第26話 髪
食事の席に、辺境伯とレニーが姿を現さなくなった。
おそらく修行にかかわることだろうとアレクシアは思ったが、ここ十日ほど彼らの顔を見ていないのでさすがに心配になってくる。
アレクシアと一緒に食事をしているフィオナは「お父さまは傷だらけのときはわたしに気をつかって姿を見せないことがよくあります」と言っており、慣れた様子だった。
だが慣れているからと言って平気なわけではなく、やはり心配そうではある。
そのため、アレクシアはなるべくフィオナの気を紛らわせようと、散歩に誘ったり簡単な勉強を教えたりするようになった。
アレクシアはフィオナのことを心底かわいいと思っている。
散歩のときにすべすべの小さな手をそっとつないでくるのもかわいいし、出した問題に答えられたことを褒めると頬を染めてうれしそうに見上げてくるのもかわいい。
自分にも母性本能のようなものがあったのだと、フィオナと関わるようになって初めて気づいた。
今日も夕食後にフィオナの部屋に行き、話をしながら彼女の髪を梳いていた。
「フィオナ嬢の髪は真っ直ぐでサラサラで本当に美しいですね。わたくしはくせ毛なのでうらやましいですわ」
子供特有の柔らかく手触りの良い髪に触れながら、鏡越しにフィオナに話しかける。
フィオナがえへへ、とうれしそうに笑った。
「わたしもアレクシアさまの髪がうらやましいです。銀色でキラキラで、おしゃれに波打っていてすてきです」
アレクシアの口元に笑みが浮かぶ。
(娘がいたらこんな感じなのかしら?)
今まで結婚について考えることはあったが、その先の子供を授かるということに関してはあまり深く考えたことがなかった。
だがフィオナがあまりに可愛くて、子供というのもいいものだと思い始めている。
「さあ、そろそろベッドに入りましょうか?」
「はい。あの……」
フィオナがもじもじする。それを見て察した。
「ベッドに入ったら、物語をお聞かせしますわ。そしてフィオナ嬢が眠ってからわたくしも部屋に戻ります」
フィオナの表情がぱあっと明るくなる。それを見て胸が温かくなった。
まだ幼いのに人に気を遣いすぎてしまうところがあるフィオナが、こんな風に甘えてくれることがうれしくて仕方がない。
「すごくうれしいです。でも、それだとアレクシアさまのねる時間が遅くなってしまいませんか?」
「わたくしは大人なので大丈夫ですよ。わたくしがそうしたいのですから、お気になさらずに」
「わかりました。ありがとうございます」
もそもそとベッドにのぼる小さな後姿を微笑しながら見つめ、ベッドサイドに置かれた椅子に座る。
母によく聞かせてもらった物語を聞かせると、フィオナはうれしそうに聞いていた。
やがて物語が終わり、フィオナがうつらうつらしはじめる。
それを見ていると、アレクシアもなぜか眠くなり――気づいた時には椅子に座ったままベッドに突っ伏して眠っていた。
目を覚まし、時計を見てぎょっとする。もう日付が変わる頃だった。
(眠ってしまうなんて……最近気持ちが落ち着かなくて眠りが浅かったせいかしら)
灯かりを落とし、そっと部屋を出る。
借りている部屋に戻ろうと階段を下りようとしたそのとき、階段を上がってくる足音に気づいてアレクシアの動きが止まる。
姿を現したのはレニーだった。
彼も踊り場で足を止める。その表情は薄暗くてよく見えない。
(そういえば夜に見かけても傍に寄るなと言われているのだったわ。でもこの状況、どうしたら)
逃げるようにフィオナの部屋に戻るのは変質者にでも会ったような反応で気が引けるし、かといって無視して通り過ぎるということもできない。
アレクシアは仕方なく階段の端に寄り、「ごきげんよう」と声をかけた。
レニーがぺこりと頭を下げて「こんばんは」と挨拶を返し、ゆっくりと階段を上がってくる。
あらためてその姿を見てぎょっとした。
あちこち包帯だらけ、生傷だらけ、傷跡だらけ。服も一部切れている。
「修業は、過酷なようですわね……」
「たいしたことはありません」
言いながら、彼が一歩一歩階段を上って近づいてくる。なぜかアレクシアは緊張した。
アレクシアより二段低いところで、彼が止まる。そうすると、いつもより彼の顔がよく見えた。
少し痩せたようで、顔の精悍さが増している。頬にも生々しい傷が走っていた。
「今までフィオナ嬢のところにいましたの。一緒に眠ってしまっていたようです」
言い訳じみた言葉が口から出る。
彼は微笑を浮かべた。
「フィオナを気にかけてくださってありがとうございます。俺も父も、今はこんな有様なので。あなたがいてくだるおかげで、寂しい思いをせずにすんでいることでしょう」
「フィオナ嬢はとてもかわいらしくて、わたくしが癒されていますわ」
「それはよかった」
そこで会話が途切れる。
見られていることが、なぜか落ち着かない。
「修行の成果は、順調なようです。戦いの最中、だいぶ自制がきくようになってきました」
「! それは良かったです」
「おそらく砦での実戦が最終テストとなるでしょう」
「……そうなのですね」
いよいよ魔獣と戦うことになるのかと思うと、不安になってくる。
「心配はいりません。……それよりも、夜の廊下は寒いのに立ち話に付き合わせてしまいましたね。申し訳ありません」
彼は以前のようにポケットからハンカチを出して手をごしごしと拭き、その手を差し出してくる。
部屋まで送ってくれるということだろう。
その手がいつもより熱いことに驚く。
首筋にも汗が浮かんでいるし、前回も暑そうだった。おそらく剣気を使ったあとはこうなるのだろうと思った。
階段を下りきったところで手を離し、彼が少し先を歩く。
広くたくましい背中が目に入った。
彼はこの背中にヴァンフィールド辺境伯領を背負おうと必死なのだろう。
支えたいと、初めて思った。
彼がこの地を背負っていくというのなら、その彼を傍らで支えていきたいと。
(ああ……やっぱりわたくしは、この方のことを……)
彼が振り返る。心のうちを読まれたようなタイミングでドキリとした。
だが実際は部屋の前に着いたというだけである。
「送ってくださってありがとうございました」
微笑を浮かべてレニーを見上げる。
彼の瞳が一瞬、揺れた気がした。
「アレクシア嬢」
「? はい」
「あなたの……髪に触れたい」
予想もしていなかったその言葉にドキッとする。
異性の髪に触れるというのは、親密な間柄でなければしない。
親密になることを望んでいると言われたようで、頬に熱が集まるのを感じた。
だが、決して不快ではない。
「……婚約者なのですから、髪に触れるくらいかまいませんわ」
その言葉を受け、彼は手を伸ばしてアレクシアの髪をひと房すくい上げた。
感触を楽しむように指で梳き、指に絡める。
その手元に注がれていた視線が上がり、アレクシアと目が合う。
彼は何かを言いかけ――唇を引き結んだ。
そして髪から手を放す。
「突然このようなことをして申し訳ありません」
「……いいえ、わたくしがいいと言ったのですから」
「ありがとうございます。おやすみなさい、アレクシア嬢」
「ええ、おやすみなさいませ」
部屋に入っても、心臓はしばらくの間激しく動き続けていた。
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