死の谷底
俺の視界が開けていく。
しばらく気を失っていたのだろうか。
すぐにぷるんっとした水銀の塊を発見した。
サイズが小さくなっている。
40Lあったはずだが……半分くらい落下の衝撃で飛散してしまったらしい。
周囲を見渡す。岩なだれにより地形は乱れている。
「これに巻き込まれて助かったのか……」
『
ただのラッキーではない。水銀という液体の性質を使ってクッションのように衝撃を吸収するのは考えていた防御方法だ。高所からの落下も想定済みだった。
そのため谷底に落下すること自体は恐れていなかった。
大丈夫だろうとは思っていた。
俺が恐れていたのは、上からの衝撃だ。
俺が持つ無敵の魔道具にも弱点はある。応答速度にこだわったおかげで、軽く素早い攻撃にはめっぽう強いのだが、重たい圧殺するような攻撃は苦手なのだ。
トレードオフの関係だ。液体は臨機応変の防御に優れる一方で、構造的な強度を確保できない。だから、巨大質量に襲われた際、銀膜では防ぎきれない。つまり落石が直撃してたらたぶん潰れてしまっていた。
「岩に潰されなかったのは幸運だったぜ……いてて」
痛む肩を押さえながら、上を見上げる。霧が深い。どれだけの高さを落下したのかすらわからない。
悪いことは、上に昇れる気がしないこと。
良いことは、あたりに死体が見当たらないこと。
「落ちたのは俺だけか? だったら、まぁいっか」
マーリンやシェルティ、仲間たちを守れたのなら及第点といったところだろう。
「さて……どうするか」
俺は深い谷底を見渡しながらつぶやいた。
上に戻らないといけない。土属性の魔術で地道に足場を作り、谷の壁を昇っていくというのが、ぱっと思いつく方法だが。
「ぐるるるる……」
「ん?」
谷底を抜けている幅広の川から、怪物があらわれた。
巨大な瞳をもつ黒いカエルの怪物だ。
ぴょんっと跳ねあがり、口から黒い息を吐きだしてきた。
俺の魔眼はそれが死の魔力を有するものだと識別する。
「うわぁ! あぶねえな!」
本能的に遠ざかり、魔術を用意する。
化け物には早々に退散願おう。
「残り火、灰燼、黒き焼け野原
──三重詠唱『第二魔術:
黄色い火炎が勢いよく噴射された。
分厚い霧に光が乱反射して、周囲が一気に明るくなる。
手元から勢いよく離れていく火炎により、黒い霧ごと奥へ奥へ押し流され、あとには赤く熱を帯びた地面と、黒い炭だけが残った。川の水も蒸発させてしまったようで、水蒸気が発生し、ことさらに視界が悪くなる。
だが、黒いカエルが死んだことは確認できた。
「そんな強くはないな……いや、待てよ、気配がそこら中に──」
気配を感じて、俺は周囲へそっと視線を流す。
黒いカエルが霧越しに俺を見つめていた。
谷の壁などにも相当数、張り付いている。
谷壁に土属性魔術の工事を施している間に、襲われたらたまったもんじゃない。つーか、そもそも、いま
「こほん。まぁ、落ち着いてもらって。話をしましょうか。えっと、ひとまず土属性の魔術神経が復旧するまで10時間ほど」
「ぐるるるる」
黒いカエルの包囲が少しずつ狭まっている。
「あぁ! そうかよ! やってやるよ! だったらかかってこいよぉ!」
「「「「ぐるるるるるるー!」」」」
「赤刻の肺、魔人の呼吸
残り火、灰燼、黒き焼け野原
──追加三重詠唱『第二魔術:
俺はカエルたちと死闘を繰り広げた。
それから数日が経過した。
俺は膝を抱えて縮こまっていた。
「限界だ……力がでねえ……」
谷底生活初日に魔力を使いすぎた。十分な休息と十分な食事がなければ、魔力を回復できないというのに。采配ミスだ。魔力保管量に困ったことがなかったので、見誤った。
あと飢えの問題もある。落下の際、荷物を紛失して道具を失ったうえに、谷底で食料を見つけられなかった。仕方がないのでカエルの肉を食べようとしたが、死の魔力を含んでいるようだったので、食用にするのは諦めた。
おかげで俺の残存魔力は、雀の涙ほどだ。
お腹空いたし、睡眠不足だし、気分は最悪だ。
「上流にいけば海抜はあがるよな……」
ここにとどまっても出来ることもないので、ひとまず上流を目指すことにした。
とぼとぼ歩きつつ、カエルが来たら『第二魔術:火線』でカエルの両目を穿ち、最小の魔力で無力化しつつ進んだ。
歩いて行く先、霧が濃くなっていた。しばらくカエルを見ていなかった。たぶんもう半日くらいは、見ていないと思う。
最後には滝を見つけた。
「だよなぁ」
俺は滝壺の近くで、そっと腰をおろして、膝をかかえた。
『
「シェルティ、アーケウス、ギガガブリ、同盟のみんな、俺はここまでみたいだ」
あのアカヤギの言っていた通りだ。
誰一人帰らなかった谷。
ちょっと己惚れてたかもな。
俺なら例外だと思ってた。
「姉さん、ラル、父さん、母さん、すみません、英雄になろうとしてしまいました。手の届く範囲のものだけ、大事にしようって、決めてたのにな……」
凄まじい落水音以外、何も聞こえない。
深き死の谷底。誰も助けに来るわけもない。
俺は目を閉じた。
己の無力を悔いた。
『
少しでも長生きできるように。
てしてし。
手の触感。
叩かれている。
俺はぼんやりした意識のなかで、それを感じ取り、目を開いた。
「ハウハウ!」
滝壺の水面から身をのりだす少女がいた。
美しいヒレと濡れた蒼髪。
俺は目を大きく見開いた。
「ハウハウ~♪」
湖で出会ったセイレーン。
「君は……えっと、ミルだっけ」
ミルという発音を認識できたようで、彼女は眼を輝かせて、嬉しそうに笑んだ。
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