、おかしくないかなって。未練を果たすために幽霊になったはずなのに、自分がその未練を忘れるのって」


 ああ…まあ確かにな。


「…死に際に感じた未練とか、ないの?」

「う~ん…あったっけなぁ…。…まあ、別に成仏したいわけじゃないんだけどさ」

「一応知っておきたいって?」

「そうそう…。…君がさ、この高校を卒業したら…私はどうしてると思う?」

「…無理だろ。留年しまくって強制退学が関の山だ」

「ふふっ、それもそうだね。…でも、結局はいつか、この時間にも終わりが来てしまう…この時間の終わりに、私と君は未練を残せるのかな?」

「…また、壮大だなぁ」

「そうでもないよ。…お互いに、未練があるのなら。いつかまた、惹かれ合うさ」


 …だと、いいな。


「…あぁ、そっか。…終わるんだなぁ」

「永遠に続いて欲しいけれど、つくづく世の中は理不尽なものだ」

「…そうだな」

「君が幽霊になれば、それこそ永遠に続く時間なんだけどね」

「俺は幽霊にならないよ。この世界に残ってる未練なんか無いしな」

「…そう、かい」

「俺はシズクに…何も求めてない、だろ?」

「それは、どうかな?」

「…?」


 ………。


「君は私に、本当に何も求めていないというのなら、私に関わったりしないんじゃないのかい?」

「…」

「…教えて欲しい。君が望むものを、私に残す未練を」

「教えないよ」

「それは何故?」

「…『未練があるのなら。いつかまた、惹かれ合う』…そうだろ?」

「ははっ、それが君の求めている事か」

「…そうだな」

「…終わりに未練を残して、引き合った未練からまた始まる…ロマンチックだね」


 …そんな、ロマンチックじゃないと思うけどな。

 独りになるのが怖いからかもしれない。たとえ幽霊だとしても、孤独を紛らわせることはできる。

 そんな…ただのエゴだよ。


「まぁ、君のそれがエゴだろうが、ただのロマンチストだろうが、ぶっちゃけ私にはどうだっていい。君と私は、この時間を終わらせたくない、その全会一致で間違いないかい?」

