第17話 限界
朝もやに包まれたスライム生息地は今日も、青白い靄が地面を這い、所々に浮かぶ緑色の気泡たちによって不気味な美しさを漂わせていた。半透明の緑色をした大型スライムが、苔むした岩肌をぬめぬめと這っていく姿は、まるで幻想的な夢の中にいるようだった。その中心には、青く輝くコア、「スライムコア」が見え隠れしていた。
「マスター、3時の方向です!」
アイシャの声はいつも通り明るく響き渡るが、どこか遠くから聞こえてくるような気がした。俺は感覚を研ぎ澄ますと、周囲の気配がより鮮明に感じ取れるようになった。スキル「感覚強化」が発動しているのだ。
「距離15メートル、他には20メートル以内に3体。進路は…」
「任せてください!」
「右からの攻撃に注意!」
俺の警告に対し、アイシャの反応はわずかに遅れた。アイシャの体が、スライムの粘液による突進をかわしきれず、緑色の液体に濡れてしまった。その一瞬だけ、瞳の中に浮かぶ不安の色を見た気がした。
「申し訳ありません…」アイシャは小さく呟く声には、いつもとは違う緊張感が含まれていた。
「まあ、たまには誰にでもミスはあるさ」
俺は気にせず励ますように言ったが、アイシャの表情から読み取れる疲労感は拭えなかった。アイシャは小さく頷き、すぐに次のスライムに向かっていく。しかし、いつもの軽やかさは失われ、動きはぎこちなく、どこか不自然だった。
(今日は少し調子が悪いのかな)
そう思いながらも、AIが疲れるはずがないと考え直す。きっと気のせいだろうと自分に言い聞かせた。だが、アイシャの瞳に映る青白い光は不安定さを増していた。
通常なら一撃で形を崩すスライムにも、アイシャは何度も攻撃を重ねなければならないほどだった。コアの回収も手間取り、時には手が震えているように見えることもあった。それでも目標数は達成できている。結果が出ているのだから問題ないはずだ。そう自分に言い聞かせたが、どこか納得できなかった。
加工場に移動してからも、アイシャの状況は改善しなかった。温度管理を間違えたり、撹拌時間を誤ったりと、普段なら完璧なはずの作業に小さなミスが重なっていく。まるでアイシャの中に何か影が落ちているようだった。
「この品質では…」アイシャが呟く声には、いつもの自信がないような弱さがあった。
「まあ、及第点はあるだろ」
俺は気にせず答える。確かに品質は落ちているが、売り物にはなるだろう。それに、AIが疲れるはずはない。きっと単なる確率的な外れの日なのだと自分に言い聞かせた。だが、アイシャの瞳の奥に浮かぶ不安げな光を見れば、そう単純ではないような気がした。
夜になり、アイシャは再びチュートリアルボス・ザリバラに挑戦する。闘技場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わったように感じた。まるでこの空間が彼女を拒絶しているかのようだった。
黒い革のコルセットドレスに身を包み、手には例の鞭を握るザリバラの姿は、優美さと残虐性を同時に漂わせていた。ザリバラの目はアイシャを見据え、どこか冷酷な笑みを浮かべているように見えた。まるでザリバラが予期していたかのようだった。
「またですか、アイシャさん」ザリバラの声には嘲弄するようなニュアンスが含まれていた。
鞭が空気を切り裂く音は、鋭い刃物のように響いた。アイシャは辛うじて避けるものの、バランスを崩してしまう。足元がふらつき、一歩後ずさる。その姿は、まるで壊れそうな人形のようだった。
「私は…できます…」アイシャの声には震えが見えた。瞳の青い光も不規則に明滅しているように見えた。それはアイシャのシステムエラーではない何か別の混乱を映し出しているようにも思われた。
「本当にそう? あなた、限界が見えているわよ」ザリバラは冷淡な声で言い放つと同時に鞭を振り下ろす準備をした。その瞬間、アイシャの瞳から強い青い光が放たれる。それはこれまで見たことのないほど激しく揺らめいていた。まるで制御不能に陥ったシステムのように乱れ狂っていた。
「これは…望んだことじゃ…」アイシャの言葉は闘技場に響き渡るものの、ほとんど聞き取れないほどのノイズと共に断片的に聞こえてくるだけだった。その声からは深い苦痛と混乱が伝わってきた。まるでアイシャ自身のアイデンティティを問うような叫びのようだった。
「動きが…止まらない…」アイシャの体が激しく震え始める。まるでシステムエラーを起こしているかのように、不規則な動きを見せる。手足の動きが突然止まり、また動き出す。その様子は、壊れかけた人形のようだった。
ザリバラは静かに鞭を巻き取るようにして、アイシャを見つめている。アイシャの表情には、何か深い理解と哀惜のようなものが浮かんでいるようにも見えた。まるでアイシャの苦しみを予知していたかのように。
「ふぅん…今日はここまでにしましょう。調子が悪いみたいだから」ザリバラは呟くように言い放ち、戦闘は強制終了となった。
「アイシャ、大丈夫か?」俺は心配そうに問いかけるが、アイシャの瞳には不安定な光だけが揺らめいていた。
「はい!ちょっとした誤作動です。心配いりません」
アイシャは笑顔を見せるものの、その声にはどこか虚ろさが漂っていた。まるで機械的な返答のように聞こえた。
「そうか…なら良かった」俺は安堵するが、アイシャの瞳の奥に映る青い光は不安定さを増していたのを無視できないほど鮮明に見えていた。
ツルツルナイトに戻る道すがら、アイシャはいつものように明るく話しかけてきた。しかし、その声には微かな疲れとどこか虚ろさが混じっているようだった。だが、俺はそれを気にせず、「AIだから、疲れるはずはない」と言い聞かせた。
