第1話

雨が降り続いている。


昨日の快晴が嘘だったかのように降り続く雨は、少し遅い梅雨の到来を知らせているようだ。

ジメジメと嫌な湿度とももにやって来る暑苦しさで、俺の白いシャツは肌にぺったりとくっつく。それを剝がすようにと指でシャツを引っ張る。


薄暗く1段1段高さのある階段を下りれば目的の場所である。”Cafe Largo”と書かれた看板が屋根ギリギリのところに配置されており、今にも雨で濡れてしまいそうである。

看板の隅には、”梓おすすめメニュー”の記載もあるようだ。今日はコーヒーとナポリタンと書かれている。


雨に濡れないように店の屋根沿いをそろりと渡って入り口のドアを開ける。


カランカラン。


ドアベルを鳴らすと同時に中から男が出てきた。帽子を深くかぶって顔は見えず、髪が長い。


それでも男とすぐ判断できたのは、肩幅の広さと身長だろう。

髪以外の要素全てが、自分は男だ、と語りかけてきているようだった。


男は狭い入り口で俺を押しのけるように、我先にとカフェを出て行った。



「すみません。」



図々しく入り込んできた割に、意外と小心者だったようだ。

俺はその男が傘を差し、出ていく姿を数秒見て店へと入った。



「やぁ、緋村さんいらっしゃい。お好きな席どうぞ。」



中に入ってすぐ出迎えをしてくれるのは、アルバイトの梓ちゃん。柔らかく艶のある髪をまっすぐおろし、頭の後ろはハーフアップで美しくまとめられていた。白いワンピースの上に黄色の絵柄が入ったエプロンを身にまとっている。

ただ、言葉にはまるで気持ちは籠っていなかった。どこか上の空というか、考え事をしているようだった。



「おはよう、梓ちゃん。」



俺はボーっとしている店員に少しばかり元気な挨拶をして、いつも座るカウンターの一番左端に腰をかける。


彼女は平日、休日に関わらずこの店で働いており、午前中から昼にかけてはずっとこのカフェにいる。

そのため、毎日通っている俺は顔を合わせない日がほとんどない。



詳しくは知らないが家庭の事情で色々と苦労しているらしい。今はお金を貯めてデザインの専門学校に通うつもりらしい。

なんとも儚げで応援したくなるような生い立ちだが、俺に人の夢を応援するほどの余裕など微塵もない。

できるのはこの店に毎日通うこと、それだけだ。


ふいにキッチンに掛けられたカレンダーがチラッと目に入る。

もう今年も6月に入った。

今月が終われば今年はもう折り返し。人間は年を追うごとに時間の進みは感覚的に早くなると言うが、その中で何も成していない自分に少し罪悪感を覚える。


ん?

俺は少し目を細める。

カレンダーの6月2日が目に入る。すごく派手にデコレーションされていて、かなり目立っていたからだ。ただ少し遠めだったため、文字はHとBしか見えない。少し近づけば見えるだろうが、もう過ぎた予定をわざわざ確認する律義さは俺にはなかった。



「マスター、いつもの。」



マスターは優しい笑顔で小さくうなずき、梓ちゃんと目配せをする。白いあごひげを生やしている寡黙な人だが、他人と相対する時は常に笑顔を忘れない安心感のある、まさにマスターの名にふさわしい人間である。


時計の秒針の音だけが店にこだまする。


俺の目の前では、マスターが静かにコーヒーを淹れる情景が拡がっている。

豆をひいているその姿は、毎日欠かさない儀式のような神聖さを感じさせる。

ミルのハンドルを回すたびに、ザリザリとした音と心地よい香りが空間全体に広がっていく。やがて、その音は滑らかなシャリシャリという音に変わり、細かく挽かれたコーヒーの粉がミルの底にたまっていく。


俺は目を閉じて、その変化を音だけで楽しんだ。


細かくひかれた豆をドリッパーに移し、湯をゆっくりと注ぎ込む。お湯が豆の上に降り注ぐと、ふんわりとした泡が立ち、豆の香りがより一層押し寄せてきた。


少し待つと、濃い琥珀色の液体がドリッパーから静かにポットに落ち始める。香り高いコーヒーが満ちるポットを手に取り、それはカップに注がれた。


マスターが優しくコーヒーを差し出してくれた頃には、俺はもはや満足をしていた。



「マスター、ありがとう。」



そう言うと、俺は湯気のたったコーヒーの熱さを唇で感じるように、ゆっくりとカップを傾ける。


舌には熱さと苦味、そしてその奥に隠れた酸味がのしかかる。目を閉じることでそれらはさらに感じることができた。

一口が重厚にも関わらず飲み終えたらさっぱりとした後味で、今日の始まりの充実感を感じる。



「はい、おまちどおさまです!」



梅雨を忘れさせるかのような元気な声で持って来られたのは、こんがりきつね色に焼きあがったトースト。焼き目から感じる優しい香りとバターの匂いが融合し、絶妙にマッチしている。



「いただきます。」



誰にも聞こえないような声で手を合わせると、左手の親指と中指でトーストを掴み、一口かじりつく。

しっかりと焼けたトーストの食感とバターの味が素晴らしいバランスを生んでいる。実家のような安心感のある味である。


右手でコーヒーをもう一口。


もう長い間のルーティンとなっているこの朝ごはんだが、未だに飽きが来ていないのは店の企業努力と言っていいだろう。常に美味しい料理を提供することが、店にとって何よりも大事なことであると、客としてしみじみ感じる。


今日も今日とて感謝の意を心に抱いて、あっという間に完食する。

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