第7話


リュシヴィエールは知らないことだったが、深夜に眠る姉の顔を眺めては何もせずに帰っていくのはエクトルの日課だった。とくに今日はあんなことがあったばかりだったから、彼は我慢しきれず、ティレルに呆れられつつ早々に寝付いた彼女を尋ねていた。


幸か不幸か、それがその後の明暗を分けた。


燃える廊下を二人は必死に逃げた。使用人たちの悲鳴や走り回る音が階下から聞こえてくる。


白い煙がもくもくと廊下に充満しつつあった。火元はどこだ? 広間の暖炉か、使用人がランプを倒したのか。それにしては火の回りが早すぎる。混乱した頭では考えがうまくまとまらない。


まだ猶予はあったはずの窓枠のひとつから、赤紫の火がボッと燃え上がった。熱によって膨張したガラスがパリンと割れる。リュシヴィエールは寝間着のままエクトルの頭を抱いて庇った。腕の中の少年はなんとか姉の拘束を抜けようとしながら叫ぶ。


「これは普通の火じゃない、姉上!」

「わかってるわ、これは魔法よ」


恐怖に躍り上がった心臓が、まるで耳元で鳴っているかのよう。煙を避けて身をかがめ、這うようにして廊下の端の階段へ。二人の後ろをリュシヴィエールの部屋から熱と煙が追ってくる。


何の前兆もなかった――きな臭さも、煙に目をいぶされることも、パチパチ爆ぜる火花の音も。ただ突然に部屋が燃え上がったのだ。そうとしか考えられない。


転げるようにして階段まで辿りついた先、手探りで手摺を探し当てる。目は涙で使い物にならない。


「お嬢様! 坊ちゃま!?」


と階下から声を張り上げるのは、長く祖父の代から仕えてくれている老メイドだろう。


「わたくしたちは大丈夫よ! 早く逃げなさい!」


と階段に向けてリュシヴィエールは叫び、煙を吸って激しく咳き込んだ。


「姉上、口に手を当てて。なるべく浅く息をして」


とエクトルは彼女の肩に手をかけ、強い力で階下へ誘導する。知らないうちに弟はずいぶんと逞しくなっていた。足を踏み外さないよう警戒しながら、必死に古い絨毯の敷かれた重厚な階段を下がる。いくつかの段にすでに引火しているのに血の気が引いた。熱気のあまり眼球が乾く。髪の生え際がチリチリ音を立てる。


どうにか階段の終わりまで、一階に到達した。すぐ先に玄関ホールがある。大理石の床のそこは鉄板じみて熱を発していた。観音開きの大きな、馬車さえ入りそうな中央玄関は開け放たれている。その向こうで使用人たちは飛び跳ねるように手を振っていた。早く早く、とせかされ、気ばかり焦った。


リュシヴィエールは力の入らない身体を叱咤し、よろめきながら足を進めた。室内履きごしに感じる熱に足の裏が焼けそうだ。


「エル、おまえ、足っ」


と短い悲鳴が喉をひきつらせる。エクトルは裸足だった。強い怒りと焦燥に満ちた青い目が、銀色のふちも露わにリュシヴィエールをねめつける。


「そんなの、どうでも、いい!」


二人の身長を超えるほどの火が目の前に出現した。魔法の火。不可思議の火。誰かの意思で動く赤紫の火だ。炎自体は動かず、ただ燃えるものもないはずの大理石の上に堂々と揺らめくだけ。


脱出したければこの炎を突っ切っていかなければならない。熱のあまりパリンと床の大理石が割れた。


「姉上、息を止めて。目を伏せて」


とエクトルの手が伸びてきて、リュシヴィエールを肩にかつぐようにする。少年の片手がぐっとリュシヴィエールの脇腹を掴み、決して自分から離さないと告げる。


「エル、エル……」


ぜいぜいと呻きながら、リュシヴィエールはその通りにした。


息を止めながら走る初めての経験に、もはや心は忘我の状態だ。熱も痛みも感じない。リュシヴィエールはなるべく火からエクトルを庇ったつもりだったが、果たしてどこまで役に立ったことか。細かい火の粉によって身体にはいくつかもの火傷ができる。無我夢中だった。髪の毛が燃える。足の裏が、鼻の奥が、身体じゅうが熱い。


やっと玄関扉を走り出られる、と思ったそのとき。外の風を感じ、使用人の歓声が耳に届き、一瞬だけ気が緩んだ、その間際。


ひときわ大きな爆発音とともに、天井が崩壊した。古い重いシャンデリアが爆ぜ、クリスタルが割れながら四方八方に爆ぜる。炎を纏った木っ端、火が付いたまま飛ぶ壁紙、割れ砕けた石材。二階の床が、柱が、落ちてくる。


咄嗟にエクトルがリュシヴィエールの頭の上に覆いかぶさろうとした。そのことが分かった瞬間、リュシヴィエールはエクトルを投げるように突き飛ばした。玄関の外、大理石の階段に彼はだんっと転がった。


「リュシーいいいいいい!!」


絶叫は耳と言うより頭蓋骨の中でわんわんと反響する。


最後にリュシヴィエールは微笑んだ、のだろうか。そんな綺麗な終わり方を選べたのだろうか。


使用人たちがわあわあと投げ出されたエクトルを掴み上げ、屋敷の火勢の届かないところへ引きずっていった。エクトルは泣きわめき、暴れ回る。すべてがゆっくりに見えた。自分に倒れかかってくる無機物のなにもかもを含めて。


(エクトル。暗殺者。密偵。悲しい男の子。……普通の男の子。学園、イベントスチル、桜みたいな木。癒しの力を持つ特別な女の子……姉の死体の横で抱き合って)


情景がくるくる、表れては消えていく。


リュシヴィエールは肩から床に倒れ込む。熱い。灼熱の大理石が衝撃で割れ、破片が目に入らないよう硬く硬く目をつむった。頭上から轟音がした。軋むようないやな音だ。腕で頭を抱え歯を食いしばった。熱と痛みから逃れるように。


二階を支える柱がリュシヴィエールの上に落ちてきた。炎を上げながら。


人間の力では持ち上げられない重量に身体が潰される。


リュシヴィエールは単語と踊る舞踏会の夢を見た。


奇妙なことに、それは忘れ果てていたはずの日本語だった。


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