ひかりかがやく

高柳寛

第1話 目の前の暗闇と青信号

 これは私の中だけの妄想なのかもしれない。


 物心がついた時から、時折、私の目に映る男性の姿が「黒ずんで」見えたりすることがあった。それがはっきりと感じるようになったのは、小学6年生の頃、両親の実家へ帰省していた時であった。

 帰省中に私は祖父母との再会を楽しみ、普段は都内で暮らしているのもあって、いつもとは違う風景、ずっとまっすぐ続く道路、どこまでも終わりなく見える畑や田んぼ、しずかにさやさやと流れている小さな川などに気を引かれ、1人でぶらぶらと出歩いて迷子になったことがあった。

 知らない土地で、見慣れない顔のせいか、通りすがりの人に怪訝な視線を感じるたびに恐怖が増し、汗が冷や汗に変わるのを感じながらも、わからないなりになんとか来た道を戻ろうとしていた。

「どうしんたんだい?」

 そんな時、ひとりの優しそうなおばあさんがそんな私の姿に気づいたのか、声をかけてくれた。彼女のおかげで、私はようやく酸素を吸えたような気がした。

「お……ばあちゃんの……、おうち、わからなくなっ……て……」

 涙声で詰まりながらもそう伝えると、そのお婆さんは私の頭を撫でて、一旦家においでと平屋の一軒家へ私を招いてくれた。

 お婆さんは私の苗字、それとあと母親の旧姓を聞き、近所に住んでいる同じ苗字の人へ電話をしてあげるねといい、麦茶を一杯用意して私を椅子に座らせた。

「籠崎さんは、あまり聞かない名前だわね。お母さんのほうかしらねぇ」

 そう言いながらお婆さんが電話のために席をはずし、部屋には時計の秒針の音だけが響いていた。泣き疲れているのもあってか、目元の疲労もあって、風景もどこかぼんやりしていた。


 その時、ふとリビングを覗き込む影があった。その影は人の形をしていて、しっかりと目があり、私のことを見ていることがわかる。最初は先ほどのお婆さんかと思ったが、体格の違いから男の人だとわかる。そしてお婆さんの旦那さんにしては少し若い、とはいえ昨日会った、親戚の伯父さんと同じくらいの年齢に見えた。

「きみ、どうしたの?」

 その影が声をかけてきた。廊下が暗かったのだろう、リビングに入るとはっきりと男の人とわかるようになった。それでもどこかぼんやりと黒く霞んで見える。

 私はその異様な光景に驚き、何も返事が出来なかった。

「この辺で見かけない子だね、母さんが電話してたけど、迷子かな?」

 口調は柔らかく、優しい声であった。それでも、彼の周りに漂う黒い影が気になって仕方がなかった。まるで無数の羽虫に囲まれているように見えたのだ。

 男はそのまま私の横に座り、頭を撫でた。

「怖かったんだねぇ、もう大丈夫だよ」

 もちろん、その人のまわりには実際に羽虫は飛んでいなかった。彼の少し汗ばんだ少し不快な手は確かに私の頭を撫で、そのまま首筋へと降りて行った。

 その黒いモヤのせいもあったが、その男の手は私のカラダを強張らせて、恐怖で声の出し方も忘れてしまった。その手は首筋からそのまま背中をさするようになり、するりと唐突にお腹にたどり着いた。

「あんた!」

 電話が終わったのであろうお婆さんがリビングに戻ってきて、そう声を上げた。それと同時に私の体に張り付いていた手は離れ、彼は立ち上がった。

「そんな小さい子相手になにやってんだい……」

「な、何もやってないよ……」

 男の人がそう答えると、次第に黒いモヤは薄くなっていった。それはまるで体から出る湯気のようになるまで薄くなり、「ごめんね」と一言残して男はリビングを後にした。

「……全くもう。そう、それでねひかりちゃん。連絡ついたからお父さんたちが迎えにきてくれるって」

 お婆さんは優しく私のことを撫でてくれた。お婆さんからは先ほどの男のような黒いモヤは出ていなかった。


 こうして、私は無事に祖父母の家に帰ることができた。この出来事はこの時は誰にも話さず、ずっと私の心の奥深くにある種のトラウマとして閉じ込めたままにしている。

 そんな小学生最後の夏休みも終わり、何事もなく中学校へ進学していった。





「籠崎さん、ちょっとここの構成に変更があったんだけど」

 上司である植木さんからのチャットに、思わず胃が重くなるのを感じながらも、私は返信する。

「了解です。会話したほうが早いんで、通話していいですか?」

 短大卒業後に就職したIT会社のSE職が自分に合っていたのか、すでに私はこの会社では中堅レベルでいわゆる中間管理職の立場に就いていた。そして、全世界に猛威をふるった某ウィルスの混沌の裏側で、とうとうこのお堅い日本社会の中でもリモートワークが一般化し、その波が落ち着きつつある今でも、週に2〜3日は出社するものの、その働き方は続いている。

