出来事の直前の幽霊

腕(kai_な)

アスファルトからロケット

二人の人間を乗せてロケットは冷徹に月へと向かっていく。

いや、それは温情な飛行なのかもしれない。地球に残っていれば正体不明の猛毒ガスが私達の身体をたちまちに汚染して手際よく脳髄を滅ぼしてしまうからだ。

だから、地球から離れるこの動きは、生き延びるということを目的に据える限りでは正しい。

生き残る価値があるのか、と言われれば、それは、どちらかを言い切ることはできないが。

地球はまだそこにある。

私は地球の写真を覚えている。平和な青い地球の写真。少なくとも人類が70億人以上いて、混乱する余裕があった頃の地球の写真。

その写真のままの何ら変わりのない地球が窓の外に眠たげに浮かんでいる。

健康的な地球。

しかし、熱病に侵された人間の寝姿と健康な人間の寝姿は見分けがつかない。

地球は私達と同じような夢を見るだろうか。その夢は、全生命の集合意識なのだろうか。それとも、たった一つの尊い存在の、ひどく尊い意識なのだろうか(ところで私はたった今、夢は意識というより無意識に近いらしいことを思い出した)、それは悪夢だろうか。

私の後ろにいる人は通信機に向かって何やら親しげに話している。

無線は地球からの電波を受け止めていて、それが唯一の日常の残り香だった。極めて薄い、煙った香り。これだけが残り香だ。

実際は、そうなのだ。しかし……

青い地球にしがみつく黄土色の大陸を見つめていれば、日常なんていくらでも幻視できる。

私はその時日常の幽霊を霊視する。

英雄の色の微塵も混ざらないその幽霊の顔色は安らかだけど、結局は幽霊なのだから、ではその安らかさは欺瞞なのだろうか。

そうではない。これは追体験で、幽霊本体はいつかの過去そのものだ。だからこの怪奇現象の安らかさは本物だ(おわかりいただけただろうか……replay)。

幽霊の透明な腹には澄み切って揺れないスイミング・プールやめくられたカレンダーが混ざって沈黙している。

私の全ては彼の胃の中で黙っているのだろうか。

幽霊の見鬼は地球の夢。

私の存在は、その安らかな幽霊の外膜の、0.00001%足りうるだろうか?


 <Replay>


ラジオでなにやら喋っている。


ラジオ 再度戻されるレコードの針。もう一度鐘を鳴らして、風を起こす。その風はあの日の朝日を含んでいる。諸君!我々はそれを振り払わなければならない。いつまでもノスタルジーの温水を漂っているわけにはいかない。世界がもうすぐ滅びるという    今この時に、我々は未来を見据えねばならない。たとえば蛇のいない楽園を、喇叭の嘴を、諸君、全ての金属光沢は今、彼の指先に宿っている。彼の息をその身に受けて、飛び立とうではないか。

あの日、<死>が道のりと化した時、より大きな破壊は現れず、何よりも大きい安らぎが東京タワーを白い布で覆い隠すのを見て、死者を思い浮かべるのではなく、これは赤子であると気づいた時、全ては胎盤の上で蠢いているように思われた。

全ては新しくなるのだ。

だから、我々は、新しいものへ祝福を与えなければならない。

新しいパンと、新しいコップと、新しい水と、新しい果汁と、新しい氷を、新しい机の上に並べて、全ては新しくなるだろう。

古きものをまったく置き去りにした状態で!



全てのラジオは三ヶ月ほど前に停止されてしまった。くだらないMCがくだらない事をのたまっているだけのものを聞くくだらない、ラジオ。それの停止は、全てのくだらないことの停止のように思える。くだらないことがなくなった世界。ひどく美しくてひどく排他的な世界。この世界。

でも、どうだろうか?くだらないものを世界から廃棄してしまえば、逆に世界のくだらなさは加速するのでは?

そう思ったので後ろの人に聞いてみると、「お前はくだらない人間だ」と言われた。なかなか、同乗者として最悪な人選かもしれない。

通信機からの声はもう聞こえない。




正体不明の猛毒ガスについて述べておこう。しばらく暇なのだ。これが話題になり始めたのは五年ほど前の8月のことで、蝉の声が空間を消しゴムのように強く擦っていたのを覚えている(空間が消え失せることはなかったが)(もしくは消滅の前触れだったとでも言うのだろうか)。メディアは勿論、全人類が大騒ぎした。なにせ、死者が日ごとに倍増していくのだから。その死に様は極めて安らかで、一瞬で、外見に変化もなく、手品か何かのように、種明かしがされることもなく、魂が消滅してしまうのだった。

異臭もせず色もないガスは音が反響するみたいに、波紋一つすらたてずに人々の上空を飛んでいった。その反響の後に残されたのは抜け殻だけだった。それらは明らかに遺棄されていた。社会から、生命賛歌から、日常から、人間の視線から、遺棄されていた。火葬場の煙は絶えず重力に逆らって、やけにわかりやすく「アポカリプス」だった。

ガスが発生したのは太平洋のど真ん中で、海底深くに沈んでいた神秘の古代都市から漏れ出たのがそのガスらしい。それは生物を脅かすにはあまりにも好都合な性能をしていて、描くという用途においての鉛筆、植物を潤すという用途においてのじょうろ、生物を脅かすという用途においてのガスだった。シャッシャッ、ジャージャー、バタリバタリ。

ともかくそれは能力を遺憾なく発揮して、私と後ろにいる人(今は外をぼーっと眺めている)の二人以外の全てが死に絶えた。姉も、親も、見知った人も全員死に絶えて、最後に私の家に残っていたのは五足の靴だけだった。

宇宙へ飛び立つ日の前日、私は自分の靴を履いて、四足の靴を花束のように両手に抱えて海へととぶらった。海は未だに波をテトラポットに泳がせていて、停止を感じさせなかった。火葬場の煙が海まで届いていることに驚いた。無風だというのに。

私は堤防の上に立ち、すべてを無視して輝いている太陽を視界の隅において、しきりに光を反射させる海の沈黙のような青と空気の震えの混じりを見つめるでもなく見つめていた。

しばらくはそうして過ごした。混じりはいつまで経っても混じりで、それ以上でもそれ以下でもなかった。

そうして、私は堤防の落ちるギリギリのところに立ち、少しだけ風を確かめてから、四足の靴を海へほうった。

靴という所持品の存在は、所有者の存在と強く結びついているように思う。靴のサイズは足のサイズで、すり減った靴底が所有者の歩いた距離だ。

投擲されたそれらはゆっくり落下して、各々の位置に着水した。

波に揉まれて消えた。


後ろの人が小さく声を上げた。見れば、最終目的地点である薄暗く発光する骨のような月はもう、すぐそこまで近づいていた。蝉の声はなくて、辺りは消しゴムで消すことができないであろう強度の闇だけだった。


(ザー、ザザザーーー、ザーーーー、)

だから、我々は、新しいものへ祝福を与えなけれ(ザー)ない。

新しいパ(ザザザーーー)しい水と、新しい果汁と、新しい氷(ザーーーー)べて、

全ては新しくなるだろう。

(掠れる人声)


ラジオの砂嵐が痛々しい。

月には不死の水があるらしい。

砂漠の旅人はそれが幻影だとわかっていても、オアシスの蜃気楼に向かってひた歩くらしい。私はそれを見て笑わないし、それはすこぶる人間的だと思う。

オアシスが実在していればなお良い。

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