【アップ】男山教会2023年9月3日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】男山教会2023年9月3日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=BQlptLyQduk&feature=youtu.be


【アメーバブログ】

聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。

ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12819705123.html



前奏

招詞 詩編85編9~14節

頌 栄

たたえよ、主の民[こ改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問51

「洗礼のめぐみ」

こどもさんびか

ガリラヤのかぜかおるおかで[改54(4節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 188番

聖書

使徒言行録17章10~15節(新約P247)

詩編119編105~112節(旧約P964)

説 教

「日々聖書を調べて

~御声を聞く教会の自己吟味」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 284番

使 徒 信条

聖餐式

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 542番

祝 祷

報 告



讃美歌~♬


讃美歌188番(歌詞付)讃美歌188番「みかみのことばよ」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=fPpFXJHG_b4

(ブログを見て頂けると讃美歌の歌詞も閲覧できます)


讃美歌284番(歌詞付)54年版「主のとうときみ言葉は」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=TFIWwaptF6s


1 主のとうとき みことばは

  わが生命(いのち)の もといなり

  たよるわれは 安けしや

  世にまたなき みことばよ


2 ただ我のみ汝(な)が神ぞ

  おそれず行け ためらわで

  力つよき 我が腕(かいな)

  なれにそいて はなれじ


3 なやみの火は燃え上がり

  なげきの河 あふるとも

  めぐみの手に すがりなば

  つねに勝ちて あまりあらん


4 老いの坂を のぼりゆき

  かしらの雪 積もるとも

  変わらぬ 我が愛におり

  安けくあれ 我が民よ



2023年9月3日 礼拝説教 中心聖句 



ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

使徒言行録17章2節


わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。

詩編119編109節


はじめに

主の言葉を聞くことから、信仰が始まり、信仰から信仰へと導かれる。

「兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをべレアへ送り出した」とは、テサロニケからべレアへ(西に約100Kmの内陸の地)、隠密に移動したことを物語る。「二人はそこへ到着すると、(次の)ユダヤ人の会堂に入った」。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直」であった。この「素直」とは、素性というよりも、むしろ、聖書に向かう態度において、「偏見のない」「公平な」姿勢であったこと。「非常に熱心に御言葉を受け入れ」とは、「自ら進んで」「心をこめて」、パウロたちの「言う事」(主張、教え、証し、根拠)を、率直に受け取ったこと。「そのとおりかどうか」とは、その「言う事」が、本当に正しいかどうか、を確かめたこと。「毎日、聖書を調べていた」とは、当時、会衆が皆、自分の聖書を持っていた訳ではなく、会堂に備えられていた、ヘブライ語とギリシャ語の聖書(内容:律法と預言者と詩編、形態:巻物)を、安息日以外の週日も、パウロたちに教えられながら、調べたということ。ならば、そこで、教えられたことは、これまでの伝道地同様、十字架の苦しみを受けられ、死者の中から復活された、イエスこそ、神の約束された、まことの王、救い主、主、キリストであること(ヨハネ福音書5章39節)。

「そこで、そのうちの多くの人が信じ」とは、多くのユダヤ人が、回心したこと。そして、「ギリシャ人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った」とは、パウロの伝えた「ことば」を「神の言葉」として受け入れたのと同時に、自分たちも、当時のユダヤ人の中で、罪人が救われるためには、ただ(神の契約と律法の要求を満たされた)キリストの福音を信じるのみであり、旧来の律法と神殿を不要する福音の特質からして、旧来の教えに反する教えではないか、との疑義を負う危険を負う身になったことを物語る。「ところが、」その時、「テサロニケのユダヤ人たちは、べレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた」。

かつてのパウロ(サウロ)(使徒8章1節)、ステファノが弁明した最高法院の者たち(使徒7章57,58節)がそうであったように、最も激しい迫害は、一定のユダヤ人から。「神の言葉」が宣べ伝えられ、ある者たちは、更に教えに導かれ、聖書を調べつつ、信仰も深まっていくのに対して、ある者たちは、真っ向からキリストに反抗する(マタイ福音書13章41~43節)。「それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはべレアに残った」。それは、ある者たちの迫害の中でも、主に守られ、べレアの兄弟姉妹たちが、引き続き、良い手引きを与えられて、聖書を調べ、キリスト信仰と主にある交わりを深めたことを物語る(使徒8章31~35節「フィリポの手引きを受けたエチオピア人の宦官」)。

おわりに

「わたしの魂は常にわたしの手に置かれています」とは、「私はいつもいのちがけでです」(新改訳2017)のとおり、身の危険を告白する。「神に属する者は神の言葉を聞く」(ヨハネ8章47節)。真の信仰者たちは、日々、自分を「よく確かめたうえ」(コリント一11章28節)で聖餐式(主の晩餐)にあずからねばならない。



(Mynote)


二〇二三年九月三日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守る事が出来て神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『子供と親のカテキズム 問五一』

「洗礼とは何ですか?」

「父・子・聖霊なる神様の御名によって行われる水の洗いです。洗礼は、イエス様と結び合わされ、罪赦され、永遠の命が与えられ、神様の子供とされた事を示す礼典です。」

(公同礼拝)

『使徒行伝』(第一七章一〇〜一五節)

