鏡映し

@iNAT3710

鏡映し

どこかで聞いた話だが鏡は九割の光を反射して像を作っているそうだ。つまり一割の光は鏡に吸収されていてまったく同じに見えている自分自身も一割を欠いた姿だというのだ。小学生のころにそれを知ったときとても不思議に思った。消えてしまった一割はどこへ行ってしまうのだろうか。


とある夏の暑い日、俺はビデオレンタルの店に二時間遅れで出勤していた。

「彰君、今日で遅刻何回目か分かってるか?」

レジカウンターの奥からため息交じりの呆れたような声がする。店長だ。

「三回目ぐらいっすかね……?」

「はぁ…五回目だよ!?それも君がウチで働き始めてからまだ二か月しか経ってないよねぇ?別に君の代わりはいくらでもいるんだよ?これ以上遅刻するようならクビだね、クビ。」

店長の嫌みったらしい文句も聞き飽きた。正論でしかないから反論もできないのが質悪い。

「すんません、次からは気をつけます」

「はいはい、トイレ掃除ねー」

トイレ掃除か…はずれを引いたなぁ……


「代わりがいるんなら、代わってほしいっつうの……」

高校の成績は中の下、友達って言えるぐらいの交友関係はあるし家族との仲もそれほど悪くない、けして優等生じゃないが荒れているわけでもないそれが今の俺だ。それでも将来について漠然とした不安がある。

やりたいことがある人はいいなと思う。好きなものがあってそれにかける情熱があって努力して、対して俺はどうだろうか。音楽は好きだが自分でやるほどの熱量はないし、夢も展望も見つかっていない。


だからたまに思う。この退屈な日常を誰かに肩代わりしてほしいって。

そう思いながら手洗い場の鏡を水拭きしようと触れると声が聞こえたような気がした。

「俺が代わってやるよ」って。


目が覚めたときに俺はオレ自身を見ていた。それは友達がやってるゲームを隣で眺めているような、どこか他人事な感覚だった。

「店長さん、トイレ掃除終わりました。次は何しますか?」

ぎこちなく笑う俺がいた。

「おぉ早いな、次は返却カゴにあるやつを元の棚に戻しといてくれ」

「はい!」

店長は元気に返事をするオレに違和感を感じることなくカウンターの奥に引っ込んでいく。それにしてもいまいち状況が飲み込めない。今オレの身体を動かしているのは一体誰なんだろうか。二重人格?幽体離脱?どっちにしろオカルトな事に違いない。無数の可能性が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返すが答えを出すすべは今の俺にはない。


「俺は代わって欲しいと言いながら鏡を触った。あれが原因なのか…?」

しかし俺としては好都合なのかもしれない。夏休みも残り一週間、いつまでもこんな不思議なことが続くわけもないしこのもう一人のオレが残った宿題を片付けてくれれば楽できそうだ。

そう考え俺はもう一人のオレに身体を委ねることにした。

もう一人のオレは俺の記憶を持っているのか俺のやらなければいけないことを把握していた。宿題から友人との遊びの予定もしっかりとこなしていく。変わったのは立ち振る舞いだけで傍から見たら俺の性格が変わったように思われるだけだろう。なんなら今までよりも評判がよくなっていると思う。

「なんかお前雰囲気変わったな」

そう言ってきたのは中学生からの友達の裕二だ。裕二は俺と違って社交的で明るく誰とでも分け隔てなく接することができる。そんな裕二が言うんだから周りからはそう見えているのだろう。

「そうか?あまり変わってないと思うけどな」

オレはとぼけた顔でそう口にする。

「上手く言えねぇけどなんか口調とか変わってる気がして、彼女でも出来たか?」

「馬鹿、そういうタイプじゃないのは知ってんだろ」

「それもそうか」

オレが俺に成り代わってからもう三日間が経っている。初日に店長や母さんとの会話を聞いたときは別人が俺の皮を被って喋っているような違和感を感じていたが今は俺がもう一人いるようなそんな別種類の違和感を感じる。

そして、そろそろ自分が一体いつになったら戻れるのかという目を背けていた問題が浮かんできた。一抹の不安がよぎる一生このままなのではないかと、最初は数日たてば治ると思っていたがその根拠のない自信は一体全体どこから来たのだろうか。


このまま自分のものだったはずの人生をただ指を咥えてみていることしかできないのだろうか。皮肉なことに俺は今ようやく自分の人生について考えている。親や先生にいくら言われても何も考えていなかったのに。失って初めて気づくとはよく言うが全くその通りだ。


そして俺はふと子供の頃を思い出した。

乾いた冬の早朝、家族の叫び声で目を覚ますと目の前で火の手が上がっていた。見慣れた家財道具がパチパチと音を立てて燃える。床や壁が次々に伝播して逃げ場を奪った。焦げた嫌な匂いと黒い煙、五感の全てが命の危機を訴えた。

その体験は今でも軽いトラウマとなっている。


遠くからサイレンが鳴って段々と大きく高く鳴り響く。

それから少し経って銀色の防火服に身を包んだ大柄の男性が俺を助け出してくれた。右腕と左足には火傷の痕が残っている。


何故忘れていたんだろう。俺は消防士になりたかった。色んなことをして時間が経つうちに火事の経験は薄まっていった。でも決して良い記憶ではないけれどあの時俺は確かに憧れたものがあった。

あぁ、あんな風になりたいって。


すると再度視界が暗転し、ベッドで横たわった状態で目が覚めた。先程までの不思議な幽体離脱とは違って自分の意志で手を、足を動かしている。当たり前の感覚が今は何よりも嬉しい。夢みたいな不思議な体験、あるいは本当に夢だったのかもしれないが俺はこの体験を通してやりたかったことを思い出すことができた。

時計に目をやると時刻は午前五時を過ぎたところだった。外では日が少しずつ昇り始めていて空は橙色と藍色が織り交じっている。まだまだ漠然とした目標だが方向は定まった。

まずはホームページでも見るか、と思って席に着いた。


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