番外編「大人の階段昇るかもしれない、今日はまだ大晦日さ」その⑤



「ところで、何に嫉妬しているの?」

「いや、別に大したことはないさ。男女のペアが多いんだなって思っただけだよ」

「乗客層の話?」

「ああ」

「ふうん。私は、そんなことに嫉妬する必要なんてないと思うのだけれど」

「え?」

「だって私たちも同じようなものでしょう?」


 雪月はこともなげに言った。


「あ……まあ、そうか」

「そうよ。おかしいわ、朝日くん」


 ふふ、と雪月が口角を上げる。青い目が細められ、目尻が下がった。色の白い顔に可愛らしい皴が寄る。


「……っ!」


 破壊力抜群の笑顔に僕は思わず目を逸らし、ドアの上の路線図を見た。目的地の駅まではまだ数駅あった。


「どうしたのよ朝日くん。なんだか落ち着きがないみたいだわ」

「そうかもな。多分、年末の浮かれた雰囲気に吞まれちゃってるんだろうな。おかげで会話のオチもつかないというか」

「うーん、今日はギャグのキレもイマイチみたいね」

「余計なお世話だ」


 そのとき、電車が大きく揺れた。


 きゃっ、と雪月が小さく悲鳴を上げて、僕の腕を掴んだ。


 突然のことで僕はバランスを保てず、そのまま雪月の方に倒れかかった。


 ヤバいと思って、空いていた方の手を電車の壁に伸ばす。


「…………」

「…………」


 気が付けば、僕は雪月を身体で電車の壁に押し付けているような体勢になっていた。


 壁に手が付くのが間に合ったおかげで、お互いの額がぶつからなかったのが不幸中の幸いかもしれない。だとしても、鼻と鼻が触れてしまいそうな距離に雪月の顔があるのが、文字通り目の前の事実だった。


 いつの間にか車内は僕らが電車に乗った時にも増して満員状態になっていて、とても身体を動かせるような状況じゃなかった。


「朝日くん……っ」


 雪月の吐息が耳元にかかる。


 僕は顔中が熱くなっていくような気がした。


「ご、ごめん。だけど離れようにも――」


 雪月から離れようと身を捩った僕だったが、やはり周囲に人が多すぎて身動きが取れない。


 何とか自由が利く足を動かしたとき、雪月が驚いたように身体を震わせた。


「あ、朝日くんっ!」

「ど……どうした!?」

「あ――当たってるわ」

「当たってるって?」


 僕が訊き返すと、雪月は顔を真っ赤にしたまま小さく首を横に振った。


「な、何でもないの。だけど、あまり動かないでくれるかしら」

「え? でも……雪月だって嫌だろ、こんなに近いのは」


 雪月が少し顔を動かすたびに、なんだか甘い匂いがした。


 シャンプーとは違う――多分。香水か何かの香りだ。長年の童貞生活の中で目覚めた僕の中のダンディな部分がそう告げている。


『いいかい朝日紫苑。かの名女優、マリリン・モンローはこう言ったんだぜ。『寝るとき身につけるのは、シャネルの香水を数滴だけ』ってな。』


 なるほど――何となくカッコいい知識を提供してくれてありがとう、僕のダンディな部分。どういう意味なのかは全く分からないけど。


「嫌じゃないわ」

「……えっ?」


 雪月の言葉に、思わず僕は声を上げていた。


 しまった、ダンディな自分と脳内で対話をしている場合じゃなかった。


「し――仕方ないわ。満員電車なのだから」


 そう言って雪月は、両手で僕の腰の辺りを握った。


「……!?」


 雪月を壁ドンしている僕と、そんな僕に両手でしがみつく雪月みたいな構図が完成した。


 そして相変わらず、雪月の青い瞳は僕の目の前にある。


「さっきみたいに転びそうになったら危ないじゃない。こうしておけば、その心配もないでしょう?」

「ま、まあ、それはそうかもしれないけど!」


 僕が答えたとき、再び電車が揺れた。


 倒れないようにするためか、僕の身体を必死につかむ雪月。


 そのせいで僕らの身体はより密着して、雪月の身体の最も主張が強い武運―――すなわち両胸が僕の胸元に押し当てられるような形になった。


 『痴漢電車』というワードが僕の脳裏を過った。


 いや、なんでこんな時にそんなワードが思い浮かぶんだ。誰かこの煩悩にまみれた脳をどうにかしてくれ。


 揺れが収まると、雪月は恥ずかしそうに目を伏せながら呟いた。


「わ、わざとじゃないのよ。仕方ないでしょ、電車が揺れちゃうんだから」

「あ――ああ、その辺は僕も理解してるよ。仕方ないよな、うん」

「ええ。仕方ないのよ」


 そう言いながら、雪月は僕の背中に腕を回した。


 それから、かすかに震える手で僕の上着を握る。


 ……いやこれってもう言い訳できなくないですか!? 僕に抱きついてないですか!?


『いいかい朝日紫苑、こういうときに焦っちゃいけないぜ?』


 こ――心の中のダンディな僕!


 教えてください! どうしたらいいんですか、僕は!? 僕は――雪月をこのまま抱きしめちゃっていいんですか!?


『男ならクールさを失っちゃあいけないんだぜ。お前は彼女にとってのつり革に徹するべきだ――それが男だ。彼女を支える存在であり続けることが、男の生きざまってものさ』


 え、本当にそれが男なんですか!? つり革に徹するってなんかちょっとダサい気がするんですけど!?


『お前にも――分かる時が来る。クラリスを抱きしめられなかったルパン三世の気持ちがな』


 ちょ、ちょっと! いきなり何の話なんですか!? あ、行かないでダンディな僕! 帰って来て! もっと具体的な指示をくださいよッ!! ……ああ、行っちゃった……。


 僕は再び路線図を見上げた。


 目的の駅までは、まだ数駅あった。





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