「まあ、全会なんて言う規模じゃないと思うけどな」

「…そうだね。…って、もう時間かぁ…」

「…今日は若干長かった気がするな」

「そうかい?…そうかもね。世界もきっと、私達の時間が終わることを嘆いているのではないかな」

「どうだか」

「…まあ、世界がどうとかどうだっていいさ。響谷くんがまた、ここに来てくれるだけで私は満足だからね」

「そう」

「…私さ―――いや…ううん、この話はまた明日にしよう。あんまり長居するのも良くないからね」

「…もう泊って行こうかな」

「締め出されても知らないよ」

「いや、冗談だよ、帰る。じゃあな、また明日」

「うん」



 …時々、思う。


 もし私が、響谷くんと人間だった時に出会っていたら、って。

 自由に行動できる幽霊もいるにはいるみたいだけど…、生憎私は地縛霊みたいな者で、この図書室から抜け出すことはできない。


 それに、人間だったころの記憶だって曖昧だから、私はここと、ここの窓から見える景色以外に世界を知らない。

 …井の中の蛙大海を知らずとはきっと、こういう事を言うのだろう。

 自分を蛙に例えるのは些か不服だけど。


 響谷くんだって、私に外の世界を教えてくれたりはしない。まあ、別にそれでもいい。百聞は一見に如かずと言うが、裏を返せば百を知れば一を見る必要は無いと言う事。

 十も百も千も、図書室には詰まっている。


 …だけど、考えてしまう。もし自由に動ける体があって。

 響谷くんとどこに行きたいか。

 そこで、どんなことをしたいか。


 この思考に響谷くんが出てくるのは、多分私の知る人間が響谷くんしかいないからだろう。誰でも良いのだ、多分。

 …だけど、響谷くんとどこかに行く、そんな妄想をしているときは、時間の流れが速く感じたりすることがある。


 妄想して、妄想して、妄想して、気が付けば、響谷くんが図書室に来ている。

 1日3食の代わりに、私は妄想をしないと気が済まないのだろうか。


 西側の窓から差した月明かりが、透き通る私の体を貫通して、本棚を優しく照らす。


 太陽の様な燦々とした光はいらない。優しく静かに照らしてくれる月明かりでいい。


 私にとってそれが、響谷くんだっただけの事。

 ただ退屈を紛らわしてくれる。私の話を聞いて、会話してくれる。

 消極的で、それでいて持続する、月明かり。


 真っ黒の夜空に、白い月がぽつんと浮かぶ。月はまるで、私の髪の様に白い。


「…改めてみると…結構綺麗…」


 もうここで、かなり長い時間を過ごしてきたと思う。

 …どの生徒が、いつどの席に座って、どんな本を読んでいたか。

 そういうことも、何となく頭の中に入っている。


 肝試しに深夜に図書室に来た生徒もいたっけ。

 …そんな過程で生まれた怪談も、今はもう風化して土の下に埋まってしまった。


 ここに来るのは、新学期ごとに点検に来る一部の教師しかいない。

 …例外が一人、居るけれどね。


 幽霊が生まれるのが未練でも、現実と繋ぎ止めるのは未練ではない。

 幽霊にも、人間と同じで有限の時間があって、繋ぎ止める力が、未練ではどうしようもない事を知った。

 外見が変わらず、実感がないだけ。刻一刻と、制限時間は迫ってきている。

 焦りや不安なんて、感じていない。

 だけど、寂しい。

 いつか響谷くんと会えなくなってしまう事が。


『終わりに未練を残して、引き合った未練からまた始まる』


 私はそう言ったっけ。…待てるかな。未練が引き合って、0が1になる瞬間を。

 決して、満足しきってはいけない。そうしたら、引き合う未練すらも残せぬままになってしまう。


 ふと、もう一度窓の外を見る。先ほどよりも沈んだ位置にある月が、まだ空にぽつんと浮かんでいる。

 もし、あの空に浮かぶ月に感情があるとしたら。

 感じているのは、退屈や孤独なのだろうか。まるでいつかの日の私をそのまま映しているみたいだ。

 月なら世界を、私なら本を。知り尽くして、つまらない。

 繰り返し、繰り返し、何度も、幾度も、感じた、見た、そんな光景に頭がおかしくなりそうで。

 訪れた、満たしてくれた変化さえ、少しずつ頻度が減っていく。

 いつからか見える景色は、埃を被っているようで。


「…そんな風に、見えているのかな」


 いつも、いつまでも、片時も手放したくない。今の私には、そんな人がいる。

 私に残った時間は、あとどれくらいだろうか。


 何となく、限界を感じ始めている気がする。


 後何回、響谷くんに『またね』と言えるかな。

 最期は『さようなら』だって、分かっているけれど、いざその時が来たら、私はその言葉を言える気がしない。

『またね』そう言って、扉から外へと出ていく響谷くんを、私は後何回見れるだろう。


 月はビルの間に沈んでいって、今度は地平線に沈んでいった。

 東側から、段々と青い空が広がり始めて、図書室にも聞こえるくらいの喧騒が学校中を包み始める。


 やがて、鐘の音でその喧騒が鳴り止んだり、また始まったりを7回くらい繰り返す。その後に、図書室の管理をする先生が扉を解錠して、戻っていく。


 その数分後に、響谷くんはいつものようにこの場所にやってきた。


「やぁ、響谷くん」



「…シズク、なんでそんなアンニュイな表情してるの?」

「えっ?」

「いや、『えっ?』じゃなくてさ」

「…いや、私は後何回、君に『またね』と言えるかなってさ」

「さあ、何回なんだろうな」

「…君は、私の最期に涙を見せてくれるかい?」

「…どうだろうな」

「私はさ、なんとなく気が付いたんだ。『もうそろそろ、限界なんだ』って」

「…そう、か」

「怖いとか、不安とか、焦りとかは無くてさ。寂しいのさ。…君に『またね』を言えなくなってしまう事が」

「…その割には、声震えてないか?」

「……どうかな」


 …一瞬、シズクの目尻に涙が見えた気がした。気のせいかもしれない、だけど…。


「わっ…響谷くん?」


 優しく、シズクの頭を撫でる。


「…悪いな、泣きそうになってる奴を放っておけるほど、俺は悪人じゃないんだ」

「…それ、暗に私が泣きそうだったって言ってる?」

「そうじゃなきゃこんなことしないだろ」

「…そうだね。もう少しだけ、いいかい?」

「はいはい…」

「…こうして、終わりが見え始めてしまうとやはり…、噛み締めてしまうね。『いつもと同じように』って要求のハードルが、段々高くなってるように感じるよ」

「…そうか」

「最期には『さようなら』だよね」

「…『またね』で良いんだよ」

「え?」

「そうしたら俺は…未練が引き合って始まる瞬間まで待てるから」

「…っ」

「いつの日か、きっとまた会える。確証なんて、なくたっていいんだ。…『またね』って、そういう事だろ?」

「今、私たちに必要なのは『次に必ず会える確証』じゃなくて『また会えるかもしれない希望』だってこと?」

「…まあ、そういう事だ」


 …相変わらず、エゴまみれだな、俺は。

 自分が生きたいから、だから『またね』って言って、延命措置をして欲しい。って。


「…私もね、限界がいつ来るかは分からない」

「そうか」

「…明日かもしれない。来週、来月、来年かもしれない…でも、もうそろそろ限界なんだって事は分かるんだ。…もしかしたら、次の瞬間にはもう、事切れてるかもしれない。だから、だから響谷くんとは―――」