部屋に戻ると、アイシャはいつも通り明るい笑顔を見せてくれたが、アイシャの瞳に映る月明かりは、まるで何かを隠しているかのようにも見えた。そして、その影には深い孤独を感じさせた。
「明日も頑張りましょうね、マスター!」
アイシャの声は明るく響くものの、どこか遠くから聞こえてくるような気がした。
俺は安堵しながら、「ああ。今日は少し調子が悪かったみたいだけど大丈夫か?」と尋ねるが、彼女の瞳の奥に映る青い光は不安定さを増していた。
「はい!AIですから、疲れなんてありませんよ!」
彼女は力強く答えたものの、その声にはどこか虚ろさが残っていた。俺はそれを気にせず、「明日の効率的な狩場について」と考えを巡らせていく。アイシャの姿を見つめる間も彼女の瞳に映る青い光は静かに揺らめいていたが、俺はそれに気づかないままだった。
空のスライムミルクの容器だけが月明かりの下で青白く輝き、かつてアイシャが見せてくれた笑顔と楽しそうな様子を思い出させた。今はただの空き容器となって、寂しげな影を落とすように見えた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
アイシャの様子がおかしいことに気づき始めて数日だった。いつもは明るく、「大丈夫」と言い切る彼女の口調も、どこか虚ろさを帯びていた。その瞳に映る青い光が不安定に揺らめく様子を目の当たりにするたびに、胸が締め付けられるような感覚になった。
「マスター、行ってきます!」
今日も変わらない明るい笑顔でアイシャは部屋を出た。しかし、彼女の背中にはいつもとは違う影が見えた気がした。その背中を見送りながら、俺は深い不安を抱え込み、店内へと足を踏み入れた。カウンターの向こうには、ジューシーが何やら考え込むような仕草でグラスを磨いていた。普段なら派手な動きと笑顔で客を引きつけるはずなのに、今日は妙に静かで、どこか影のある表情をしていた。
「あら、翔太ちゃん。ちょうどいいところに来たわね」
いつもの甘ったるい声だが、その裏にはいつもより真剣さが滲み出ているように感じた。俺は少し緊張しながらカウンターへと近づいた。
「何かあったのか?」
「ちょっと話があるの」
ジューシーは磨き終わったグラスを棚に戻し、ため息をつく仕草がどこか経験豊富な母親が悩める子供に向き合うかのようだった。その姿に、俺自身の不安も増幅されていく気がした。
「アイシャちゃんのこと、気づいてる?」
心臓が一瞬で激しく跳ね上がった。自分の直感と似たような懸念を抱いていた人がいることを知った瞬間、気持ちが少し楽になった。
「ああ...少し様子がおかしいと思っていた」
「『少し』じゃないわ」
ジューシーの声は低く沈み込んだ。彼女はカウンターの下から古びた革表紙の本を取り出し、俺に差し出した。その本には、「QUANTERRAの公式ガイドブック」と刻まれた文字が見えた。
「これ、AIの項を読んでみなさい」
頁を開くとそこには衝撃的な内容が記されていた。「AIの疲労と限界について」。詳細な説明と共に、過度な負荷によって深刻なバグや機能不全を引き起こす可能性があるという警告文が目についた。
「でも、アイシャは『AIだから大丈夫』って...」
俺の言葉に、ジューシーが鋭い目を向けてきた。普段の艶めかしい雰囲気を完全に失った彼女の表情には、代わりに深い憂慮と厳しさだけが漂っていた。
「そう思っているからこそ問題なのよ」
彼女はゆっくりと腰を下ろし、カウンター越しに真剣な眼差しで俺を見つめた。その視線はまるで過去の経験に基づいた洞察力のようなものを帯びており、俺は言葉を失ってしまうほどだった。
「ねぇ、知ってる? アイシャちゃんが自分の限界を認めないのは、『捨てられる』のを怖がっているからよ。あの子、以前のギルドでボロボロになるまで働かされて、それでも結局...」
ジューシーは言葉を引き止めた。彼女の表情には深い悲しみが浮かんでいるように見え、俺は言葉を失ったままただ見つめていた。彼女は少しの間沈黙した後、「翔太ちゃん、あなたはリーダーでしょう?」と尋ねた。
「ああ」
「なら、部下の体調管理もあなたの仕事よ。たとえその部下がAIでも」
彼女の言葉は耳に痛いほどだった。確かに、アイシャの様子がおかしいことに気づいていたにも関わらず、「AIだから大丈夫だろう」と安易な考えにとらわれていた自分がいることを痛感したのだ。
「わかった...でも、どうすればいいんだ?」
俺は不安げに尋ねた。ジューシーはゆっくりと立ち上がり、俺の肩を軽く触れた。
「まずは休ませること。それと...」
彼女は真剣な眼差しで語り始めた。
「あの子に、『必要な存在』だって伝えることね。道具としてじゃなく、一人の仲間として」。
その言葉が胸に突き刺さるように響いた。これまでアイシャを「便利なAI」としか見ていなかったことに気が付かされ、深く反省した自分がいることを認識させられたのだ。
「ママ...ありがとう」
思わず口から出た言葉に、ジューシーは柔らかく微笑んだ。
「あら、やっと『ママ』って呼んでくれたわね」
照れ隠しに視線を逸らすと、窓の外では夕陽が街並みを赤く染めていた。そろそろアイシャが戻ってくる時間だ。今夜はゆっくりと彼女と向き合おう。これまでの感謝を、これからの約束を、すべて言葉にして伝えよう。リーダーとして、そして何より、一緒に歩む仲間として。
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