第6話


アルトゥステア歴七百十三年の十二月が間もなく終わろうとしていた。


半年前の夏に訪れた父はエクトルにいくつかの責務を残していった。新しい家庭教師、木箱いっぱいの教本、ノートと鉛筆。王立魔法学園に入学するための下準備だった。


エクトルは北の塔に家庭教師を引き入れて引き籠り、リュシヴィエールが会いに行っても気もそぞろである。思っていた以上に勉強が性に合っていたらしい。彼女としては邪魔するわけにもいかない。学園卒の資格があればエクトルの人生の選択肢は広がるはずだから。


その一方でどうやら父に怪しい仕事も請け負わされているようだった。ティレルを問い詰めて不承不承教えてもらったのだ。廊下の突き当りに追い詰められた彼はリュシヴィエールを聞き分けのない子供を見る目で見て、ため息をつき、


「こうなったお嬢様は止めらんねえからなあ……」


とは言ったものだった。


「わたくしが止めても止まらないのはあなたたちでしょう、ああ、もう」

「はいはい。そりゃね。今のあいつは興奮してますよ。まるで春の馬みたいにね。ようやく自分の力を試す場が出てきて嬉しいんでしょう」


と、何もかもお見通しの顔して頷くのだった。


リュシヴィエールはそれが悔しかった。自分よりティレルの方にエクトルが懐いている――というか、何もできず動きもしなかったリュシヴィエールに比べ、ティレルの方がよほどエクトルの人生に貢献しているのだから当たり前なのだが、その当たり前さえもが悔しくて妬ましくてならないのだった。


「そんな射殺しそうな目で俺を睨まんでも。ああ、やりにくいねえ、貴族のお嬢様というやつは!」


と肩をすくめるティレルもティレルで、板挟みに苦しんでいる立場なのだが。いかんせん常に飄々としている男なので、そんな苦しみも苦しみに見えない。


ちらほらとみぞれが降る夜の北の塔だった。その日、リュシヴィエールは勉強を終えたエクトルを訪ねた。一日に一度は彼の顔を見ないと落ち着かない体質なのである。いつもの飾り付けられた部屋に誰もいなかった。真上から物音が聞こえた。だから彼女は塔の螺旋階段をさらに昇りそれを見た。


北の塔は古い戦争の時代には物見塔として活躍したので、屋上にはカタパルトだった痕跡や兵士が身を隠すための凹凸がある。平たい石畳の上、エクトルとティレルが激しく刃を交えていた。リュシヴィエールは息を飲んだ。


剣戟の音が夜空に響き渡っていた。みぞれは徐々に雪の結晶に変化しつつあった。広い円形の塔の屋上は白く輝き、まるでスポットライトが当たった舞台の上だ。


どちらも一声も発さず、無表情だった。エクトルの剣捌きは鋭く正確にティレルの胴体を狙う。一方、ティレルの動きはエクトル以上に滑らかで無駄がなく、リュシヴィエールの目から見ても実力差があることが伺える。


ティレルの剣がエクトルの攻撃を受け止めると、どこか鈴の音じみた玲瓏な音が鳴り響いた。それさえティレルの方に余裕があり、エクトルの直線的な無駄のない動きは何度も跳ねのけられる。


稽古だということはわかっていた。だが彼女の心には、エクトルが傷つくのではないかという不安が黒い靄のように広がった。


その瞬間、エクトルの剣がティレルの胸元に向かって繰り出され、ティレルは一歩後退すると反撃に転じる。彼の剣は鋭い弧を描き、エクトルの顔に迫ったが、少年は素早くのけぞって攻撃をかわした。戦闘は膠着し、相手の利き手でない方に回ろうと二人はくるくる回り合った。まるで踊りのような探り合い。


場の緊張はリュシヴィエールは固唾を飲み、その場にいられなくなりそうだった。やめてくれと叫びたかったが、意味などないことを知っていた。


風がざあっと吹き荒れ、リュシヴィエールの金髪の巻き毛が宙を舞う。きらきらと。黄金の川のように。


エクトルの目の端にその煌めきが届いたのは一瞬だけだっただろう。だが彼は確かに彼女の存在を感じて、少しだけ、動きを止めた。驚きと戸惑い、師匠にやられている自分を見られた不甲斐なさ、彼の心に浮かんだのはそんなところだろうか。ティレルはその隙を見逃さなかった。


