第36話 ガンバレ
朝、ひと足先に家を出るれんを見送る。部活用の真っ黒なジャージに身を包んだれんは、いかにもスポーツ少女といった感じで、いつもと少し印象が違って見えた。ただその中で、お揃いで買った白色のシュシュを大事そうに手首につけていて、それが無性に嬉しかった。
「いってらっしゃい、頑張ってね」
「うん。いってきます」
れんはいつもと変わらず、淡々と告げる。それから、玄関から一歩踏み出す、と思われた。その直前で、踵を返して、わたしの方へと歩みよる。
ぎゅっと、れんの身体に包まれる。その一瞬の抱擁、れんは耳元で囁く。
「がんばるから、見ててね」
その言葉に、昨晩の頰に触れた体温が蘇るようだった。
「わー、広いね。こんなところでれんは試合するんだ」
「あ、あそこ。妹ちゃんと、島本さんもいる」
市民体育館の上部に備え付けられた観覧席。わたしたちは一面に広がるコートを眺める。れんたちが試合をするAコートの正面の扉を開けてすぐ、友香ちゃんが目ざとく、れんと島本さんを見つける。
れんたちは試合前のウォーミングアップで、ゴールに向かって順番にシュートをしていた。
れんが島本さんからパスを受けてシュートを放つ。れんの動きは滑らかで、指先から放たれたボールは綺麗な放物線を描いて、ゴールに吸い込まれる。その洗練された動作から素人目にも、れんが上手なのだとわかった。
「あれが選抜の川井さんかぁ」
「やっぱかっこいいね」
周囲に座る、ユニフォーム姿の他校の生徒からそんな声が聞こえる。凄いとは知っていたけど、そんな噂になるくらいだったんだ。
姉として、誇らしい気持ちが沸々と湧いてくる。
すると、シュートの動作を終えたれんがふと、こちらを見上げた。物凄い速度でわたしを見つけ、視線が合う。
周囲から黄色い歓声が上がった。
れんはそんな声にも頓着せず、わたしの手首につけられた黒色のシュシュを指し示すように、自分の手首を軽く叩いた。流石にプレー中にシュシュはつけられないのか、れんの手首には何もついていないけれど、それでもその合図から、わたしとれんだけが繋がっているみたいで、嬉しかった。
わたしも自分の手首をシュシュごと握りしめながら、口パクで、がんばれ、とエールを送る。
思いが届いたのか、れんは軽く頷いて、チームの輪に戻っていった。
「今、川井さんと目があったんだけど」
「てか川井さんめっちゃこっち見てなかった?」
周囲が色めき立つ。
「妹ちゃん、凄い人気だね」
「そうだね」
友香ちゃんとそんな言葉を交わす。
それから程なくして、笛が鳴らされ、両チームの選手がベンチに集まる。選手は上に羽織っていたジャージを脱いで、ユニフォーム姿になる。れんのユニフォーム姿は、スタイルの良さが余す所なく主張されていて、カッコよく、綺麗だった。黒色のユニフォームに白で縁取られた7番の背番号が輝いて見えた。
それから、もう一度笛が鳴り、両チームの選手が整列をして、コートに入る。握手を交わして、円陣を組み、いよいよ試合が始まる。
体育の授業でも見かける、ジャンプボール。各チームの選手が中央に集まる。れんのチームは8番をつけた島本さんが飛ぶようだ。
ボールが審判から頭上に投げられ、ゲームがスタートする。島本さんが先にボールに触り、れんがそのボールを拾う。
れんを起点にパスが数本繋がり、ゴール下に陣取る島本さんを介して、またれんにボールが戻ってくる。れんはドリブルで1人相手を交わして、そのまま跳躍した。
れんの動作はやはり美しく、放たれたシュートはすっぽりとゴールネットに収まった。れんのチームに3点が入る。
そこから、試合は目まぐるしく動いた。バスケは攻守の入れ替わりが激しく、目で追いかけるのがやっとだった。正直、2点と3点の違いもあまりよく分かっていない。ただ一つ、素人目に言えることは、れんがチームの中心だということ。島本さんがゴール下でボールを拾い、れんがシュートを決めるというのが何度も見られた。島本さんに限らず、たくさんのパスがれんに集められ、れんはそれをことごとくゴールに沈めた。
私だけを見ててね。
昨日のれんの言葉が蘇る。そんな言葉がなくても、視線はれんに釘付けだった。懸命にプレーする選手たちは皆それぞれに輝いていたが、その中でもれんは一際目立っていた。バスケのことは何も知らないわたしでも感覚でわかってしまうくらいに。
「かっこいい」
思わず呟く。
「すごいね」
友香ちゃんもそう言って頷く。
バスケのルールもわからず、ただれんだけを見つめ続ける。普段の不器用さが嘘のように、躍動するれん。美しさを振り撒くように、走ってボールを弾ませて、跳ねる。こんなに凄い子と同じ屋根の下で暮らして、甘えられたり、一緒に寝たりしているなんて。姉ながら信じられない。
れんの活躍はわたしの心を揺さぶった。コートとスタンドという距離以上に、れんが遠く感じた。れんはピッチの上では、一人のアスリートだった。
そのことが嬉しくて、誇らしくて。
寂しくて。
祈るような気持ちで、試合を、れんを見つめる。
両チームのスコアボードは何度かブザーが鳴り試合が途切れてもなお拮抗していた。
「これが最後の10分だね」
友香ちゃんがそう教えてくれる。その後も両チームはシーソーのように同じペースで得点を重ね続けて、スコアボードには84ー85という表示。残り5秒。れんのチームがビハインドで迎えた最後の1プレー。
れんに、ボールが渡った。周囲から歓声が上がる。会場の熱がれんだけに注がれる。わたしは手首のシュシュに触れながら、呟く。
「がんばれ」
れんが、あまりにも美しい動きで跳ぶ。ブザーがけたたましい音を立てて鳴る。わたしの心臓の鼓動も弾む。それらを切り裂くように、放たれたボールが綺麗な放物線を描いて静かにネットを揺らす。
その瞬間、視界から心まで、全てをれんに奪われた。
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