あまりもの令嬢は、婚約解消を言い出した残念王子を褒めちぎりたい

有沢楓

第1話 残念な王子様は、どうやら婚約解消したいらしい

「了承しておりません」


 私、アイリス・オースティンは、21年の壁の花人生で培ってきた渾身の当たり障りのない微笑を浮かべて、ご提案を拒否しました。


 たった1メートル先、机を挟んで座っていらっしゃるメイソン殿下の形の良い褐色の目が細められると、少しばかり険のある表情になります。

 癖っ気の、深いダークブロンドの髪が前傾姿勢を取ったので、ふわりと揺れる姿と相まって素敵です。

 御年は22歳、私よりひとつ年上。

 今すぐ褒めたい衝動にかられたのですが、流れる空気はどちらかと言えば緊張に近いもの。今は控えておきます。


「婚約は解消すると伝えたはずだ」


 メイソン殿下は鋭い声で、たった数秒前に私が断ったばかりのご提案を繰り返しました。


「正確には『解消したい』、です、殿下」

「同じことだ」

「国王陛下とオースティン侯爵家との同意のもとに行われた婚約ですから殿下の一存では。たとえお互いに婚約相手が見つからなかった末の婚約だとしても」

「陛下はこちらで何とかする。

 ……今まで顔合わせなども、婚約前に数度しただけ。それも、義務的な。アイリス嬢の方こそ解消に不都合はない、いや望ましいはずだ」

「それもお互い様です、殿下。でなければ寡黙な方かと思っていました」


 殿下は渋面を作りました。決して揶揄ではないのですが。


「ではなおさら、貴女が私と婚約を継続したい理由が分からないな」

「一度ご承諾されたものを覆す理由こそ、お伺いしたいのですが」


 殿下は立ち上がりました。これ以上の会話は殿下の胸のあたりまで積み上がった書類の山が邪魔だと思われてのことでしょう。

 こちらに回ってくると、丁寧に来客用の椅子をお勧めになろうとして、私の足元の荷物――大きなトランクに目を止められました。


「それは、まさか?」

「しばらくこちらにご厄介になろうと思いまして」

「は? 君は馬鹿か。侯爵令嬢がこんな北の果てで暮らすなど――」


 そう仰られてから、殿下ははっと気づいたように口元に手を当てられると、深く頭を下げられます。


「……大変失礼した。とにかくかけてくれ。――バーネット、お茶を」


 今まで壁際で控えていた従者の方が、呆れたような表情を残して部屋を出ていきました。

 扉が開いたときに廊下から冷気が入り込みます。殿下の執務室では暖炉がぱちぱちと音を立てて部屋を暖めているのですが、ここは王国でも最北端を臨む地域。

 もう秋も終わりかけていますから、つい数日前までいた王都で調達した服では肌寒いくらいです。

 殿下はわざわざブランケットを取って渡してくださいました。

 私はありがとうございます、とお礼を言って、次に非礼を詫びました。


「いいえ、殿下がお怒りになるのも当然です。手紙でお知らせしただけで、お返事を待たず王都から飛び出してきてしまったのですから。

 ……それで婚約してすぐ殿下がこちらにいらしてから、半年間。手紙のやり取りくらいしかありませんでしたが、急に解消を決意されたのはどのような心境のご変化ですか」


 私が尋ねると、殿下は気難しげな顔に眉根を寄せてもっと難しい顔になりました。




 王国の第八王子であられるメイソン・ウィンズベリー殿下と、いくつかある侯爵家の中でも、ぱっとしないけれど古い血筋を持つオースティン侯爵家の4番目の子である私、アイリス・オースティンの婚約が調ったのは、つい半年前のことでした。


 国王陛下はお子様に大変恵まれ、第13子であるメイソン殿下の下にも二人のお子様がいらっしゃいます。

 王太子殿下をはじめそのどなたもがご優秀で重要な役職に就かれていまして、そんな感じなので名だたる家のご評判のご令嬢は、メイソン殿下のお相手探しの順番が回ってくるまでにご結婚またはご婚約をされてしまいました。

 いわゆる下位の爵位の貴族まで打診やお相手探しのお茶会などを開きながらも、一向にお相手が見つからないことに、国王ご夫妻は大変ご心配、苦心されたそうです。


 ただしお相手探しが難航した主たる理由は他に二つあったようです。

 ひとつには、メイソン殿下ご本人に結婚したいというご意思があまりなかったこと。

 もうひとつには、何でも噂によると残念王子という評判が立っていたことです。


 殿下も端正と言って良いお顔立ちで、所属されています騎士団のお仕事では実績を残されています。

 ただ、ご兄弟がたが華やかなお顔立ちと素晴らしい経歴のせいか、目立たないそうで――更にご兄弟の奥様がたまでが負けず劣らず素晴らしい方々となれば、そこに飛び込む勇気はなかなか持てないのでしょう。

 不敬な表現ですが、ご兄弟の殿下がたが王宮に飾られる絵画や金の壺であれば、メイソン殿下は考古学博物館に保管されているような……といえば良いのでしょうか。


 そこで、とうとう家格がつりあいそうな我が侯爵家の、似たような状況に耐えられそうな――兄弟で一番目立たず、社交界から存在を忘れられている私に、陛下が白羽の矢を立てられたのでした。