ティレルの剣はエクトルの喉元でピタリと止まった。少年の銀髪が数本、夜空に舞い散る。彼のまだカン高さを保った怒りに満ちた叫び声が夜空に響き渡り、二本の剣は切っ先を地面に下ろされた。――稽古は終わった。


「エクトル!」


リュシヴィエールは少年に走り寄った。まだたったの十三歳の細い肩を抱き寄せ、怪我の有無を確かめる。年が明ければ彼は十四歳になるが、それでもまだ子供だ。


「おーお。俺の方も心配しちゃくれませんかね、お嬢様は」

「バカッ」


もはやどっちに怒っているのやらわからない。リュシヴィエールは男と少年のどちらにも交互に顔を向けて罵った。


「もうっ、バカッ! バカ!」

「悪かったって、姉上……」


途方に暮れたエクトルが見上げる先で、ティレルは剣を鞘に納めポリポリ頬をかく。


「んじゃ、任せた。弟子」

「うええ……」


顔をしかめたエクトルの黒いチュニックの上を、雪の結晶がくっきりと六角形に彩った。彼の身体は熱く上気して、心音はことことと早かった。ティレルがいってしまうと、エクトルはぎこちなくリュシヴィエールを立ち上がらせようとする。


「立ってよ、姉上。このままじゃ風邪を引くよ」

「うん……」

「俺が風邪引いてもいいんだ、姉上?」


冗談めかして言われても、リュシヴィエールは立ち上がらない。立ち上がることができない。足が萎えてしまったようだった。彼女は初めて、彼が戦っているところを見た。


――こういうことなのか、と思った。彼が潜り抜けてきた、そしてこれから入っていく世界の闇は。剣戟、風圧、死を予感させる立ち合い。彼女は猛然とすべてに腹を立てていた。ゲームの知識がありながら後手後手に回っていた自分にひときわ憎しみが湧いた。


リュシヴィエールはエクトルの耳元で呟いた。


「ごめんなさい」

「え?」

「あなたを普通の男の子にしてあげたかった。わたくしたちのせいね。わたくしたちクロワ家が、あなたをこの境遇に追い込んだんだわ」


少年は口を引き結ぶと、強引にリュシヴィエールの腕を持ち上げ彼女を立たせる。ちょっと乱暴に階下へ導かれながら、リュシヴィエールは彼の美しい銀髪が雪に勝るとも劣らないほど輝いているのを知る。


「――見くびるなよ」


今度は彼女が目を瞬かせる番だった。


屋上から階下へ続く螺旋階段の踊り場。古い石組みの壁に少年はリュシヴィエールを押し付ける。あっ、と思ったときには足の間に膝を入れられ、手首を両方、掴まれて抵抗などできなかった。身じろぎも許されなかった。


「俺は人体の急所を学び、体の動かし方を学び、もうあなたより強くなった。強くなったんだよ、姉上。どうしてわかってくれないんだ? どうしても、わかってくれないのか?」


角度によって銀色を帯びる青い目が悲しさに歪んでいた。それは違う、とリュシヴィエールは言いたかった。エクトルが強いことは知っている。けれどそれとこれとは違うベクトルの話だ。


「わ、わたくしがあなたを心配することと、あなたが強いことはぜんぜん別の問題で――」


言いかけた口を口が塞いだ。おとうとの唇は雪の冷たさと清潔な味を持っていた。


「んむ、」


ぬるっと入ってきたのがエクトルの舌だとは咄嗟に判断できず、リュシヴィエールは呆然と熱を受け止める。彼の頭の位置がすでに自分と同じ程度の高さにあって、胸板の厚みと肩幅も同じくらい、いや、そろそろ負けている……そんなことに、今更気づいた。


ふくよかな乳房のふくらみごと、少年の身体は彼女を押し潰し、冷たい壁に押し付ける。いやだと首を振る自由さえ許されなかった。エクトルの舌はすぐに熱を帯びて、ぐねぐね別の生き物のように彼女の口の中を冒険した。


――うっとり、した。気持ちがよかった。


我に返ったときにはさんざん陶酔しきったあとだった。ぽかんとエクトルを見返すと、彼は顔を赤らめてフイと横を向いた。お互い、息を荒げていた。顔が赤かった。とくにエクトルは動いたあとだったから、顎まで滴った汗をごしごし拭う。それとも彼女以上に興奮していたとでもいうのだろうか?


