第40話 約束

 リビングからお母さんと、お父さんの喧嘩する声が聞こえる。ベッドの中、れんは怯えて泣いていた。


「大丈夫だからね」


 わたしはれんをぎゅっと抱きしめて、あやすように頭を撫でる。わたしは泣かない。だってお姉ちゃんだから。わたしが泣いたら、れんを守る人がいなくなるから。


 お父さんはいつからか、中々家に帰ってこなくなった。そして、たまに帰ってきても、お母さんと喧嘩して、また家に帰らなくなる。そんな繰り返しだった。この前、テレビで見た、りこんって文字が頭をよぎった。


 もしかしたら、家族で暮らせなくなるかもしれない。

そんな不安を振り払うように、わたしはれんの身体をぎゅっと抱きしめた。


 しかし、そんな不安は現実のものとなった。


 ある日、珍しく家に帰ってきたお父さんは自分の部屋に、わたしとれんを呼んだ。

 それから、ぽつり、ぽつりと言葉を並べた。


「お父さんはもう、愛やれんと一緒に暮らせないんだ」


 ごめん。ごめんな。


 そんな呟きを何度も繰り返しながら、涙を流す。わたしたちの前ではいつも明るく振る舞うお父さんのそんな姿は初めて見た。お父さんに釣られるように、隣でれんも泣いていた。


 わたしは泣かなかった。だって、わたしが泣いたら、お父さんを責めることになるから。

 嗚咽の響く部屋の中、わたしはれんの小さな手をぎゅっと握りながら佇んでいた。


 家からお父さんがいなくなった。お母さんも仕事で、日中は家を留守にする。帰りが遅い日も少なくない。わたしたちは、放課後も生徒を預かってくれる学童保育に入った。


 お母さんの帰りが遅い時のリビング。頻繁に、れんは涙を流した。わたしは、れんが泣くたびに、膝の上にれんを乗せて、後ろから抱きしめた。小さなれんの身体を覆うように。それから、あやすように頭を撫でる。そうすると、安心するのか、れんは程なくして泣き止む。


「おねえちゃん、ありがと」


 泣いたことが恥ずかしいのか、真っ赤な頬でそう告げられるたびに、わたしは思う。


 お姉ちゃんとして、わたしがしっかりしなきゃ。


 そんな責任感でわたしは一度も泣かなかった。



 夕暮れに包まれた街並み。田んぼに囲まれた風景の中、今日もわたしとれんは手を繋いで帰る。れんの小さな手を引くようにして。


「今日はお母さん早く帰ってくるかな」

「......もしかしたら、また遅くなるかも。お母さん、お仕事忙しいから。けど、それはわたしや、れんのことを嫌いになったわけじゃないんだよ。わたしたちのために、お母さんはお仕事頑張ってくれてるんだから、良い子にして待ってようね」


 わたしはれんにそう言い聞かせる。れんは涙がこぼれるのを必死にこらえながら頷く。わたしはれんの頭を撫でる。


 そんな折だった。前から、親子連れの二人が歩いてきた。背の高い父親が、小さな女の子を肩車している。そんな光景。


 ふと、昔の思い出がフラッシュバックした。お父さんの肩の上、自分とは段違いに高い、どこまでも広がるような風景。わたしが落ちないように抱えるお父さんの手の、暖かさ。


 それと同じ熱が頬を伝った。


「おねえちゃん……?」

「あれ、なんで」


 気づいた時には視界が歪んでいた。そして、堪える間もなく、涙があふれた。


 呆然と、頬に伝う温度を味わう。喉から、嗚咽が溢れる。


「ごめん、れん。大丈夫だから」


 わたしは必死に、目元をぬぐう。わたしはお姉ちゃんなんだから、泣いたらダメだ。泣いたら、ダメなのに。


 それでも止まらない涙。それを必死にぬぐい続けていると、ぼやけた視界の隙間から、小さな温度が、頭に触れる。


 目の前で、れんが背伸びをして、わたしの頭を撫でた。


「泣かないで。泣かないで、おねえちゃん」

「ありが、とう」


 わたしは嗚咽の隙間から、なんとか言葉を絞り出す。


 夕焼けの中、オレンジ色に滲む視界を眺めながら、佇んでいた。すれ違った親子の姿はもう見えなかった。ただ、れんの小さな手のひらの温度だけを感じていた。


 どれくらいそうしていただろう。唐突にれんの手が離れる。わたしは思わず、涙の隙間かられんの顔を見つめる。


 れんはこちらをじっと見据え、意を決するように大きく息を吐いた。それから、私の涙を吹き飛ばすように、力強く、告げる。


「私、大きくなったらお姉ちゃんと結婚する! お姉ちゃんが寂しくないように、泣かないように、ずっとずっとそばにいる。お姉ちゃんの隣にはいつだって、私がいるから」


 そう言って、れんはわたしの小指に、小指を絡める。


「約束」


 れんは必死に涙を堪えて、笑う。わたしを安心させるために。わたしの涙を堰き止めるために。


 そんなれんの様子を見て、わたしは思った。


 もし約束の通りにれんがわたしの隣にいてくれるのなら、わたしはずっとれんを守り続けようと。

 ちっさくて、弱くて、かわいくて、勇敢な、わたしの大好きな妹を守るために、一生を捧げようと。


「ありがとう」


 そんな言葉と共に、結ばれた小指に力を込める。


 涙が弾けた視界、れんだけで埋め尽くされた世界。約束の隣で、密かな誓いを立てた。




 夢と記憶と現実が混ざり合う、朝の空気。わたしは、れんの寝顔を見つめる。小さなころから、変わらない、安らかな表情。


 多分れんはもう、とっくの昔に、約束は忘れてしまっているだろうけれど。それでも、わたしは覚えている。あの日のれんの優しさを、勇気を。


 わたしの心を救ってくれた約束と、胸に刻み込まれた誓い。わたしはれんの身体を強く抱きしめ、囁く。


「わたしがずっと、れんを守るからね」

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