第9話 僕の箱庭(2)


『封印の楔』を首輪ごと完全に解除するには、名前を与える者が封を施した術者たちの魔力合計を上回る魔力量を一気に注ぎ込んで術式相殺を行うと同時に、純粋に『楔の追放者』の幸福を願う心が必要だ。


 しかし一体どこの誰が、命を削るほどの膨大な魔力を注いでまで〝魔物〟の首輪を外すというのだろう? 幸福を純粋に願って? それで自分が死んだら意味がない。だから、『封印の楔』は永久に外れない。


 だというのに、それが外されたということは――――。


 胸がつまるような、甘く痺れる感覚が、彼女に触れられた部分から広がって……たまらなくなる。


 国をも脅かす固有魔法を与えられた従僕など、嫌われて遠ざけられるに決まっている。両親や兄弟がしてきたように虐げられても仕方がない。そう思っていた。


 だが今は、遠ざけられたくないと…………できれば、彼女から手を離されたくないとさえ思い始めている。


(なぜだろう……。彼女が僕の手を取った瞬間に、大きな真紅の瞳がやわらかく細められた……あの光景が脳裏から離れない、からだろうか)


 主従契約を結んだ時、そして先ほど無理やり選択を迫った時も、彼女は心から嬉しそうに微笑んでいた。


 可憐な花のようなかんばせにとろけるように微笑みを浮かべ、甘く色づく頬を緩めながら鈴の音のような声で『アルト』と彼女に与えられた名前を呼ばれるたびに――なぜだか胸が切なく痛んで、渇きを覚える。


(主従契約を結んだせいだろうか? ……いいや。僕自身、主従契約を結んでいた獣人ならば祖国でも多く見てきたし、座学でも詳細まで勉強した。しかし、そんな副反応は報告されていなかったはず)


 主従契約は心までは縛れない。

 わかってはいるが、こんな感情を他人へ抱いた経験がない自分にとっては不可解でしかなかった。


 そのせいで主従契約を結んだ年下の主に対して、『せいぜい寝首を掻かれないようになさるといいかと』なんて、照れ隠しでつい心にもないことを口にしてしまった。


 だが、今はむしろ、与えられすぎたがゆえに、これ以上〝自由〟を与えてくれるなと……あんな態度を取ってしまったのかもしれないと、冷静な思考で思う。


 あの時、いつかほかでもない彼女の手によって手放される未来がもたらされるかもしれないと、漠然とした不安に駆られたのは事実だ。


(主従契約を結んだのなら、立派な主として最期まで責任を持って従僕を従えるべきだ)


 らしくない考え方に、自嘲の笑みがもれる。たった一日で随分、従僕的な思考に染まったものだなと思う。


(それもこれも、お嬢様のせいだ。それが誰かの心を満たす甘美な毒であると知らずに、無垢な笑顔とともに振りまく……お嬢様のせい)


 アルトは石畳の上に膝をつき、ティアベルを片腕に抱いたまま器用にお仕着せの上着を脱ぐと、それを床に敷く。

 従僕としては、お嬢様に相応しいふかふかなベッドに寝せてやるべきなのだろうが、ここにはそれがないので仕方がない。できるだけ衝撃を与えないように、アルトはそっとティアベルを上着の上に横たえた。


 腰に下げていた剣を鞘ごと引き抜き、彼女の側に控えるように座る。

 彼は久しぶりに訪れたこの場所をぐるりと見渡した。


 相変わらず、窓もない、薄暗く広いだけの部屋が延々と続いている。灰色の石畳以外にあるのは、この領域への入り口となった鋼鉄製の鉄格子だけだ。

 この広大な領域はアルトの膨大な魔力量を表しているのだろう。……そして、育ってきた環境も。


 そんな荒廃した環境の中、ティアベルは林檎のように色づく唇を半開きにしたまま、安心しきった様子で目を閉じている。


「……アルトぉ…………むにゃむにゃ…………」


 春の木漏れ日のようにやわらかな声音で、年下の主が寝言を呟く。

 ティアベルのあどけない表情を見れば、彼女が従僕となった自分を信頼して夢の中でも全てを預けきっているのだろうことが手に取るようにわかった。


 アルトはなんだかくすぐったいような、居ても立っても居られない気持ちになる。

 こんな感情を覚えるのは、八年間生きていて今日が初めてだ。しかも、それを今日だけでもう何度も感じている。


 冷たい美貌を居心地悪そうにしかめ、アルトは黒皮の手袋に包まれた手をそっとティアベルの頬に当てた。


「……お嬢様の命は今、僕の手の中にあると言っても過言ではないんですよ」


 意味のわからない感情を持て余したアルトは、その感情を抑え込むように囁きかける。

 ここには、悪魔のように仄暗い笑みを浮かべた美しい獣の姿を目に映す者は誰もいない。


(こんなにも冷たい声が出る僕を知れば、お嬢様は怖がるだろうか)


 この三ヶ月の間に随分と皮が厚くなった右手で、アルトは首輪の外れた喉をさする。


『封印の楔』で奪われていたものが返された今の自分には……生きていくために記憶した上級魔法の知識と、それを使いこなすことができる生まれた時から備わっていた膨大な魔力、そしてディートグリム公爵領の護衛騎士団長に死ぬほど扱かれた剣技がある。


(だというのに、僕の前でこんな風にぐっすりと眠るなんて。警戒心がなさ過ぎて逆に心配になる)


 震える指先を伸ばし、ティアベルの額に掛かった前髪をそっと整える。

 砂埃と熱風で煽られた白銀の髪はかすかに傷んでいたが、砂糖菓子みたいにサラサラと壊れそうなほど繊細でやわらかい。


(どうしてだろう。胸の奥底がそわそわとして、落ち着かない)


 真珠のように艶めく白銀の長い睫毛は微動だにせず、かたく閉じられている。

 はやく、あの朝露に濡れたように透き通った純粋無垢な紅玉の瞳で、僕をまっすぐに見つめてほしい。


 そう思った瞬間、感じた経験のないあたたかな熱がきゅうっと喉にせり上がった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る