やがて雪が本格的になり、横殴りの風が古い北の塔全体を揺らした。二人は身体を離したが、言葉を発することはできないまま。ただ、もう元の関係には戻れないだろうという確信が芽生えていた。リュシヴィエールは突然、着古したドレスを恥ずかしく思った。爪先が破れたのを繕った靴も。装飾品のひとつも身に着けていない指や首も。もっと着飾った姿をエクトルに見せたかった。そんなことを思う自分に愕然とした。


(わたくしは……姉、なのに)


「もう、帰ってくれ」


とエクトルが震えた声で言うので、はっと夢から覚める。彼はリュシヴィエールの目を下から覗き込み、挑みかかるまなざしで言った。


「――俺が妙なことをする前に。家で、眠って」

「……わかったわ」

「ありがとう。俺は……」


エクトルはほっとしたように息を吐き、肩の力を抜く。伏せられたふさふさした睫毛ごしに青い目は潤んでいた。


「いつか、あなたに相応しい男になったら。続きをさせてくれ」


リュシヴィエールは答えなかった。エクトルの目は夏の日に気味悪く思った父の目と同じだった。だが彼女は嫌ではなかった。本当に困ったことだけれど、エクトルなら、何も怖くなかったのだ。


エクトルと一緒に屋敷に帰る道のりが、やけに短かった。ゆるやかな丘をふたつ越えるだけのいつもの道が。クロワ邸がもっと大きく、敷地も広かったらと思うなど。


「じゃあ……」

「ええ……」


とぎこちなく頷き合う、使用人用の通用口で。エクトルはさかんにズボンで手を拭いていた。リュシヴィエールはそれに目を留め、そしてくすくす笑い出した。


「な、なんだよ?」


と凄んだつもりなのか、肩を怒らせるエクトルの美貌を両手で包む。ふてくされた子供そのものの顔を。赤ちゃんのとき、ぐずっていたのと同じ眉のひそめ方だった。彼はエクトルだった。たとえどう変質してしまっても、成長して手が届かないところへ行ってしまっても、リュシヴィエールの知っている少年だった。


「いいえ、なんでも! おやすみなさい、エル」


こつんとまるい額に自分のを合わせて、まだ湿った唇を見ないふりして、リュシヴィエールは彼の鼻先と自分のそれを擦り合わせる。十年前と同じ仕草で。


「何だよっ、もう――おやすみなさい!」


ぱっと彼女を振り払い、雪の中を駆け去っていく背中をリュシヴィエールは見送った。彼女のからからとした笑い声が雪に吸い込まれて消えた。


リュシヴィエールは決意を新たにした。エクトル自身が学園に入学し、王太子に接近すると決めたい以上、彼女では彼の決意を翻すことはできないだろう。頑固な少年なのだ。そして今は、そうしてクロワ侯爵の手駒となることが大人になるための最短の道だと思い込んでいる。思春期なのだ。危うい時期だ。


このことも含めて、早く思い出になればいいと思った。黒歴史っていうか中二病っていうか、そういうのに。きっとしてみせる。


(王立魔法学園でおまえが普通に暮らせるように。友人を作って、普通の男の子として生きられるように)


そして普通の大人になるのだ、彼は。そうしてみせる。そうでなければならない。


リュシヴィエールは幸福な気持ちで寝台に潜り込み、夢も見ずに眠った。


熱さに目覚めたのは深夜。壁にかけられた水魔法盤が熱のあまり解呪され、ただのガラスの盤に戻って床に落ち、砕けた。


「――えっ?」

「姉上!!」


彼女が身を起こすのと、エクトルが駆け込んでくるのはほぼ同時。


灼熱の炎が寝台の天蓋に燃え移り、燃え上がる。リュシヴィエールは悲鳴を上げて寝台から転がり出た。


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