第3話 回想にもない彼の過去
ふと窓の外を確認すると、太陽は地平線の近くまで傾き、雲は薄く赤みを帯びてきている。
「……えっ、もう夕方!?」
慌てて時計を確認すると、置き時計の長針は十七時を指している。アルトと引き合わされた家族だけのお誕生日会から、半日も眠っていたらしい。
こうしちゃいられないわ。今夜はお客様を招いて行われる誕生日パーティーもあるのに。
お父様はきっとアルトを公爵令嬢の新しい従者としてお披露目するはずだ。しかし肝心のアルトとは全然交流できていない。
だけどパーティーの開始時間まで、あと一時間くらいじゃ――?
コンコンコン、と控えめに扉をノックする音が聞こえて思考を中断する。
「どうぞ」
返事をすると、私付きのメイドであるエリーがほっとした様子で入室してきた。
「ああ、良かった。お目覚めのようですね、ティアベルお嬢様。体調はいかがですか?」
「体調は良いみたい。エリー、あの……アルトは?」
「お呼びしましょうか? 外に控えていますから」
そう言って、彼女はアルトを呼び入れた。
「失礼いたします」
主人の私室に初めて足を踏み入れたというのに、彼は八歳の子供らしく部屋を見回したりはしなかった。
形の良い唇は真一文字にひき結ばれており、凍てつく美貌は相変わらず警戒心で満ちている。
前世の記憶より幼いアルトの声は、原作の悪役令嬢に接する時と同じように無感情だ。私を拒絶しているのだろう。
しかし、もふもふの尻尾はピンと立ち、狼耳は所在なさげにぴくぴくと左右に小さく動いている。
契約時は悪魔のように仄暗い懐疑心を爛々とたたえていたが、主人となった人間が突然目の前で卒倒したことは、少なからずアルトの心に何か影響を及ぼしたらしい。
「ごめんなさい、アルト。初日から困らせてしまったわね」
「いえ。僕は気にしていませんので」
アルトは取り付く島もない様子でツンと澄まして目を伏せる。
だが、しばらくしてから彼はどこか戸惑ったように視線を彷徨わせると、「……お加減いかがですか」と静かに口にした。
あの懐疑心の塊みたいなアルトが悪役令嬢を心配しているなんて……!
第一印象が悪くなかったってことよね。よかった!
彼のこんな表情は原作の過去回想シーンにはなかった。これはきっと、十年後に来たる最高の契約破棄に向けての第一歩が、順調に踏み出せた証拠に違いない。
将来への不安から緊張しきっていた心がぱあっと晴れて、思わず頬が緩む。
「今ちょうど、元気いっぱいになったところよ。アルトがお見舞いに来てくれたおかげね」
「……そうですか」
そろりとこちらの表情を窺ってきたアルトは、私と視線があった瞬間にわずかに目を開き、形の良い眉を吊り上げてふいっと顔をそらせる。
その顔には『なんなんだこの人は。意味がわからない!』と書いてあるようだった。
意味わからないと思われていようと、今はいいんだなぁ。
彼とは反対に私はほくほくの笑顔である。
さて、そろそろパーティーの準備に取りかからなくては。
「エリー、準備をお願いしてもいい?」
「はい、すぐに」
「アルトは私の準備が終わるまで少し外で待っていてね。終わったら一緒に会場へ向かいましょ」
「かしこまりました、お嬢様」
彼はベテラン使用人並みに綺麗な一礼をすると、完璧なマナーで主人の部屋を辞す。
エリーは私のベッドを手早く整えると、寝室から続く支度部屋へ私を促した。
真っ赤なドレスを着て、幼い顔に薄く化粧を施してもらっている最中、鏡を見つめながらふと先ほどのアルトの様子を思い出す。
すっと伸びた姿勢、ブレのない体幹、迷いのない目線。
彼はやはり、八歳の少年が短時間で身につけたとは思えない隙のない所作をしていた。
幼い頃から従者になるよう厳しく育てられたとしても、子供のあどけなさというのは抜けない。それはこの屋敷に勤める十代半ばの使用人達を見ていればわかる。最初の半年くらいは皆、どこか初々しいものだ。
しかし彼はここへ来て数時間だというのに、初々しさよりも洗練された身のこなしを感じさせる。
そんな子供は、私が今まで参加した経験のある社交界デビュー前の貴族の子供たち向けのお茶会やパーティーでも、見たことがなかった。
前世の記憶がある分、同世代の子よりも大人びている私だって流石にここまで完璧にはできない。
マナー教師がよほど厳しかったのか。はたまた、お手本となる周囲の大人以上に優秀にならざるを得ない環境に身を置いていたのか。
そんなのはまるで、
「……――権力争いにでも、巻き込まれていたみたい」
「……ティアベルお嬢様? 申し訳ございません、集中していて聞いていませんでした。いかがいたしましたか?」
「あ、いいえ、なんでもないの。ひとりごと」
このまま続けて、とひとりごとを笑って誤魔化す。
原作で明かされているアルトの過去は、悪役令嬢の私に虐げられていた頃から始まる。なので、それ以前に関してはまったく描写されていない。
この国の貴族の中にも獣人はいるけれど、アルトのように狼の血を引いている貴族に心当たりはなかった。
まさかとは思うけど、どこかの国の王侯貴族出身なんてことはないわよね?
……そういえば確か、獣人族の治める国の王族が狼の血統に連なる一族だったはずだ。
でも、だとしたらなぜお父様が……。
軽く握った拳を顎先に当てて考え込む。
白銀の長い髪が魔道具のヘアアイロンで温められ、くるくると柔らかなウェーブを描いていく。
ヘアアレンジのためにいくつものウェーブが量産される中、いろいろと考えを巡らせるが、明かされていなかった彼の過去のヒントになるようなものは見つからなかった。
信頼してもらえているわけでもないのに、本人に聞くわけにもいかないし。
それにアルトが言いたくない過去を、わざわざ掘り返して再び傷つけるような真似はしたくないもの。
いつか、話してくれる時が来たらいいけど。
……ううん、違うわね。別にこれから先の彼の幸せに関わらないんだったら、ずっと秘密でも構わない。
「ティアベルお嬢様、お支度が整いましたよ」
「ありがとう、エリー」
エリーの声に顔を上げる。
鏡の中にいる美少女が、紅玉の大きな瞳を驚きでぱちぱちと瞬かせる。
露出の少ない真っ赤なドレスに身を包んだ私は、悪役感に満ち溢れた令嬢に仕上がっていた。見た目だけなら、どこに出しても恥ずかしくないほど完璧な悪役令嬢だ。
……や、やばい。
変な呼び名を勝手に付けられて危険物扱いしてくる仕返しに、ちょーっとそれっぽく着飾ったり、林檎ばかり食べたりしてきたけれど、今後のことを考えたら悪手だったかも……!
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