妻の顔に見覚えがない

アミノ酸

第1話 妻の顔に見覚えがない

 時刻は八時の少し前。スマホのアラームが鳴る前に愛猫の鳴き声で目が覚める。

 朝ごはんをもらった事を報告しているのか、甲斐甲斐しく俺を起こしに来ているのか、妻の三十回目の誕生日にお迎えしたラグドールのミッシェルは土曜日だろうとお構いなしにベッドの周りをウロウロと歩き回っていた。

 ニャッニャッ、と短く鳴くのは寝ている俺への気遣いなのか早く起きろという催促なのか。応えるように身体を起こし尻尾の付け根を撫でてやる。

 三階の寝室から二階の居間へ階段を降りて行くと足元を擦り抜けてドタドタとミッシェルが俺を追い越して行く。

 ニャッ、と短く鳴く声に続くように居間からもう一人の家族の声が聞こえてくる。


「今日はおしゃべりだね、ミッシェル」


 まだ部屋着のままの妻がしゃがみ込んでミッシェルを撫でていた。

 眼鏡をかけて髪を後ろで束ねた姿は無防備で、バリバリのキャリアウーマンである彼女の気の抜けた格好は俺しか見たことがないだろう。


「やぁ」


「やぁ」


 結婚して七年が経った。

 いつしかおはようやおかえりといった挨拶は全てやぁという一言で済まされている。

 一日に一、二回交わされるとして二千回程度はやぁやぁ言い合っていることになる。

 子供はいないが愛する猫がいる。三十五年のローンで小さいながらも不便しない立地に一軒家も買った。

 仲睦まじい幸せな、自慢の家族がそこにいた。

 ただ、その妻の顔に見覚えはない。


 相貌失認や失顔症と呼ばれる病気があるらしい。

 有名な映画スターがカミングアウトしたことで一時的に認知度が高まったその症状を目にしてドキリとしたが俺のはどうもそれとは違った。

 いや、正式な医療機関で診断を下された訳ではないので違う気がするとしか言いようがないのだが、インターネットに散りばめられた当たり障りのない記事やらブログやらを読むも微妙に当てはまらず病院に行こうとも思えない。

 件の症例は、顔のパーツは認識できるが顔として捉えられなくなるだの、人の顔が覚えられないだのといった症状らしいが、俺にはバッチリ目鼻口の集合を顔だとして認識出来ているし、人の顔を覚えるのは得意な方だ。

 しかし、一緒に暮らす妻の顔だけが見慣れない。いや、慣れないのではないな。

 毎日違う顔に見えてしまっていた。


「朝ごはんはまたお米とコーヒー?」


「空きっ腹にコーヒー飲むと気持ち悪くなるんだよ」


「お米とコーヒーは合わなくない? って意味だよ」


 今のは佐藤くんがおかしいよね、とミッシェルに同意を求める妻の立ち振る舞いは出会った高校時代から変わらない。

 高校一年の春に知り合い、大学時代に交際をし、社会人になり結婚して七年が経とうとも俺は佐藤くんと呼ばれ続けているし、俺は妻を鈴木さんと呼び続けていた。

 出会ってからもう十五年以上経つのか、とふとした時に何度も驚く。

 当然毎日顔を合わせた訳ではない。しかし、一ヶ月以上会っていない期間はないかもしれない。

 その間、俺は毎度彼女の顔を見失っていた。


「はい!」


 俺が解凍された白米を茶碗に移していると元気よく鈴木さんが挙手をした。

 晴れやかな笑顔で俺に当てられるまで挙手を止めようとしない。


「では、鈴木さん。どうぞ」


「今日はケンタッキーを食べます!」


 彼女は鶏肉が好きだ。焼き鳥でもフライドチキンでも好き嫌いせず食べる。だが、本当はクリスマスにスーパーに並ぶローストチキンが一番好きらしい。

 彼女はチョコが好きだ。照り焼きが好きだ。漫画が好きだし、猫が好きだし、派手なハリウッド映画が好きだ。

 こんなにも好きなものを把握しているのに俺は彼女のことを毎日別人だと思ってしまう。

 頭では自分がおかしいことに気がついている。共通の友人も両親も彼女の変化に触れないのだから。

 写真や動画を見返しても一日経てば違う顔に見える。どれが鈴木さんかを当てることはできるが、それは立ち位置や着ている服装で当てているだけに思えてしまう。まるで答えを覚えてしまった問題集の選択肢を間違えないような本質的ではないような不安は拭えない。


「ケンタッキーを食べる以外にしたいことは?」


「散歩してお腹を減らして……。ケンタッキー食べてスーパー行って、薬局も行きたいな」


「じゃあ、夕方前には全部終わりそうだね」


「明日何やるか会議しないと」


 二人掛けのソファーに並び俺だけが朝食を食べている間、鈴木さんはクッションを抱えながらスマホを眺めては明日何やるか会議に提出する議題を考えていた。

 ンッと声を漏らしながらミッシェルがテーブルに飛び乗ってくる。俺の茶碗とコーヒーグラスの匂いを嗅いで安心するとテーブルの上で溶けるように寝転んだ。

 毎週繰り返される穏やかな土曜日の朝。

 二人で並ぶ時、左側に俺がいて右側に妻がいる。

 それが二人が落ち着く固定位置。

 もっとも心が落ち着くはずの時間、場所の筈なのに初対面の人が我が物顔で妻の場所にいる違和感に慣れることはない。

 コーヒーを飲みながら今日の妻の顔を眺めてみた。

 頬には昨日までは無かったはずのホクロがあった。



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