 ―――人として、出会いたかった。


「…二人で、いっぱい色んな所に行ってさ、楽しんで、疲れて、帰って、眠る…そんな事が、したかった」

「…シズク」

「…時間制限はもう、すぐそこまで来てるんだ」

「…そうか」

「…もっと、もっと、話したいことも、聞きたいことも、あったのにさ…本当、残酷だよね、世界って」


 一日に会える時間は、放課後のほんの50分前後。

 試しに、朝に行ったり、昼休みに来てみたりしたけど、シズクはいなかった。

 …いや、いたのかもしれないけど、俺には少なくとも会話も認識もできなかった。


「…俺、シズクがいない世界で生きて行けるかな」


 自嘲気味にそう呟く。


「できるよ、響谷くんならさ」

「…だと良いんだけどな」



 ……………。


 …シズク。






「…やぁ、響谷くん」


 扉を開けて、読書スペースに目を遣ると、前よりも少し透けて、薄くなっているシズクの姿があった。

『限界は近い』と告げられた日から、約一週間。…過ぎて欲しくは無いのに、時間は無慈悲に流れていく。


「…あぁ」

「…なんかさ、もう限界みたい」

「…見れば分かるよ」

「………これで、最期…かな。『またね』を言えるのは」

「…だから―――」

「ううん、言わせて。…言いたいの、最初で最期の『さようなら』を」

「…そうか」


 別れの時は、唐突に。


「君に、これ…返すよ」


 そう言ってシズクは、俺が買ったラノベを差し出す。


「…持っててくれよ」

「どうせ、持っては逝けないんだよ」

「…だとしても、それは最期までシズクが持ってろ」

「…そう、かい」


 シズクはそう言った後に、俺の背中にそっと手を回す。


「…すまないね、しばらく…いや…ずっと、このまま…」

「…ずっとは無理だろ…?」

「そうだね…世界は理不尽だ…本当に。私の我儘さえ、聞いてくれないのだからさ」

「…あぁ…もう………時間だ。…言いたくないな…君に」

「…言わなくても、いいだろ?」

「…君に、もう一度会える希望を、私に持たせるおまじないの言葉なんだろう?…だから、言わせてくれ」


 ―――またね、響谷くん。また明日。


 シズクがそう言うと同時に、背中に回した手を解く。


「…さぁ、お帰り、自分の家に」

「…あぁ…。…またな」



「……………そう、か…」


 もう、終わってしまうんだ。


 言ってしまった。最期の『またね』を。

 言わねばならない。最初で、最期の、『さようなら』を。


 響谷くんと過ごした、短くも、楽しい思い出。噛み締めるにはあまりにも、多すぎる。


 …時間は、待ってくれない。

 世界も、待ってくれない。


 哀れむように、私を照らす月明かりさえ、地平線の向こうに沈んでいく。

 夜が明けて、また喧騒が、学校を包み始める。


 …あぁ、どうしよう。


 …涙があふれてきた。


「…っ…ぅっ…」


 響谷くんから貰ったラノベを、胸に抱き寄せる。私の涙は、零れ落ちてもラノベを濡らすことは無い。綺麗なままのラノベだ。


 鐘の音が、残酷に、無機質に、時間の経過を知らせる。


 …そして…HRが終わった、鐘の音がした。


 ……………。

 聞きたくない。その声を。見たくない。その顔を。

 だって、そうしたら終わってしまう。

 でも会いたい。顔を見たい。声を聞きたい。


 図書室の扉が開いた音がした。目を向けてしまう。


「………、……シズク」


 響谷くんは私の名前を呼んで、少しづつ、私に歩み寄ってくる。


「…ありがとう」


 そう言って、私を抱き締める。その声は、震えている。

 私の肩に、響谷くんの涙が伝う。


「ひ、びや…くん…」


 響谷くんの背に手を回す。


 暫くして、お互いに離れる。読書スペースの椅子に座って、二人で向き合う。


「…思い出でも、話すか?」

「…そうだね」

「一番最初に、俺とシズクが出会った時さ。俺、どんな反応してた?」

「…困ってた、と思う」

「…だな」

「そのあと…私がおすすめの本教えようとしたんだっけ」

「いらないって言ったけどな。…でも、なんか居心地よくってさ」

「その日からだっけ、毎日ここに来るようになったの」

「そうだな…そしたら、何時の間にかシズクとも…こうやって仲良くなって…」

「…楽し、かったよね」

「…あぁ」


 色んな話をした。

 好きな食べ物とか、好きな生き物とか…。他愛のない話をして…最後には『またね』と言って…。


「…飛び切りいい思い出は、無かったな。全部月並みだったんだろうな、多分」

「…うん」

「でも…だからこそ全部特別だった」

「…うん…」


 月並みだから…だからこそ、大切だった。平凡で、ありふれていた日々が、私と響谷くんにとって、特別だから。


「…毎日学校に来て、授業には出なくてさ…。いつも放課後まで、教室でサボって…」

「ふふっ…そんなことしてたの?」

「あぁ」

「…これからはちょっとだけ、授業受ける気になったよ」

「なんで?」

「…だって、そのまま会ったらシズクに怒られるだろ?」

「当たり前だよ。…ふふっ…」

「どうした?」

「…少しは真面目になってくれて、私は嬉しいよ」

「…そう」


 時計の長針が、もうすぐ6を指す。

 …やっぱり、楽しい時間はあっという間だ。

 響谷くんをそっと抱き締めて。


「…響谷、くん」


 私の体が、夕焼けに消え始めていく。

 私は言いたくもない言葉を口にする。


 ―――さようなら。


 いつかまた、会う日まで―――。

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