サクリファイス やがてサヨナラを告げる君
夢乃間
一章 厄病神
第1話 黒い線が出逢わせた
高校入学まで一週間に差し迫った今、俺に一つの異変が起きていた。白髪の量が多くなったり、朝目覚めるのが困難になってきたという些細な事ではない。
視界に、黒い線が浮いている。初めて黒い線が見えたのは、三月の初週。つまり、中学を卒業した後からだ。それは唐突に現れ、地を這う蛇のように揺れ動いていた。黒い線はへその緒のように俺の腹部に繋がっていた。
この一ヶ月、モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、俺は黒い線の謎を考えてきた。何故突然視界に映ったのか。この線は何処に繋がっているのか。分かっているのは、日に日に黒い線の色が濃くなっている事と、俺以外の誰かの鼓動を感じる事。
「ハァ。来週には高校生だってのに、憂鬱だ。外は雨だし」
窓を開いて、外の景色を眺めた。外は酷い雨で、まだ午前中なのに、夜のように暗かった。そんな中でも、この黒い線は色濃く、ハッキリと捉えられる。
「早い内にこの線の謎を解き明かさないとな」
あと一週間で高校生。あと三年耐えれば、俺は学生という枷を外される。好きな仕事に就いて、好きな事をして、ようやく満足のいく死を迎えられる。
そんな事を考えながら、黒い線を眺めていると、おかしな事に気付いた。今まで何処かへ伸びていた線が、下へ伸びていた。その行方を目で追っていくと、俺の家の前に立つ女性と思わしき人物に辿り着いた。
黒い、というのが第一印象な程、黒が印象的な女性だ。背は恐らく二メートルを超えていて、二階からでも身近に感じてしまう所から察するに、三メートルもありえる。服装は悪魔払いの映画で見る神父のような格好だが、肌に密着している所から、長袖のドレスにも見える。出るとこ出てて、色々とデカいというのが第二の印象だ。
「何者だ?」
そう呟いた俺の言葉が聞こえたのか、女はゆっくりと俺の方へ顔を向けてきた。咄嗟に目を見ないように顔を背けようとしたが、その必要は無さそうだった。女の顔には、黒いベールが掛けられており、白い肌が薄っすらと透けて見えるくらいだった。
だからといって、平然としていられない。肌に走る寒気が警鐘を鳴らし、窓を閉めて女の視界から外れた。
黒い線に繋がれた相手があの女だと知れたのは、黒い線の謎を解き明かす重要な手掛かりだ。まずいのは、その女がどうやってか、俺の家の前まで来ている事だ。あんな女と知り合った事も、見かけた事も無い。一度見れば記憶から抜け出ない程に、あの女は印象深い。偶然、家の前で立ち止まっていたという考えは、あまりにも非現実的過ぎる。
あの女は辿って来たんだ。黒い線に導かれて、俺の元へ。
「……鍵、窓!」
部屋を飛び出し、一階へ駆け込んだ。俺の家は玄関の扉以外、基本的に鍵を閉めない。リビングから外に出られる窓があるにも関わらずだ。きっと今日も鍵を掛けていないはず。
俺がリビングに辿り着く頃には、既にあの女も窓の前まで来ていた。タッチの差で、俺は窓の鍵を閉める事が出来た。
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
窓を隔てて、俺と女は対面している。十代後半の平均的な身長の俺と比べ、女の背は腰を曲げた状態で俺の倍はある。顔にベールが掛かっているとはいえ、真っ直ぐと視線を向けられているのを感じていた。顔を背けようにも、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまっている。
「……家の中には入れねぇぞ」
「……」
「言葉が通じてないのか? それとも喋れないのか? どっちにしろ、帰れ!!! ゲットアウェイ!!!」
声にドスを効かせてみたが、女は依然として俺を見続けていた。昔から色々と不可思議な現象や存在を目にしてきたが、ここまで至近距離に近付かれたのは初めてだ。恐怖よりも新鮮味の方が強くて、気が楽になってきた。
体を動かせるようになり、俺はキッチンで淹れたコーヒーを飲みながら、窓の前に立っている女を観察した。
腰まで伸びた長い黒髪。顔に掛かっている黒いベール以外の装飾品は無く、服装も黒以外の色が無い質素さ。手にはレースの手袋を着けており、吸血鬼のような白い肌が透けている。全体的に細い体だが、胸やお尻は豊満で比率がおかしい。
「変な体」
俺が呟いた言葉が女の逆鱗に触れたのか、女は勢いよく窓に手を当てた。爆発音のような豪快な音と共に揺れる家。彼女を怒らせたら、藁の家のように吹き飛んでしまう。
「悪かった! 悪かったって! 初対面なのにデリカシーが無さ過ぎたな? ごめん、謝る。謝るから、家を壊さないで? この家は俺の家だけど、実際は俺の家じゃない。この家を買ったのは俺の祖父母で、今日までありがたーく住まわせてもらってきたんだ。この家が壊れるのは、祖父母の恩に仇を返すようなもの。分かった?」
俺は女に謝罪を行いつつ、情を盾にして怒りを鎮めようとした。どんな人間であっても、家族の情をチラつかせれば、少しは迷いが生じる。実際、女に罪悪感が芽生えたのか、女は窓を叩いた自分の手を眺めている。
「とにかくだ。俺はあんたを家に入れるつもりは無い。昔からの知り合いならともかく、あんたとは初めてだ。接点が無いんだよ」
すると、女は俺の腹部を指差した。俺はすっかり忘れていた。俺と女の接点。それは、突如視界に現れた黒い線で俺と女が繋がっている事だ。
「……あったな、接点……コーヒー飲むか?」
俺の提案に女は頷いた。窓の鍵を開け、女を家の中に招き入れた。ボタボタと落ちる水滴を見るに、実体ではあるようだ。先にタオルを用意しておくべきだった。
俺が淹れたコーヒーを両手で持って飲む女を眺めていると、不思議な気持ちになってきた。明らかにおかしな状況だというのに、これが正常だと思えてしまう。それどころか、充実感まで満たされている。
まるで、欠けたピースがハマったような。女と一緒に過ごすのが、当たり前だったかのような。
「なぁ。あんた、名前は?」
「……」
「本当に喋れなかったのか。じゃあ、紙に書いてくれよ。日本語でも英語でもいいからさ」
紙とペンを差し出してみたが、女が触れた途端に、紙とペンが忽然と消えてしまった。消えた紙とペンが何処へ消えたのか気になるが、喋る事も文字を書く事も出来ないのでは、明らかにする術は無さそうだ。
「じゃあ、俺が頭に浮かんだ言葉を名前として呼んでいいか?」
少し興奮しているのか、女は勢いよく頷いた。若干、犬のように思えてきた。
「クロ。黒以外だと、デカいしか出てこないからな。クロでいいだろ?」
自分でも安直な名付けだと思う。それでも、クロは非常に喜んでいるようだ。その喜びのあまり、俺に抱き着こうとしてきている。
「ちょっと待った!!! 触れるのはマズくないか!? せめて遺書書かせ―――」
死に際の言葉を言い終わる前に、俺はクロに抱擁された。幸い、紙とペンのように消える事は無かった。線香に似た落ち着く匂いと、柔らかな感触。不満点としては、クロの濡れた服の所為で溺れ死にそうな所だ。
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