『詩篇』(第一一九篇一〇五〜一一二節)

この『使徒行伝』の箇所は先週から引き続き、パウロとシラスがユダヤ人達に追われ、ヤソンの家が襲撃された上で市の当局者の元へ連れて行かれ、そこで有る事無い事言われた上で、処罰が下された場面の後のエピソードである。ヤソンがその処罰を受けさせられた上で保証金を支払わされ、パウロとシラスは捕えられず、そのまま他の兄弟達に従う形で、夜の間にベレヤという町に辿り着く事になる。そのままテサロニケ地方に留まって居れば、パウロとシラスはそこのユダヤ人達に捕えられ、或いは殺されて居たかも知れない試練に在った。

このパウロ達の福音宣教はまさに命懸けである。

そしてベレヤ地方に居たユダヤ人達は、テサロニケ地方に居たユダヤ人達より素直な人達だった。この「素直」と言う点に注目せねば成らない。

「何に対して素直だったのか?」

これが先ず問題になり、その素直に聴き従う先・対象が正しいものかどうか?ここが大きなポイントになる。大事な事は「聖書に聴く事」であり、神様に対して素直である事、従順に聴き従う事が基本となる。詰り人に対して素直になるのではなく、神様に対して素直である事。聖書の御言葉を素直に聴くとはそう言う事で、それは自分の主観を捨てて聖書に聴き従い、神様が人に教えた事を全て把握した上、その全ての御言葉を吟味して理解し、心の糧にすると言う事である。

ベレヤの人達は「一度聴いても分からなかったから、もう一度自分達でも(各自で)聖書を学び、その上でやはり素直に神様が何と自分達に言われて居るか?」を従順且つ純粋に知ろうとする姿勢に在った。この点が大事である。

現代でも多くの人はよく、その聖書の中に在る「自分(自分達)にとって都合の良い箇所だけを聴き取る」傾向がどうしても在り、その上で聖書理解を求め、そこで更に得た知識や感動を自分の生活と心の糧にしてしまう。この傾向が強い上で曲解が成長すれば、間違った信仰が生まれてしまい、神様の御言葉から離れ、自分達の信仰(人間の信仰)に成る場合があり、それは本来の信仰生活から掛け離れる事がある。聖書を読んで理解する事は、単なる聖書勉強会ではない。イエス様が全ての人に教えた事を土台とする上、礼拝と賛美の心を以て聖書を学ぶ必要があり、聖霊により聖書に在る御言葉を理解せねば成らない。詰り霊的な理解が必要であり、その上で神様が用いて下さる機会を以て聖書を学び理解する事、この事が信仰の基本と成る。

テサロニケに住むユダヤ人達はこの点で聖書理解を曲解し、自分達で作り上げた宗教観を前提の基軸とした上、その軸から教えた物事に反く者達には悉く処罰を下す、と言った暴力にまで奔走して居た。まさにこれは狂奔であろう。

そしてテサロニケに住むユダヤ人達は、新たにベレヤの地で教えを広めて居たパウロ達の活動に気付き、すぐさまそのベレヤにまでやって来て、群衆を扇動して騒がせた。これは人間側の嫉妬と怒り・傲慢による行動に在り、ここでもテサロニケのユダヤ人達は「信仰に於いて自分達が何をして居るのか解らない状態で居た事」になるだろう。信仰とは時に「自分達の教えこそが唯一の正義」と見定めた上、それ以外の宗教を邪教と見做し、暴力を以てその邪教と見做した教え・その教えに従う人達を悉く滅ぼそうとする。しかしその「自分達が正義とした宗教」こそが邪教だった場合、人間が人間の理解と偽の信仰を以て他人を裁く事に成り、更なる罪を犯す事に成ってしまう(そう成り兼ねない場合が非常に多い)。

そもそもテサロニケのユダヤ人達がパウロ達を狙った理由は、イエス様の存在を否定し、旧約聖書の教えだけを頑なに正義と信じ、聖書の全体を理解・把握して居なかった事に始まって居る。それを認める事が出来ず、それ迄の自分を否定する事が出来ず(傲慢により)、その受け入れられない思いと信念が他人を攻撃するものに成り代わって居た。もしこれが逆の立場で、パウロ達がテサロニケのユダヤ人達を(同じ理由で)迫害し攻めた時、おそらく同じ事が起きてしまう。詰りテサロニケのユダヤ人達にとってもその信仰は命懸けで守ろうとする信仰と成り、その強い信念同士が打(ぶ)つかり合う事に成る。多くの宗教戦争・紛争の前提と土台も、この(神様が創られた本来の)兄弟姉妹達を損ねても良いとするほど激しい信念と感情が打(ぶ)つかり合う事に生まれて居るのだろう。

御言葉に聴くと言う事は、神様の下(もと)で自分が今どう在るのか?どう在るべきか?を問う自己吟味に始まり、自分の罪の悔い改めを土台に、その後の信仰生活を神様に祈り願い求める事にその成長が在る。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教23 「心の貧しい人」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=ov7YHt4DAzM&list=PLsm9yO2iPJwbdJksJGAKNxpg1NbzEP7W9&index=23


「ジーザスが私を支えてくださる」 - THE DAILY with Arthur Hollands 2023/09/09

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=b_cktHdxIK8


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)


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