 私はむしろ、兄弟姉妹はおろか他の令嬢が次々に婚約者が決まる中、何時まで経っても婚約者が見付からず、「あまりもの令嬢」と自負しているくらいでしたから、恐れ多いとお断りを差し上げたくらいなのですが、まあ、王家からの頼みとあれば断り切れませんでした。


 ちなみにあまりもの、と言っても決して家族仲が悪いのではありません。両親の美貌を受け継いだ華やかで才気あふれる兄弟の中、顔立ちも仕事も最も地味なのです。

 おまけに髪は黒々として瞳は紫。美人でしたら魅惑的にも神秘的にも見えることは家族の存在で十分に理解しているのですが、地味顔には地味を引き立てる酷な暗色です。暗すぎて貴族たちの華やかな夜会ではかえって目立つと、物陰に立つことを覚えてしまいました。


 陛下は一応両者の意思を尊重してくださったので、確か三回の顔合わせ――本当に黙ってお茶を飲んで顔を会わせるような――を過ごした末に、不快感などもなく、この方となら穏やかに結婚生活を送れるのではないかとお返事したところで婚約が成ったのでした。


 ……でしたが。

 婚約からすぐ殿下はお仕事の都合で、今私がいるこの北の地に栄転されてしまったのです。

 それからも手紙のやりとりはあるものの当たり障りのない挨拶だけに終始し、そして――先日、突然殿下から、婚約を解消して欲しいというお手紙が届いたのでした。


「手紙では良くも悪くも変化のないやり取りでしたので、急なことに驚いています。もしやこちらで好きな方ができたとか」

「違う。理由は手紙に書いた通りだ」

「それではますます、婚約を解消する理由がございません」


 私が殿下に微笑みかければ、殿下の頬がほんのりと赤く染まりました。きっと照れていらっしゃるのでしょう。いや、怒っているのかも。


 ちょうど先程のバーネットさんが戻っていらっしゃって、木製のトレイから――きっと冷えないためでしょう――白磁のポットを取り、湯気の立つ紅茶を注いでくれました。


「だから、栄転、ということは結果を出すまで――いつ王都に帰れるか分からないんだ。恥を忍んで言えば、当初の想定より難航している」


 紅茶に口を付けると、暖かくて美味しくて、ほっとしました。良い茶葉のようです。

 殿下も同じようにお茶を飲まれれば、口元も少し緩まれたようです。私はお茶が大好きなので大量に持ち込んできましたが、ここで浮いたりせず、むしろお出しできそうで嬉しいです。


「王都で式だけしたところで、すぐに北に戻る羽目になれば、社交の負担も親戚づきあいも何もかもアイリス嬢に任せることになる。

 政略結婚だが、だからこそそのような孤立をさせる訳にはいかない。……聞いているのか」

「はい。殿下のお心遣いが身に沁みます。確かに私たちは政略結婚でしたが、いえ、『でしたら』そうでしょうが」


 たとえば。

 何度舞踏会で顔を会わせようが気にも留めていなかった、その場限りの退屈しのぎの話し相手。そんな異性に思いがけず愛を告げられた途端、胸が高鳴って、相手の一挙一動が気になって、恋に落ちてしまう――なんてことが世間のご令嬢の中ではままあることらしいです。


 勿論その後に爵位だの財産だの両家のつり合いだのの問題が立ちふさがることもあるのですけど――ということは、その相手が、両親どころか両家の合意に基づいて結ばれた婚約者であれば問題ないのでした。

 そう、まったく。


「……?」


 訝しげな顔をされる殿下ですが、こうやって向き合って話を聞いてくださることこそが殿下の良いところ、だと思います。


「普段口数が少ないのに、今日はこうして話してくださって」

「いや、アイリス嬢こそ……?」

「ますます、結婚する意思が固まりました。

 私が今日こちらに参りましたのも、殿下をお慕いしているからです」


 そう申し上げれば、耳まで真っ赤にされて絶句される姿もとてもお可愛らしく――ええと、上から目線で失礼でしょうか。

 初めて見ました。私が画家なら今すぐスケッチしたいくらいです。


「は? 君は、今まで、そんな素振りなど、一度も……」

「婚約破棄のお手紙に一目惚れいたしました。

 婚約破棄のお申し出のお手紙が大変、便箋や封にも気を遣っていらして、途中で日をまたいだのかインクの色が違っていまして、大変悩まれたあとが窺えました。

 そんな殿下は大変心優しい方ではないかと」


 絶句する殿下に、隣のバーネットさんも絶句されていますが、まあ、確かに王都から遠く離れたここに、わざわざ侍女の一人も連れずにこんなことを話しに来たのですから、そう思うのも当然でしょう。

 私だってそう思います。

 当初は先にお手紙でのやり取りをして、らちが明かなければ来るつもりでした。

 だからここに来たのは。


「ですが私がここに参りましたのはこのお話をするためだけではありません」

「と、いうと?」

「確か殿下はこちらの城の冬支度に困られているとか、先日職場で耳に挟みました」


 職場とは殿下もご存知の、王城内で薬の生産管理等を一手に引き受ける魔術師団の部署のことです。


「注文は傷薬100箱――まさかそのトランクの他に」

「いいえ。ご希望の傷薬100箱に加えて解熱剤や解毒剤なども作れて、おまけに簡単な診断と手当ができる薬師アイリス・オースティンです、婚約者様」


 メイソン殿下は今度こそ目を大きく見開きます。

 私はどうやら、機先を制することには成功したようでした。

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