 仕事をしないと生活すら出来ない社会で、このリモートワーク制度はありがたいものであった。というのも、私は人、特に男性と関わることがあまり得意ではない。正確には「得意ではない」というより、もっと複雑な問題があるのだが。

 発端は小学生であったが、それが何かということに気付いたのは中学生の時であった。自分に対してなにか「ハッキリとしない悪意のようなもの」を持つ男の人に対して、黒いモヤのようなものが見えるような感覚がある。それこそ最初はみんなもそういう風に見えてるのだと思ってはいたが、友人たちと話すにつれてこの現象は自分にしか見えていないということに気付いて、その話をすることは無くなった。

 そのまま中学校を卒業し、高校に進学後も同じ現象が続いた。もちろん全ての男子がそういったように見えるのでは無かったため、一度は黒いモヤが出ることのない同級生と付き合ったこともあった。しかし、異性への恐怖感が拭うことが出来ず、結局その恋愛もうまくいかず、すぐに別れることになった。

 大学に進むともう男子を見るのも恐ろしいほどになった。まるで某探偵漫画の犯人のような男が多く、最初はアルファベットで判別していたが、その数は文字数である26を優に超えていった。自然と女友達だけで遊ぶことばかりになり、その中でそんな私の事情を理解してくれる親友もいる。その親友から大学を出たら就職だから少しは慣れていかないとというアドバイスを受け、一緒に克服を手助けしてくれた。

 そのおかげで、なんとか無事に社会進出することができた。なによりも会社という中ではそんな黒いモヤを持つ人間は大学に比べたら遥かに少なく、私は現代社会の人間関係の希薄性に感謝する稀な人間であった。

「構成図の修正おわりました。また何か変更があれば連携おねがいします」


「ほんと、リモートって楽だわぁ」

「ひかりのところはまだリモートなんだ、うちなんてもう来月から全員出社よ」

 親友であるラミアがぼやきながらハイボールをグビリと飲む。

 ラミアは漢字で書くと来未明。キラキラネームも終焉かと思われた頃に生まれたキラキラネーム絶滅危惧種だとよく自分でネタにしていた。その名前のせいで鍛えられたメンタルのおかげなのかわからないが、とても明るい性格で恐れるものを知らず、物事に対してとても柔軟に対応することができるなんとも器の大きな女性である。

 この人にならと思い、私は黒いモヤについて相談したところ、彼女は真剣に悩み、手助けをし、閉じかけた心の扉を開いてくれた恩人だ。

「まぁ、会社に行ったところでここ最近はそんな黒いモヤを見ることも少なくなったけどねぇ」

「それって、年齢のせいもあったりするかも」

 冗談めいた感じでラミアはいう。

「それは禁忌じゃて……」

「間違いない、もうすぐ三十路かぁ」

「やめろ!」

 そんなやりとりの中で本日の盛り合わせで頼んだ焼き鳥がテーブルを囲む光景を見て、今は今で幸せじゃないかとも思える。

「まぁ、そんな変な気を持って近づいてくる人がいないってことはほんと私にとっては救いなのよ」

「だからぁ、前から言っているとおり、男ってのは多少変な気持ってるもんなのよ。だからこそ恋愛だって成り立つわけ。あの短大でわかったでしょ? ひかりの理想とするような誠実で純粋無垢なやつなんてほほとんどいないんだから」

「でも、高校の時に……」

 ラミアは私の口に砂肝を突っ込んでくる。

「なんっかいも聞いたわその話。結局何すればいいかわからなくて別れたんでしょうよ」

「ぐぬぬ……」

 私は何も言えなくなり、ネタのような返ししかできなかった。

「私にはそういうモヤみたいなものを見えたことないから、そこだけはわからんけどねぇ。モヤがあるから全否定するところはもうちょっと緩くしてもいいと思うけどね。それで人を拒絶してるなんて人間関係で損している部分もあると思うのよ」

 ラミアはまたハイボールをぐびりと飲み、畳み掛けてくる。

「見え始めたきっかけがきっかけだからさ……、なんか怖いんだよねぇ。それにほら、今は恋愛だってするもしないも自由な時代じゃない。男女ともにさ」

 私はうまい具合に話の筋を変えてみる。

「まぁ、それはほんとにそう。古の風習のお見合いとかは良い迷惑でしかないよね」

「そうそう仕事だってなんも問題ないし、貯金して死ぬまで生きていければそれでいいなーっていう」

「やべー、貯金とかあんま出来てねぇ」

 話の流れが変わり、私は安堵したけれども、ラミアは頭を抱えた。

 彼女は明るい性格ゆえの浪費家である。そしてオタクでもあり、得た給料のほとんどがグッズやライブやそういった関係の飲み会などで消えていくのだという。

「きっとさー、私は寂しいんだよ」

 頭を抱えて俯いたままラミアが言う。

「どうしたのよ、急に」

 ある程度はお酒に強いと思っていたラミアがふと愚痴を漏らしたので、思わずツッコミを入れてしまう。

「先月、わたし誕生日だったじゃない? 昔はなんかみんなあつまって〜とかやってたけどさ、あ、まぁあのコロナの件もあったからってのもあるけど、あまり直接会うっていうのなくなったじゃない?」

