第35話

「忘れました」

「え?」

「私が忘れたことを、殿下が気に病む必要はないんです」

 殿下が驚いた顔をしている。

「それって……許してくれると……あれは、確かに不可抗力だったのも確かだったが、それでも俺はシャリナにしてはならないことを……」

 だから、それが何なのか本当に分からない。

 下手に何も言えない。

 藪蛇になるといけないから。

 本当に、何があったのか。

 3年の間に……。

 ルゥイが関係していることは間違いないとは思うんだけど……。

 女遊びを始めた殿下を私が諫めた?諫めた私に罰を下した?でもその結果ルゥイができて相続問題とか起きそうになって結局私を頼ることになった?

 この線かな?ありそうだ。

 ルゥイが居てよかったって思うから。むしろ私の幸せはルゥイあってのことだ。今幸せだ。

 例え貴族としての生活がもうできなくなったとしても。

 貧乏伯爵家育ちだし。海外での生活は今よりももっと過酷なところもあったし。

 殿下は何より、苦しんでいるし。

「私は、忘れました」

 もう一度、先ほどよりはゆっくりと言葉を口にする。

 実は本当に忘れているのだけど……。

「シャリナ……あの日のことは、許してくれるのか?」

 もういいですよ。

「手を……手を取ってもいいか?」

 手を?

 ああ、私はもう貴族として生活をしていない。ガサガサでみっともない手をしている。

 見られるのが嫌かもしれないと気を使ってくれたのかな?

 私は、この手を恥ずかしいとは思っていない。

 ルゥイの頭を撫でる。ほっぺたのパンかすをつまむ。ルゥイを抱っこする。

 そして、ルゥイと手をつなぐ。全部この手でしているのだから。

 手を前に差し出すと、リンクル殿下が小刻みに震える手を伸ばしてきた。

 本当に許されたのか不安で緊張しているのか。

 そこまで、心の重荷になっていたの?

 殿下の手が私の手に触れた。そのとたんに、殿下の手の震えは止まった。

 そっといつくしむように私の手を優しく握りしめる。それから、もう片方の手で、私の手のペンだこに触れた。

「シャリナの手……だ。間違えるはずがない……」

「ふ、ふふ。くすぐったいわ、殿下」

 あまりにもそっと撫でるものだから、くすぐったくなって笑いがもれた。

「シャリナ、笑ってくれるのか……俺に……」

 え?

 驚いて顔を上げる。

 この3年で背も伸びて、こんな風に見上げないと顔も見られないんだなぁ。

 リンクル殿下なのに、まるで別の男の人みたいだ。

 自然と出た言葉にびっくりする。

 男の人……。

 そうだ。

 殿下は成人したのだ。もう、男の子じゃない。

 男の人なんだ。

 子供じゃない……。

 思い出の中の殿下は成人前で……。

 身長が伸びても、声変わりしても、でもそれは子供の変化でしかなくて。

 今の殿下は、大人なんだ。

 成人の義も終えた……。

 王族の成人の義の一つに、女性の扱いを学ぶためのものがあるのだから……。

 きっと私よりももう大人だ……。

 3年の記憶は失っているけど、私は独身だ。結婚もしていないのに男性と関係を持つことなどないだろうし……。

 ルゥイを育てるのに必死で恋愛どころではなかっただろうし。

 ルゥイの顔が浮んだ途端に、違和感を感じる。


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