戦神の集う庭
香久乃このみ
第一部
第1話 獅子の姿の虜囚
「ではこいつは私が引き取るからな」
氷の瞳の中年男が、満足げに笑い鎖を引く。じゃら、と音を立てた重い鎖の先には、冷たい金属製の首輪をつけられた男の姿があった。その足元にはたった今、彼の体から剥ぎ取られた黒いラウンジングジャケットが力なく横たわっている。
殆ど下着のような姿で鎖に繋がれた男は、獅子に似た頭を持つ獣人だった。
「マクシミリアン……!」
まともな調度品のない、寒々とした貴族屋敷の一室。
殺風景な壁には本来数多の絵が飾られていたのだろう。薄く日焼けした壁紙のあちこちに四角く白い跡が残されていた。
乙女はか細い声を上げ天蓋付きベッドから身を起こし、獣頭人身の男へと手をのばした。レースをふんだんにあしらったドレスの袖からのぞくは、枯れ木のようにやせこけた青白い腕。艶のない乱れた髪が、パサリと顔に降りかかる。
「お願いミスター・ツィヴ、マクシミリアンを連れて行かないで!」
乙女の双眸から涙があふれ出る。それは幽鬼のごとき白い頬を伝って落ちた。
「お気の毒ですが、ニナ・クモイ嬢」
ツィヴと呼ばれた男は、哀れなニナを見下ろしニヤニヤと笑う。口ではお気の毒と言いつつも、そんな気持ちは欠片も持ち合わせていないのが表情から伝わる。
「期限までに借金を返せない場合、この
「え……」
「証文もございます。マクシミリアン本人のサイン入りで」
「マクシミリアン!?」
少女――ニナが獣頭人身の男を見る。マクシミリアンと呼ばれた獅子頭の男は、2mを超す長身の背を丸め、苦し気に目を伏せた。
「他に手がなかったのです、ニナ様。この屋敷を手放すか、私自身を差し出す以外に方法が……」
「そんな……」
「病弱だか何だか知りませんがね」
ツィヴは喉の奥で低く笑う。
「殺すことしか能のない戦争用人工生命体を、執事などと過ぎたポジションに据えるから、こんなことになるんですよ。とはいえ……」
ツィヴは、隆々たる筋肉に覆われたマクシミリアンの体をべたべたと撫でまわす。その見事な体躯は薄い衣越しにもはっきり見て取れた。
「さすがはクモイ社製最高グレードのWB、マカイロドゥス型。性能は良さそうだ。これなら観客も大いに満足してくれるだろう」
「……やめて!」
ニナがか細い声を振り絞る。
「この屋敷を差し上げます。だから、マクシミリアンだけは連れて行かないで……!」
「ニナ様、いけません。あなたのか弱い御身では、宿無しの生活には耐えられないでしょう。それにこの屋敷は、ニナ様のお父上の残した大切なものではありませんか」
「だけど、だけどマクシミリアン! あなたの連れていかれる先は……!」
「ほほぅ! そういうことですか!」
わざとらしくツィヴが声を上げる。その口元には下卑た笑みが浮かんでいた。
「たかがWBになぜお嬢さんがここまでご執心かと思えば、くくく……。こやつはお嬢さんの
「え? あい、がん……?」
「この魅力的な体に骨抜きにされてしまいましたか、くくく。まぁ、雄としても最高グレードの体ですから、無理もないことでしょうが。」
「……」
時を置き、ニナはツィヴの言葉の意味を理解した。蒼ざめた顔に、屈辱の紅が差す。戦争が終わり役目を失ったWBが、悪趣味な金持ちの性的な慰み者にされることがあるのは、ニナも知っていた。
「な……、わ、私は、マクシミリアンと、そんな……」
怒りと恥辱でわななく唇から、とぎれとぎれの音が零れる。
「そんな、み、みだりがましい……ちが……、私は……」
ニナの頬を新たな涙が伝った時だった。
「うわっ!?」
鎖の音とともに、ツィヴの口から情けない声が飛び出した。よたよたとよろけた後、派手に尻もちをつく。
「な、何をする!?」
ニナの目に、自らの首にかかった鎖を掴むマクシミリアンの姿が映った。鎖を強く自分へ引きよせ、ツィヴの足元を崩したらしい。隆々たる筋肉を持ったマクシミリアンにとって、自分の胸の高さほどもない中年男相手に、それは造作のないことだった。マクシミリアンの瞳には怒りの炎が揺らめいていた。
「ニナ様に無礼な物言いをするな。許さんぞ」
「こ、このWB風情が!!」
ツィヴは醜く顔を歪め、唾を飛ばす。
「分かっているのか!? 貴様はもう私の所有物なんだ! 貴様の生殺与奪の権利はこの私にある! 逆らうことなど許さんぞ!」
「俺には何を言っても、何をしてもいい。だが……」
獣人の瞳は爛々とした輝きを持つ。口元から鋭い牙がのぞいた。
「ニナ様への無礼は絶対に許さん……」
生と死の狭間で生きて来たWBが放つ闘気に、ツィヴの顔がさっと青ざめる。
「き、貴様が私に何かしたら、貴様が処分されるだけでなく、この女も法の裁きの対象になるぞ! いいのか!? WBの脳みそはその程度のことも……」
「そうなるかもしれんが、俺がここで貴君の首をねじり切る方が先だ」
「……っ」
ニナはマクシミリアンを見上げる。鎖に繋がれ、下着のような姿でありながらも、その立ち姿は堂々たる王者そのものだった。
「マクシミリアン……」
「ニナ様」
今の今まで殺気を宿していた獣の瞳に、やわらかな慈愛の光がにじむ。
「自分はお側を離れますが、どうぞ息災で」
「あ……」
「貴女が幸せであること、心より祈っております」
深く低く静かなマクシミリアンの声に、ニナは睫毛を震わせた。
ツィヴは二人の様子を忌々し気に睨みつけると立ち上がり、マクシミリアンの脚を蹴った。
「行くぞ、獣人」
「……わかった」
乱暴に鎖を引かれても、マクシミリアンによたつく様子は全く見られない。ツィヴは舌打ちし、ベッドの上のニナへと向き直る。
「では失礼、ニナ・クモイ嬢」
ツィヴはわざとらしく深々と一礼する。
「貴女のご健康と発展を、心よりお祈りしております」
足元のラウンジングジャケットを踏みにじり、ツィヴはマクシミリアンを伴い部屋から出て行った。
扉の閉ざされる冷たい音。それを耳にした瞬間、ニナは泣き崩れた。
「マクシミリアン……ケホッ、ケホッ」
古びたシーツに、朱い飛沫がにじむ。
「屋敷があっても、あなたがいなければ、私は……」
骨の浮いた白い指が、弱々しく布団を掴む。
(お願い、誰か、助けて……)
ぬるい涙が敷布に吸い込まれてゆく。
(マクシミリアンを、助けて……)
その言葉を最後に、ニナは意識を手放した。
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