「まぁ、それはあるね」

「んでさ、よくよく考えてみたらみんな結婚して子供産んでたりとかで、あんまり連絡も取らなくなっちゃって……。友達との距離がなんだか離れていく感じがさぁ〜……、いやわかるよ、友達の優先順位が下がるのはわかる、それでもさぁ……」

 話の途中だったが、私は思わず注文履歴を確認する。彼女が頼んでいたのはハイボールだったのを確認した上でそこに超濃厚の文字を見て、ただ悪酔いしているだけだと少しばかり安堵した。

「まぁ、お互い孤独死だけは避けたいけどね」

「ほんとそれよ! 腐った死に様を他人に見られるのとかしんどすぎる」

 ラミアは改めてハイボールを流し込み、一息置いて続けた。

「……いうて、恋愛なんてもうやりかたすら覚えとらんわ」

 その後、酔ったり覚めたりを繰り返しながら好き勝手に語るラミアを見ながら飲み放題の時間が終わり、解散となった。

「ひかりぃ〜、付き合ってくれてありがとうねぇ」

 酔いがのこっている彼女と別れるとき、満面の笑みでそう言って手を振っていた。

 1人で駅から家へ歩いていく寒空の下、会話の流れから言ってしまった「孤独死」という言葉が頭から離れなかった。


「本日、豊島区のアパートにて50代と見られる女性が亡くなっているのが発見されました、遺体は既に亡くなってから数日経過しているとのことでした。では、次のニュースです……」


 考えるには容易すぎる。まぁそう考えてもそもそも男の人が苦手な私が結婚以前に付き合うことなんて無理だと思っているし、もし結婚したとしても、私は子供が欲しいとも思っていないので、旦那が亡くなってしまうと、結局は孤独死の問題が堂々巡りしてしまう。そもそも孤独死が嫌で結婚するなんてどんな理由だと思わず鼻で笑ってしまう。


 では、なぜ人は結婚なんてするんだろう。イヤホンをつけたのに音楽を流さないまま、私は歩みを進める。私は恋愛を避けて通ってきた。それこそさっきも言った通り、高校の時に付き合ったことがあるということがあったのもあって、恋愛を通ってきたように思い込んでいただけである。結婚以前の問題であった。そもそも結婚が恋愛の延長線上にあるものなのかすらもわかっていない。

 考えれば考えるほど自分の中で欠けているものが多々あるのを感じてしまう。そしてそれはラミアも言っていた人間関係の件だろう。私は今まで、恐怖対象としてしかモヤを持つ人間を見てこなかった。ただ、それは本当に恐怖対象とするものなのか、そろそろ一旦自分のことを見直してみるのも良いのではないか。

 大通りの信号で赤信号となり、私は足を止める。不意にため息が出てきた。

 今日上司から修正が入った構成図、それは外部ネットワークと内部ネットワークを分けるためのセキュリティ機器の追加であった。外部からの攻撃を守るためのものだ。内部を守るのはネットワーク設計としては当然のあるべき姿である。安全なものは何もなく、全てを信用すべきではないというようなゼロトラストセキュリティの概念からいっても間違いではない。

 ただ、人間はどうだろうか。もちろん昨今自分のことを守るのは大事なことでもあるが、それが攻撃だけではないことだってあるし、攻撃だったとしてもその攻撃からも学べるものがあったりするかもしれない。

 機器でさえそれを制御したり、学習することができる、そして必要なものだけを通すことができるのだ。

 私は機械ではないので0と1のみでの判断なんてできない、それでも自分のことを制御するのは結局は自分次第だ。


 今、私の生存確認をしてくれるとしたらそれはラミアだけ。そんなラミアが寂しさを口にしている様子からすると彼女が独り身でいるのもそう長くはなさそうであった。

 今まで私が歩いてきた道はもしかしたら俗世間的にいうならば大通りから外れた路地なのかもしれない。でも路地だって道は続いているし、色々問題だってあるし、もちろん分岐点だってある。なんだったら別の大通りにつながっていることもある。

 もうすぐ20代も終わると言うところで、私は少しばかりの新しい挑戦をしてみようかと、青信号になった横断歩道を歩き始めたのであった。

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